読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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ラットレース 方波見大志 著
死者の霊が生きている人間に憑依する、そんな類の小説は多々あるが、なんともユニークなお話しである。 優等生の17歳の高校生の女子にみるからに50歳の汚いオッサンが憑依する。 やれビール飲ませろ、タバコ吸わせろ、とまぁ好き勝手なことをのたまう、のたまう。 後輩の中島君は彼女を救おうと、普段なら近付かないオカルト少年の手も借りて・・・。という展開。 まぁ、一番面白いのは美形で優等生の少女にオッサンが憑依するという、このギャップ。17歳の高校生がだんだんオッサンに取って変ろうとしている。 オッサン、曰く「俺は妖精だ」には笑ってしまう。 どういう話に持って行くのだろうと思っていたら、なかなか今の高校生のイジメの構造を解析していたりもする。 「悪いのは他人」 オッサンに憑依されてしまった片里名という優等生の言葉。 「会ったこともないのに面白半分ではやし立てる他人。取り上げたニュース、いじめ特番」 「少女Aの心の闇にせまります」などと言うもっともらしいことを言って人の心をずたずたにしていく他人。 そのあたりがこの本の一番言いたいところなのだろうか。 タイトルの「ラットレース」はどこから来たのだろう。 ラットレースとは?ラットレースの語源とは何か。 「rat race」 を辞書で引くと 「きりのないばかげた競争、猛烈な出世競争」.となっているが、 「rat race」 という言葉、もともと、ネズミが回し車の中をクルクル走り続けることを言うらしい。 仕事をする→給料をもらう→お金を使う→欲しいものが出来る→仕事をする→給料をもらう→お金を使う。 と一生懸命頑張ってみたところで結局同じところをグルグルと回っているだけ。 働けど、働けど、お金も溜まらないし、状況も変らないような様子をネズミの回し車に例えて、そう呼ぶのだという。 じゃぁ、この本の中でのラットレースとは、誰を比喩しているのだろう。 学生たちには、ラットレースという言葉は無縁だろうから、幽霊になって、高校生に憑依したオッサンなんだろうな。 今一、タイトルとストーリーがフィットしているようにも思えないのだが・・・・。 まぁ、あまり深く考えずに気楽に読む本としてはよろしんじゃないでしょうか。 18/Feb.2010 ライラの冒険シリーズ フィリップ・プルマン 著
ハリーポッターやナルニア国物語など、有名なファンタジー文学はイギリスで生まれています。 現実離れした世界で魔法が使えたり空を飛べたり。いろいろなピンチはあるけれど、 最後にはハッピーエンドが待っています。 ところが、このライラの冒険シリーズ、ちょっとほかのファンタジーと違うのです。 ライラの冒険シリーズは「黄金の羅針盤 上・下」「神秘の短剣 上・下」「琥珀の望遠鏡 上・下」の6冊で完結します。 ライラというおてんばな女の子が主人公。 現実に近いような、でも何かが少し違うライラの世界。 明らかに現実と違うのは、ライラの世界ではダイモンという守護精霊を全ての人が持っていること。 守護精霊は動物で、子供のうちは姿を変化させますが大人になるとその人を最もよくあらわす動物の姿に定まります。 ライラはジョーダン学寮とよばれるところで孤児と一緒に育てられていますが、 周りの大人たちはライラが特別な子供であることを知っています。 友達とやんちゃばかりをして過ごしていたライラは、ある美しい女性が尋ねてきたことがきっかけで、学寮を飛び出し冒険へ出かけます。 物語の始まりの「黄金の羅針盤」は冒険の始まりでファンタジーらしい要素が詰まっています。魔女が出てきたりくまに乗ったり。 でも物語が進むにつれ、ライラは人の人生や命を左右することまで選択しなければならない状況へと追いやられていきます。 この物語を読んだきっかけは映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」をDVDで観たこと。 「ライラの冒険 黄金の羅針盤」は小説「黄金の羅針盤 上・下」を映画化したもので、続編も製作予定と聞いていたので本を読んでしまってから続きの映画も見ようと思っていたのですが、本を読み終えて、「コレを映画化できるのだろうか」と頭にはてなが浮かびました。 次回作の公開予定を調べてみるとやっぱり。 北米カトリック連盟が、無神論をといているようなこの作品を観ないようボイコットをしたようで、アメリカでの興行収入が伸びず続編の製作を断念したそうです。 この物語がちょっとほかのファンタジーと違うと言ったのは、ライラの状況から自分の思想について考えさせられること。そして物語の終わり方がハッピーエンドなのかどうかも読んだ人の考え方次第ということ 作者フィリップ・プルマンは「無神論をすすめているなんてばかげている」と話していますが、そう感じる人がいてもしょうがないかなというのが正直な感想です。 だからといって映画にしてはいけないとも、子供が読んではいけないとも思いませんが。当たり前のように何かを信じる怖さもあるし、信じる事で救われることもあるし。 生まれたときから何かをただ信じてきた子供が、ファンタジーの物語を通して、 自分が何をどう信じていくかを考えるチャンスになるかもしれません。 ただ楽しもうと思って読むと、ちょっとしんどいファンタジーかもしれませんが、大人にも子供にもオススメしたい作品です。 22/Nov.2010 ラグナロク-黒き獣 安井 健太郎 著
「ラグナロク」というのは剣の名前。 この剣が何故か話すことが出来て人格を持っている。 主人公は傭兵としての最高レベルまでのぼりつめながらも自ら昇進を辞退して官製の傭兵を飛び出していったリロイという青年。 正義感が強く、弱者を救済し、魔族を次から次へとバッタバッタと倒して行く。 小説としてはどうなんだろう。 小説というもの何某か作者が読み手に伝えたいことがあると思うのだが、伝えたいことが何なのか、最後までわからなかった。 格闘シーンというのを文章で描くのは難しいものなんだな、とつくづく思う作品なのです。 この本、格闘シーンに次ぐ格闘シーンの連続で最後にラスボスの様な強敵との格闘シーンが待っている。 「ラグナロク」というのは神話の世界のハルマゲドンのことらしいのだが、続き物の先にはそんなタイトルに相応しい展開になって行くのだろうか。 2巻目「白の兇器」もやはり同様に格闘シーンに次ぐ格闘シーンの連続であった。 これは、読み物として書かれて文章で読むものではなく、アニメやゲームにした方が向いているのではないか、などと思っていると、本当にDSのゲームに同じ名前のものを発見してしまった。 本書は格闘ゲームがお好きな方にはうれしい本なのだろう。 その「ラグナロク」というゲームを楽しんでおられる方々にはゲームのキャラクターをより堪能するためのありがたい本なのかもしれない。 03/Mar.2009 ラッシュライフ 伊坂幸太郎 著
伊坂幸太郎続きになってしまいました。 「重力ピエロ」の感想はちょっと手厳しすぎますよね。 クロマニヨン人とネアンデルタール人の芸術論は壁の落書きを消す仕事をしているハルの事を語るには必要だったのでしょうし、ピカソの死んだ日に生まれたハルにはピカソの話は欠かせない。ガンジーを尊敬するという生き方を語る上でもガンジーの話はあった方がいいでしょう。 それぞれの必然があって登場させているのでしょう。 バタイユを語っていた探偵ならぬ泥棒さん、このラッシュライフにも登場しているんですよ。 それより何より、文化と書いてハニカミというルビを振る云々の太宰の文章がこのラッシュライフに出て来た時にはさすがに驚きました。 なんと言う偶然! さてこのラッシュライフという話、かなり凝った作りであります。 異なる登場人物が異なるシチュエーションで登場して来るケースは本や映画では良くある事なのですが、それらがどこかで合体して行きますよね。 それまでの間、読者はかなりじれったい思いをするわけですが、この本の場合、そのじれったさをなかなか解消してくれないんですよ。 本の半ばまで来てもまだ掠る程度。 「重力ピエロ」で登場した泥棒さんは、後々盗まれた人が自分に恨みを持った人間の犯行ではない、と安心させるためにキチンといくらどこから持って行きました、というメモを置いて帰る、という几帳面な泥棒さん、しかも百万の札束がいくつかあってもその中のニ、三十万を抜くだけに留めるという謙虚な泥棒さん。 通常、百万の札束がいくつかあった中のニ、三十万ならメモなど残さなくてもまさか泥棒なんてと、思い違いか何かだろうで、済んでしまうでしょうに。 実際にそうやって、同じ所へ繰り返して入る手口も実際にあるのでは・・と思ってしまいます。 その泥棒さんの話が出たかと思うと、場面は変わってリストラされて失業者となり連続40回も就職に失敗した男の話、はたまた精神科医の女医と現役のサッカー選手が共謀して殺人を企てている話、かつて連続犯罪の謎を解き明かした事で一躍名探偵と話題になった人とそれを神と崇める新興宗教の信者の様な人達の話、金で買えないものは無いと考える大金持ちの画商・・・ それぞれが最初は全く繋がっていない。唯一仙台という場所だけが繋がっているものが、いつ繋がんだろう、いつ繋がんだろうと思っているうちにそれぞれの話が進行して行き、最終的には全てが繋がるのは一番最後。 しかも個々の話は時間差があって、ある人の話は別の人の話の数日前に有った事を引き継いでいたり、またこっちの人の話はその数日後を引き継いでいたりする。 そしてちゃんと全部繋がっているのです。 なんともはや凝った作りなのです。 途中までのじれったさはさておき、充分に楽しませてもらいました。 こういうのもやはりミステリーと言うのですかねぇ。 14/Sep.2006 ラン 森 絵都 著
レーンを超える、と言う言葉、自分のコースからはずれてしまって、隣のコースに移ってしまった時などに使われると思うのだが、特にボーリングなどでレーンを超えてしまったら、ハタ迷惑やら、恥ずかしいやら。 いや、ボーリングに限らずどの競技でもそうか。 この本の中では「レーンを超える」という言葉が、生者の世界から死者の世界へと飛んでしまう時に使われる。 13歳の時に両親と弟を亡くして、その後の育ての親だった叔母さんにも死なれた天涯孤独の女性。 唯一の話相手が猫と自転車屋のおじさん。 その猫も亡くなり、おじさんも田舎に引っ越してしまう。 いよいよ本当の一人ぼっちになってしまった。 その自転車屋のおじさんが別れ間際にプレセントしてくれた特別仕様の自転車、ほとんど漕いでないのに勝手にスピードが出る、というシロモノでそれに乗って走っている内に彼女はレーンを超えてしまう。 レーンを超えた先に居たのは、生きていた頃より優しくなった父親、母親、弟で、その後、彼女は失った期間の家族の団欒を取り戻すかのように週に何度もレーン超えを行うようになる。 ここまでは前振り。 そのレーン超えするにはいくつかの条件が必要となるのだが、その自転車の存在がその条件をカバーしていたのに、ある時期を持ってその自転車を手放さなければならなくなる。 自転車無しにレーン超えをするには、一定時間内に40キロを走破しなければならない。 これまで5分も走れなかった彼女が、40キロ走破を目標にランニングに打ち込んで行く。 毎日、早朝に走り、仕事場の昼休みにも走る。 個性豊かなメンバの集まっている「イージーランナーズ」というチームに勧誘され、毎週の休みには集まってのチームランニングをする。 チームの目標は久米島で行われるマラソン大会へ全員が出場し、マラソン雑誌に掲載されることなのだが、彼女の目標は42.195キロではなく、あくまでも40キロの走破。 さすがに毎日走っているだけのことはある。 1時間で10キロを走るのだという。 同じペースで2時間。20キロを2時間なら、市民ハーフマラソン大会女子などでは真ん中よりもかなり上のペースではないだろうか。 孤独だった彼女に仲間が出来たこと。走り続けることで湧いて来た自信。 死者たちに会うのが目的だったものが、だんだんと、死者たちの世界との別れを受け入れられるようになって行く。 どんどん走る距離を伸ばして行く話を読んで行くうちに、読んでいるこちらも走りたくなって来る。 読み終えた翌日に久しぶりに20キロ走ってしまった。 後で後悔したことは言うまでも無い。 06/Nov.2015
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