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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
Sep.2021
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不撓不屈(ふとうふくつ) 高杉良

なんと言っても実名なのである。
出て来る、出て来る。渡辺美智雄、津島雄二、小渕恵三、小泉純一郎、旧社会党の平岡忠治郎、勝間田清一、旧民社党の春日一幸、国税庁直税部長時代の鳩山威一郎・・・
こういう実名を目にすると、この「不撓不屈」という本、飯塚毅という税理士や税理士事務所、実物をモデルにした小説でも何でも無く、実話でなければならない。
これが実話だとしたら、居たのであろう。一介の税理士の立場でありながら、国家権力そのものと言っても良いキャリアバリバリの大蔵官僚を敵に廻して、戦った人が。

税は1円も余分に払うべからず、また1円の払いの漏れも有ってはならない。
完璧主義者であり、自身の仕事について100%の自信が無ければそんな事は出来ないだろう。
とは言うものの企業にしてみれば、そんな事よりも実務優先で、税務官僚を相手に真っ向から、などと言う気はさらさらなく、なるべく穏便に素早く片づけてしまいたい、というのが本音ではないだろうか。
企業たるもの最終的には何らかの社会貢献をする事を目的としているであろうから、税金を少々余分に払ったところでそれは許せる様な気がする。
許せないのはやはり年金制度だろう。そもそも年をとってから還元して欲しい人の為にある制度であれば、強制加入では無く任意加入という姿が好ましい。
これまで集めて来た年金運用資金を勝手に使い切ってしまった上で、若い世代が年金に加入しないなら財源が無いなどと言うのは運用して来た側の責任であって、若い世代の責任では無い。いっその事税金に一本化してしまったら良いでは無いか・・などと考える今日この頃である。

不撓不屈、この男ただ者では無い・・確かにそうだろう。
国家権力と真っ向から対峙する税理士。
この飯塚毅という人が非常に清く、正しく、凄まじい人である事は言うまでも無いが、
何故、税理士なんだろう・・とやはり思ってしまう。

貧しい布団屋の倅として生まれ、本来であれば布団屋を継ぐところだったのが、あまりに成績優秀にして、先生をしてその専門分野で打ちのめしてしまうほどに優秀な人が選ぶ道が何故、税理士だったのか、結局税理士という立場であったからこそ、この人が如何に優秀で理路整然と正しい事を行ったとしても、自分より年下の政治家である渡辺美智雄などに頭を下げ、政治家の力で助けられたのでは無いか。

ちなみにこの本を取り上げてみようと思ったのは、この本が映画化される話を聞いたからであるが、実はもう昨年に映画化されたのだという。

別段賞与という名の賞与引当金が争点である。さぞかし一般受けしない映画だったのではないだろうか。

上記は誤りでした。昨年に映画化は誤りでこの6/17に封切りだそうです。観に行かなければ・・。
ps.この文章かなり税理士や税金、税務署について突っ込んだ事を当初書いていたのですが、あまりに不穏当、という事で半分以下に割愛されてしまいました。

不撓不屈(ふとうふくつ) 高杉良著


16/Jun.2006
現代日本の転機 高原基彰

著者は執筆前に韓国、中国に2〜3年ほど滞在し、日本へ帰って来てあまりにも日本人が無力感、閉塞感を持ちすぎていることに驚く。

あまりにも被害者意識が強すぎるのではないか。
団塊世代 VS 若者世代、男性 VS 女性、正社員 VS 非正規雇用、都市 VS 地方・・・と対立の構図と目されているものはあるが、各々が被害者意識をよる他者攻撃を行っている。
日本人は結局何に怒っていて、どうしたいのか。
外から見た日本人に対する疑問と同じ疑問を著者は抱く。

日本はかつて福祉国家では無く、福祉国家である必要がないほどの福祉社会と呼ばれた。
そんなバブル崩壊前の「超安定社会」は二度と来ない、と誰しもわかっているはずである。
しかしながら対立の構図から浮かび上がるのは過去の超安定社会を求めているものに他ならない。

日本型終身雇用制度をはじめとする日本的経営は海外からしてジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる一方で、長期雇用の弊害やエコノミックアニマルと呼ばれるほどのゆとりの無さが問題視された。
自民党型分配システムも公共事業による中央から地方への分配によって地方の雇用を維持させた安定社会を支える反面、腐敗の温床と批判された。

だからゆとりを重視したゆとり教育や、個人の自由、新しい働き方を求めた結果が現在だろう。
またまたそれが蒸し返されて、ゆとり教育は全否定。
自民党型分配システムは構造改革の推進にてその姿を無くした。
個人の自由や新しい働き方もそれまでとは正反対の位置づけで、保護されるべき人たちになってしまっている。

かつて良かれ、と思われて推進したことも一部は確かに良かったが、中にはその根本が否定されてしまうというのは、結局は世の中景気次第ということなんだろう。
とはいえ、リーマンショックの少し前までの数年間は神武以来の好景気と呼ばれていた。
著者は構造改革にもクエスッションマークをつけるのだが、構造改革はもっととことんやり通すべきだったのだろう。
また好景気でも自由で新しい働き方から安定思考への流れが止まらなかったのは、やはりバブル崩壊後の就職氷河期と呼ばれる時代を先輩たちが経験したことも要因の一つだろうし、企業側も一旦味わってしまった雇用の流動性によるメリットをもっと享受していたかったことの影響もあるのかもしれない。

いずれにしろ時計の針は戻らない。
今さら、超安定を求めたところで流動化したものを固形化するなど猛暑日に溶ける氷を扇風機で冷やして氷らそうするに等しい愚である。

この本は最近出版されたばっかりだと思っていたのだが、第一刷出版は鳩山政権が発足してからしばらく後の頃だった。
当然、書いている頃は、まだあの政権ではなかったわけだ。

これを書いている頃よりもずっと今の方が無力感、閉塞感を持つ人は多いだろう。
なんせあの政党による政権がまだ続いているのだから。

とはいえ、この本の内容が陳腐化したわけではない。

日本がGDP世界第二位を中国に明け渡したときに、韓国の人はこう言っていた。
「これまでが良すぎたんでしょ。でも、まだまだ良すぎますよ。」と。
外から見たら、そんなものだろう。

1970年以降というまだ歴史になっていない時代を現代史として洗いなおし、今日に至る経緯がいかなるものだったのか。
現代というものがいかなる時代なのか、をあらためて解説してくれている。
特に若い世代に読まれて欲しい本だと思う。


現代日本の転機 ―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス) 高原 基彰 著


22/Dec.2011
マークスの山 高村薫

行きつけの本屋で「李歐」と「マークスの山」が平積みにされていたので、何も考えずにまず購入してしまった。
購入した後で高村薫、高村薫、高村薫、高村薫・・どこかで聞いた覚えがあるな・・そうだ、レディジョーカーの作者では無いか。
あの「グリコ森永事件」を題材にほぼこれが真相に近いのでは無いかと思われる様な物語を書いた人だ。
「グリコ森永事件」と言うともうはるか前の事の様であるが、あの事件は地域性も身近であり、「けいさつのあほどもへ」で始まる挑発的な挑戦状が新聞トップを飾っていたのも印象に残っている。
あの事件を書いた高村薫の本か。と李歐をまず読破。
新しい形の美しく壮大な青春の物語だのなんだのっていう歯の浮いた様な誉め言葉が帯に書いてあったっけ。
そんなたいそうな、というのが実感。この本がそもそも書かれたのは大分以前であろうから、その頃にしてみれば現在頻繁に発生している中国人犯罪を予見していたと言う事だろうか。
出張など長旅のお供には丁度いい本かもしれませんよ。

さて、いきおいで買ったもう一つの「マークスの山」。
この本で面白いところは、警視庁という組織の有りようが良くわかるところだろうか。
同じ捜査一課でも係りが違えば、他所の組織となって情報のやり取りすらスムーズには行われない。
東京で発生した連続殺人。その関係者を調べて行くと、必ずや行き当たるのが某大学登山部の同期生。
各々が地位ある立場となった人達だ。またその人達も次々と死んで行く。
捜査に乗り出した刑事は上からの圧力との戦いをしなければならない。
犯人は自らをマークスと呼ぶ青年。
二重人格者なのか多重人格者なのか、それとも大人しい性格の時は、単に芝居をしていただけなのか、ついに最後までわからない。
結局、一連の事件の背後には十数年前、その地位ある人達まだ学生だった時代に遡る。

詳細は書かないが、事件の解明に至るのは、同期の登山部の卒業生の医者(病院長だったか)が、書き残した遺書である。
なんともはた迷惑な遺書を残したものだ。
同じ同期の登山部仲間と南アルプスへ登山した際に、同行した一人を不幸にも死に至らしめてしまった事について、遺書の中で詫びたいというのなら、その人に対する哀悼の念だけを書けば良いだろうし仲間の事も書く必要は無いだろう。
ところがこの医者、自分が癌で先が無いからと遺書を書くのはいいが、あまりにも饒舌なのである。
仲間の学生時代の秘密、裏口入学で入った事やら、交通事故のもみ消しが有った事やら、墓場まで持って行けばいい様な事を全て暴露しているのだ。全く遺書としては書く必要の無い事を書いている。
そういう内容の事を書き残す事で、それが少しでも漏れれば、仲間であったかつての同級生にどれだけ迷惑がかかるか、想像すればわかるだろうに。またそんなものどこから漏れるか知れたものじゃない。
自分の死を直前にしての仲間への裏切りであり、最後っ屁としか思えない。
この本上下巻の長編なのだが、作者は刑事に突き止めさせる努力を怠ってしまったのだろうか。

捜査会議の描写やら、キャリア対ノンキャリ。各捜査班同士の対立など、現実的に見える箇所がふんだんにあっていろいろな圧力の中苦労して捜査する過程を散々書いておきながら、この様な非現実的で一足飛びで真相解明の遺書の登場。
そして、犯人の青年についても記憶障害という病気でありながら、綿密な計画を立てて実行して行く過程についても結局非現実的のまま終ってしまった。

やっぱり、現実にあった事件をモチーフとしないとレディジョーカーの様な作品は生まれないのかなぁ。

18/Sep.2006
首里の馬 高山羽根子

昨年(2020年)夏の芥川受賞作。
私は大抵寝床に入ってから読書をはじめる。
読み始めたら、どうにもページをめくる手を止められず、ついつい睡眠不足になる事多々であるが、久しぶりに全然ページが進まない本に出会ってしまった。

最初に読み始めたのは何か月前だろうか。
途中で停止して別の本を読破することたびたび。
それにしてもなんでこんなにだらだらと長く書く必要があるんだ?

この作家さん、当初は小編を書いていたところ、勧められて5枚を10枚、10枚を20枚、30枚と書き足す様になっていったという。一旦30枚にしてから、今度は20枚に削る作業もした方がいいんじゃないのだろうか。

さて、中身だが、値打ちがあるのかどうなのかさっぱりわからないものを溜め込んだ資料館というところへ通い、そのアーカイブの手助けをする女性の話。資料館の運営、収集ははるか前に本土から移住してきたかなりご高齢の女性が行っている。。
その助手の作業の傍らで彼女が行っている仕事はかなり異様な仕事で世界のどこに住んでいるかわからない人とオンラインで会話し、与えられたクイズの問題を出して、解答を答えてもらいというもの。
海外の外国の人でありながら日本語も流暢。日本の問題などにも蘊蓄が深かったりする。

しかしながら、なんのためにそういう事が行われているのか、雇い主は世界中にそういうことをやっている場があるなどと言っているが、目的もわからなければ、どういう基準で解答者が選ばれたか、どういう機関がこのシステムを構築したのか、何もわからない。

毎回クイズの出題で顔を合わせる人とはもう顔なじみになってしまい、彼らの居場所もだんだんと明らかになって行く。一人は空爆に合うような戦場のシェルターの中からだったり、宇宙空間だったり、南極の深海の中だったり、究極の孤独な環境の人ばかり。

せっかく解答者達とも親しくなってきたという頃に彼女はその仕事をやめてしまう。
また、資料館の方も維持してきた年配の女性が亡くなったことで、取り壊しとなる。

彼女は彼女の家の庭でうずくまっていた沖縄の固有馬をなんとか乗りこなすようにはなるのだが、どうやって生計を立てているんだろう。

小さい事務所から世界とつながってクイズを出すというこのシステムって結局なんだったんだ。
何かのメタファーなのか?

そもそも資料館のアーカウイブにしたって漠然とした表現が多い。クイズにしたってこの描写は漠然としたものばかり。
もっと表現して頂けないものなのだろうか。
3人の外国人に職を去る際に3つのWORDを問題として提供するが、それすらも投げっぱなし。

孤独をテーマにした作品ということはわかったが、結局何を伝えたかったのかさっぱりわからない。
小説ってそもそも誰かに読んでほしい、とか何かを伝えたいとか、そういう気持ちで書くものじゃないのだろうか。
この作家の場合、自分が書きたいから書いている。ついてこれる人はついてこい、みたいに思えてならないがいかがだろう。
おそらく当方の読み込みが浅い、足りないということなのだろうが到底二度読みする気にはなれない本だ。
あまりにも退屈。

芥川賞選者の選評としてはわりと佳作だったとか、評価がそこそこ高いのには驚いた。
選者の中に村上龍さんの名前が無かったが。もうやめちゃったのかな。
龍さんなら、「伝えたい事の不明な小説は好まない」とか言って推さなかったんじゃないかな。

23/Apr.2021
地球温暖化後の社会 瀧澤美奈子

この著者の書き進め方、非常に好感が持てます。
温暖化だ!温暖化だ!とエキセントリックに騒ぎ立てているるのでは無く、誠に冷静な目で事実を分析しようとしていらっしゃる。

「うちエコ」という言葉をご存知でしょうか。
・車の運転で発進時にふんわりとアクセルを踏む・・207g
・ホットカーペットの設定温度を「強」から「中」へ・・193g
・自動車の代わりに自転車を使う・・180g
・エアコンの冷房を22℃から20℃に・・96g
・エアコンの暖房を26℃から28℃に・・83g
・シャワーの使用時間を1分減らす・・74g
・主電源をこまめに切って、待機電力を50%削減する・・65g
・冷蔵庫の設定を「強」から「中」へ・・64g
・車を運転する時1日5分のアイドリングストップを・・63g
 XXgは二酸化炭素の削減量の目安。

などなどの個人レベルもしくは各家庭レベルで出来るエコ活動を「うちエコ」と呼ぶそうです。
上記の様な「うちエコ」を筆者は紹介しながらも、個人で出来るレベルの削減効果のMAXは17%でしかない、と述べ、「うちエコ」を最大限行ったところで根本的な解決には程遠いともおっしゃる。
但し、そういう意識を持つ事は大切なのだ、と。
アメリカの人、人にもよりますが、あのとんでもない浪費癖、エネルギーの無駄使い癖にはエコなど意識したことのない日本人でも驚くという話を良く聞きます。
日本人にはエネルギーの無駄使いを無くそうとする癖が元来あるように思えてなりません。
根本的な解決には程遠いと言いながらもその押しつけがましくない表現で伝えられるので、読む側は元々そういう意識が潜在的にあるだけに逆に「うちエコ」を意識してしまう。
この筆者にはそういう伝達力の巧みさを感じます。悪い意味では無く。


また、ゴミの分別やリサイクルについてもリサイクルを行う事で余分に化石燃料エネルギーを消費する様なリサイクルならやらない方がマシ、と述べる。

まさに当たり前のことなのですが、世の中なかなか当たり前が当たり前じゃないことしばしばです。

序章で温暖化に伴って発生するであろう異常気象などを列挙しておられるので、あぁこの方も環境オタクなのか?と思ったのですが、どっこいそうじゃなかった。
もちろん、環境を大切にする気持ちは同じでも、ものの見方が非常に冷静なのです。

二酸化炭素の増加と温暖化の関連性についての科学的根拠に否を唱える論に対しても敢えて反論をされない。
それでも歴史的背景から見て、産業革命以降に、更に第二次大戦後の石油エネルギー全盛時代に、さらにここ10年で温暖化が急速に進んで来た、という事実を淡々と述べられます。

筆者は既に温暖化がかなり進行していることを認識されています。
二酸化炭素の排出量を現在時点で西暦2000年レベルまで戻したところで、温暖化そのものが即座にストップするかと言うと、この先20年は続いてしまうのだそうです。

ということはもはや温暖化時代に突入して、これはもう避けられないものと認識した方が良いのでしょうか。

結局、産業が石油をはじめとする化石燃料を消費している限り、個人レベルにてはどうにもならないのが現実でしょうし、仮に排出がSTOPしたところで、一旦走り始めた温暖化を逆戻りさせるのには何十年の歳月が必要。


何か抜本的対策があったらいいのですが。

二酸化炭素が問題ならばCO2をCとO2に分解してしまうということは出来ないものなのか。
実際に二酸化炭素増が水蒸気増につながり、それが温暖化をもたらすのであれば、世界各地の水蒸気を定期的に雨にしてしまう、とか。


北朝鮮もテポデンや短距離ミサイルを発射する代わりに、中国が北京オリンピック直前に披露してみせたみたいな、人工降雨ロケットでも飛ばせば、ちっとは評価も変ったでしょうに、ってそれも領空侵犯は領空侵犯だし、そういう名目で長距離ミサイルを開発されても困るか。ましてあの国がそんなことするわけないし。


と、とんでもないところに話が流れてしまいそうですが、そんな緊急の特効薬でもない限りはもはや「STOP・ザ・温暖化」どころではないのではないのでしょうか。

せめてもの提案。
ビルというもの屋上緑化はもちろん、壁面にも緑化工事を義務付けしてしまう。
管轄がもし、国土交通省なら、道路を作るお金をビルの緑化工事助成にでも使って頂けないものでしょうか。
温暖化ストップはともかくもここ近年続いているヒートアイランド現象の対策には少しでも役立つのではないでしょうか。


筆者は江戸時代の人々がいかにものをリサイクルしていたか、環境に優しかったかを書いておられるが、自ら述べておられるように今更、江戸時代に戻れるわけでも無し。

筆者は、
低炭素な街づくりを、
新しいビジネルモデルを、
もったいなくてもエコ製品へ買い替えを、
と解決策を模索される。
また、折りしも、昨日には温室ガスを2020年までに15%削減するという方針が首相より発表された。

しかしどうなのでしょう。
この筆者も政府も温暖化防止のための明確な答えを持ち合わせているわけではないのでしょう。
いくらビジネスモデルが少々変ったところで産業構造が少々変化したところで、個人個人の意識レベルが向上したところで、この温暖化のスピードを緩めることはあってもストップさせるわけじゃないでしょうし。
筆者も自ら述べておられるように慣性の法則ではないですが、STOPさせてもSTOPするまでに何十年かかるのですから。

では、どうすれば良いのか。
個人個人としてはもちろん出来る限りの「うちエコ」をしつつも、来たるべき温暖化社会、いやもう突入しているのでしたっけ。
その温暖化社会の中で生きて行く覚悟を持つべし、ということなんでしょうかねぇ。
最終的には。。


地球温暖化後の社会  瀧澤美奈子 著(文春新書)


12/Jun.2009
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