読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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春告げ坂 安住洋子 著
江戸の小石川養生所で働く若い医師とその周辺の人達を描いている本。 小石川の養生所というと山本周五郎の赤ひげ先生を思い浮かべてしまう。 てっきり、どこかのタイミングで赤ひげ先生が出てくるものだとばかり勝手に思いこんでしまっていた。 蘭学が出来れば・・・蘭方医であれば・・治せたかもしれない病の人が一人、一人と亡くなって行く。 小石川の養生所は官が仕切っているところなので、医師は死者を出せば査定に響く。 だから要領のいい医師は「治らない」と見切れば、強制退去をさせて行く。 そんな中で最後まで看取ってやろうという若い医師。 そんなの人情話を一編、一編重ねて行くのだろうと思っていたが、どうやら違った。 それだけでは無かった。 この話、武士の物語だった。 彼の父、上役の詰め腹を切らされたと聞かされていたが、父の生き様はそんなものでは無かった。 そこは物語のクライマックスなのであまり触れない方が良いのでしょう。 それにしても方や腹を切る父、方や切った腹を縫合する医師という職業の息子。 そんなことを因縁めいて書いている訳ではないが、なんとはなく因縁を感じてしまった。 小石川の養生所は幕府が設置した医療施設で実在したものだ。 こういう無料で一般市民向けの養生所のような施設は日本には奈良時代から存在している。 医療のグローバル化など言われて久しい昨今。 タイのバンコックあたりでも世界の先端治療が受けられるのだとか。 とはいえ、それはあくまでも高い渡航費用を支払うことの出来る外国人に与えられるものであって、バンコックの市民に与えられたものではない。 21世紀の現代にあっても、ほんのちょっとの医療がない、もしくは不衛生が原因でまだまだ若い人たちがいとも容易く亡くなって行く国が世界にはいくらでもある。 この養生所の看護中間たちがばくちにうつつをぬかすのはご愛嬌のうちだろう。 あらためて日本の先人たちのすばらしさを思わずにはいられない。 27/Feb.2012 獺祭 野口卓 著
南国の小さな藩が舞台。 いわゆる剣豪小説という範疇の読み物だ。 道場主の主人公の目標は戦わずして勝つ。 いわゆる究極の強さを目指す。 あまりにも強いと評判になると、向って来ないだろう、というもので、さしずめ現代で言うところのナントカの抑止力を目指しているようにも思える。 と、言いながらも自ら編み出した秘剣というやつを使って一撃のもと、刺客を殺してしまう。 しかも二回も。 なんじゃそりゃ。 物語は四篇から成り、弟子の家庭での問題やらをその面倒見の良さで解決して行く話の運びが中心だが、剣についての描写よりも寧ろ軍鶏(しゃも)についての詳細な描写が印象に残る。 かわうそが捕まえた魚を岸の石の上などに並べるさまを獺祭(だっさい)というのだそうだ。 彼の正岡子規が名乗った号はいくつもあるが、その中に確か獺祭書屋主人という号もあったかと思う。 獺祭という響き、やけに文学的な匂いがするのだ。 この本、軍鶏好きの道場主の語。 主人公が獺祭の場面に出会う以外、獺祭とは無縁である。 何故そのような文学的響きのタイトルを付けたのだろうか。 この作品の前に「軍鶏侍」という一冊があったようだ。 ならばサブタイトルにある様に単純に「軍鶏侍(二)」のタイトルで良かったろうに。 へたに「獺祭」などという深みのありそうなタイトルをつけるものだから、読者は途中まで平坦に来ても、いやいや、これから深みが出て来るんじゃないか・・・。 と返って期待されて少々損をしている気がする。 タイトル負け、と言っては作者に失礼だろうか? 22/Feb.2012 ビヨンド・エジソン 最相葉月 著
12人の博士が見つめる未来 取り立てて有名な人が出て来るわけではない。 それでもその道ではおそらく知らない人はいないほどに道を極めた人達。 アフリカの睡眠病という奇病に挑み続ける博士。 若い頃から恐竜好きで恐竜の学問が出来るなら海外だろうがどこへだろうが、飛んで行くような女性恐竜博士。 乾燥地で植物生産の向上を目指す農業気象学者。 言葉の不思議を探究する音声工学者。 ・・・と12人のまだまだこれから活躍するであろう年代の博士が登場する。 第一章の寄生虫学者は幼い頃、シュバイツアーの伝記を読んでシュバイツアーに憧れたという。 この本は全てドキュメンタリーであるが、ある一面12人の短い伝記と言ってもいいだろう。 彼らに共通するのは、国境や言語の違いなど全く厭わない、そんなことはまさに小さな問題だとばかりに世界の各地へ飛び立って行くフットワークの軽さ。 国境や言語の壁などよりもはるかに探究心が勝っている。 ビヨンド・エジソン。確かにその世界ではエジソン超えている。 皆、若い頃に良き師と呼べる人に巡り合い、そこでは満足出来ずに自身の研究を続け、師を超える、もしくは師とは少し違う方向において師と並び立つ存在になっている。 ここに出て来る人達を知っているか、と聞かれたら100人中99人は知らないかもしれない。 それでも彼らの研究は地球に爪痕を残すに十二分のものだろう。 こび本の出版にあたっては、筆者から取材を受けたことであろう。 その取材の結果が、このような本となり、自身で読んでみた感想はいかがなものなのだろう。 くすぐったく思った人もいるかもしれない。 それでもこうして本になってささやかながらも若者に夢を与える側に立ったのだ。 この本の出版がこの先生方のさらなる励みに繋がって行けば、喜ばしいことである。 20/Feb.2012 恋物語 西尾 維新 著
あの傾物語でとことんカブいてしまってからの後も、作者のお約束通りに3月、6月、9月、12月とそれぞれ花物語、囮物語、鬼物語、で最後に恋物語と出版された。 それぞれのキャラクターが怪異から完全開放されて化物語が終焉して行くものだとばかり思っていた。 花物語では神原駿河のするがモンキーが終止符。 囮物語では千石撫子が終止符・・と。 鬼物語は忍の終止符で花物語で戦場ケ原に終止符がうたれるんだろう、と思っていたが、違った。 花物語では阿良々木君の卒業後が舞台でいきなり飛躍してしまって、傾物語の後にしては、少々肩すかしを喰らったような気分だったが、それなりに終止符。 囮物語では千石撫子が終止符のはずがこのキャラクターに最後の最後まで引っ張られた。 鬼物語は、第忍話 しのぶタイムなどとあるので、忍の終止符かと思いきや、これも違った。あにはからんや八九寺真宵の終止符だった。 少女不十分なんていう10周年記念なんかも間に入ってようやくこの花物語なのだが、なんでここに来て・・・。貝木泥舟が語り部だと。 終わる気ないだろ。 囮物語でメドウサならぬ怪異になったまま引っ張られていた千石撫子がここでようやく終止符なのだが、案の定、巻末にファイナルシーズンの予告の広告が・・。 どのあたりで、完結させるのを諦めたのだろう。 もともとそのつもりだったのか、 やっぱり期間区切ってなんてキツいノルマを自分に課しちゃうから・・。 いつの間にかこのシリーズ、セミファイナルって呼ばれてるし。 まぁ、作者も「100パーセント趣味で書かれた小説です。」って書いているし、読む方も楽しみが先延ばしになった、ということで構わないんですけどね。 冒頭の貝木泥舟の語り。 本に書いてある文章なんてすべてがペテン。 ノンフィクションと帯で謳っていようと、ドキュメントだのルポだのと銘打っていようと全てが嘘だ。 というくだり、なんとなく「少女不十分」にひっかけているような気がしなくもなかった。 わりと人物像が見えにくかった貝木泥舟の新たな一面を見せてくれた、という新鮮味はあるものの、どう考えたってこれでは終われないわなぁ。 やっぱり、ファイナルシーズンとやらもお付き合いするんだろうな。 15/Feb.2012 北天蒼星 伊東潤 著
サブタイトルが「上杉三郎景虎血戦録」 そんな大そうなサブタイトルがついているにも関わらず、謙信の後継ぎとして戦国時代を駆け巡った男などでは全然無い。 謙信亡き後の上杉家がさほど歴史の大役を担っていたわけではないことは承知しているのだが、「もしや?」目新しい観点か?という思いがあった。 で、読み始めてすぐに気が付くのだが、景虎?景虎?景虎?あれっ後継ぎは景勝じゃなかったっけ。 そう。 いつになったら天下を賑やかすのだろう、などと大きな筋書きを期待して読んではいけない。 跡目争いの騒動だけで、これだけの長い話を成り立たせてしまっているのだから。 元々この景虎という人、北条の人なんですね。 北条氏康の子に生まれながらも僧侶への道を歩まされそうになるのを、寺を抜け出してでも武士になろうとする。 そうしたところに越後、相模の(上杉と北条の)同盟話が持ち上がり、その証として越後へ赴く。 言わば人質だ。 妻を娶らない謙信に息子はいない。 それでも後継ぎ候補に甥がいるにも関わらず、その人質を後継ぎ候補NO.1にしてしまう。 この景虎と景勝の跡目争いの戦い、景虎に勝機が無かったわけじゃない、どころか、ずっと敵よりも有利な立場にあって、何度も勝てる場面を逃し続ける。 景虎と言う人、どうも他力本願なのだ。 北条から来たから自身の兵を持たない。 だから持ち上げてくれる家臣団に頼らざるを得ないような解釈で話は進んで行くのだが、曲がりなりにも謙信の後を継ごうという意気込みがあるから戦っているのではないのか。 馬上から声をかけて来るような無礼な家臣は一喝すればいいだろうし、「武将が自分勝手に判断して攻め込むのが越後の戦い方」などと変な割り切り方をして結局、敗戦敗戦を繰り返す前に何故、自身が先頭に立って指揮を取らないのか。 所詮は将の器では無かった人ということなのだろう。 作者は景虎をとことん「善」、景勝をとことん「悪」と描くが、この戦い方や家臣へのおもねりでは、この戦いにいくら勝ったところで、この将では上杉はその代で滅んでいたのではないだろうか。 悪人として描かれた景勝は、といえばその後、豊臣の五大老の一人となり、関ヶ原の後は外様となるものの、江戸時代の赤穂浪士の討ち入りの時にだって、吉良上野介は上杉を頼りにするほどに力のある大名として家は永らえる。 数年前のNHKの大河ドラマで直江兼続が取り上げられてたっけ。 結局、数回しか見なかったが、あれはあれで、いくら直江兼続の兜に愛の字があるからって、民のため家族のために愛を貫くだのって、良くもまぁ恥ずかしくもなくあんな展開が描けたものだ。 最近の大河ドラマはホントに嘆かわしい。 平清盛はどうどうと白河法王の落とし胤で確定みたいなところから始まってしまうし・・。 昨年のお江の方なんて現代ドラマを歴史ものに焼き直しただけかい。みたいなつくりだし。 もはやあそこまでやるなら、よくドラマのエンディングに映し出される「この物語はフィクションであり・・」っていうやつ、絶対に出すべきだろ。 「このドラマは実在した人物を元に描いたフィクションであり、実際の歴史的事実とは無関係です。なんら根拠資料はありません」ぐらい流しておいて欲しいものだ。 とはいえ、この本も謙信から後継ぎに指名されなかった景勝が小姓で陰謀をめぐらせると天下一品の少年、樋口与六(後に直江家を継いで直江兼続となる)のはかりごとを用いて謙信を殺してしまうという展開、まるで大河ドラマ憎しとばかりに・・・。ちょっと作者さん作っちゃいましたか。 09/Feb.2012
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