読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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ヤッさん 原宏一 著
かつて「たんぽぽ」という伊丹十三監督の売れないラーメン屋を立て直す映画があったのを思い出してしまった。 その映画の中のでの一場面。 ホームレスの人たちが「○○の店も落ちたもんだ」などと有名店の味を語ったり、ワインについての薀蓄をたれたりする場面がある。 この本に登場する「ヤッさん」というホームレスは清潔がモットーなのであの映画のホームレスたちとはかなり様子が違うが、こと食に関するこだわりは天下一品。 自身の味覚も素晴らしければ、食材の動向を知り尽くし、築地市場と一流料理店の中を取り持ち、双方から頼りにされる存在。 そもそもこの人、ホームレスという範疇に入るのだろうか。 ホームレスの定義とは何か? 「定まった住まいを持たない人」のことを言うのだろうが、中央アジアなどの放牧民はホームレスの範疇ではないし、ネットカフェを泊まり歩く人たちにしたって定まった住居を持っているわけではないがホームレスの範疇ではないだろう。 ダンボールで囲った場所に寝泊りをしないが、公園のベンチなどで寝泊りをしている以上、その生き方がどうであれ、やはり一般にはホームレスと呼ばれる範疇に入るひとなのだろうが、そんな呼称はどうであれ、なにものにも一切束縛されない自由人という立場、自由人としての行き方をする人というのが正しいのかもしれない。 トラブルに出くわしたら、それを解決してやり、道を踏み外そうとしている人間を見れば、軌道修正してやり・・、何よりこのヤッさんという人はホームレスとしての矜持を持つ。ホームレスとしての矜持というと変な表現に聞こえるが、自身でそう言い張るのだ。 生き方に矜持を持つ人なのである。 人の内わけ話を聞いたあげくに、「ありきたりな身の上話はそんだけか?」というのが口癖。 エコノミストの浜矩子氏が良く語られる言葉に「成長・競争・分配の三角形は正三角形が理想の姿だ」という言葉がある。 今や、中国は正三角形どころか、成長だけが特出して飛び出している変形三角形。 方や日本は、というと分配だけが特出してしまった異常な三角形。 いやそもそも成長がゼロなのだから三角形としても成り立たない。 ヤッさんはまかり間違ってもその分配に預からない人である。 ヤッさんが提供する情報やコンサルの見返りは金であったためしはない。 常にその店が、問屋が提供するうまいものを食することだけ。 矜持を持つ人は人からの施しを受けることを望まない。 まかり間違ってもヤッさんなら年越しホームレス村でお世話になったり、さらにお世話になった上で「行政の対応がなっていない」などと文句をたれることはしないだろう。 政治や行政への文句は税金を払っていない自分たちは言う資格はない、と断言する人なのだから。 最近にこれが出版された、というのは偶然ではないだろう。 物乞いに対するような過度なサービス分配時代への提言なのではないだろうか。 17/Mar.2010 夜行観覧車 湊かなえ 著
人間、どこでスイッチが入ってしまうのか、怒りのスイッチ、我慢の限界のスイッチ、自分が何しているのかわからなくなってしまうスイッチ、生きて行くのをやめにするスイッチ・・・かなり個人差があるようである。 それでも共に住んでいる家族なら、どんな地雷を踏めばスイッチが入ってしまうのか、ぐらいわかっていそうにと思うのはたぶん勘違いなのだろう。 それぞれが、常日頃から言いたいことを言い放題で、全く遠慮というものをそれぞれがしないような一家で、「そんなもの家族なら当たり前」と思える人にはおそらく縁のない世界。 度合いや程度はさまざまでも多少は、遠慮していたり我慢していたり、理不尽に耐えるという姿もあれば、賢い子だとかいい子だと言われて期待に背かないようにというプレッシャーパターンなど、家族にも言えないさまざまな悩みを抱えていたりする。 結局、家族であってもなかなか地雷の在り処などはわかっていない、ということなのだろう。 ただ、地雷を踏むにせよ、その爆発にはせいぜいここまで、という限度というものがあるだろう。 その怒りのスイッチが一人娘に毎日入ってしまう家がある。 中学生の娘に毎日癇癪を起こされ、どなり散らされ、物を投げつけられ、もはや奴隷じゃないかと思えるほどに下手に出ているのが、そのスイッチを入れてしまっているらしい母親。 一戸建てに住みたいという主婦は良く居るが、この一家の場合は母親にその傾向が強かった。 この市には山の手の上流家庭と坂を下った海岸側という、階級とおぼしきものがある地域で、その山の手の中でも「ひばりが丘」とよばれる地域は最上流階級の住む場所なのらしい。 その上流階級の住む場所に猫の額ほどの大きさの分譲の残り土地があるのを知り、そのひばりが丘で一番小さなお粗末な家を建てて住んでしまうのがこの一家。 そのひばりが丘には上流階級のお嬢様が通うに相応しいお嬢様学校があり、その中学へ娘は当然受かるだろうとの強い思いでそこへ移り住んだのはいいが、案に相違して娘は受験に失敗。 毎日坂を下って坂の下の公立中学へ通う。 その受験失敗を持って娘の癇癪ははじまり、そのどなり声はご近所までにも響き渡る。 お向いの豪邸には娘と同じ年の男の子がエリート中学へ通い、その姉はまさに娘が不合格となったお嬢様学校へ通い、その兄はもう同居していないが一流大学の医学部へ。 父親は大学病院のエリート医師、美人の母親。 文句無しのエリート一家。上流という言葉に相応しい一家。 事件はこの場所に不釣り合いの一家ではなくその一家の方で起きた。 傍の誰が見ても幸せ一杯であろうと思われる一家の方で。 エリート医師の父親が撲殺され、犯行を犯したのは自分だと自供しているのはその妻。 長男は遠方で一人住まい。長女はその日は友人宅に。唯一家に居たはずの二男は行方不明。 さてこのエリート一家に何が起きたのか。 この兄妹三人のこの先はどうなるのか。 やけに長い前振りだったが、ここからがこの物語の始まりなのだ。 殺人事件、ましてや上流家庭が住む地域ともなれば、マスコミは放っておくはずもなく、わんさと押し寄せる。 ネット上でもこの一家は放っておかれず、ほぼ本人が特定出来る内容でわんさと誹謗中傷される。 あんた達に誰も迷惑かけてないじゃん。 そう、迷惑をかけられてもいない匿名の人々からの怨嗟の渦。 あの酒鬼薔薇何某や宮崎何某のように無差別に近隣幼児を殺害した、などと言うのなら、話はべつだが、彼ら一家の場合は彼ら一家の問題。 それでも、一つの一線を超えてしまうことで、それはもはや一家の事件ではなくなってしまう。 この兄妹達には豊富にあったであろう未来の選択肢はかなり狭まったかもしれない。 彼らは被害者の息子、娘としてではなく、加害者の息子、娘として世間からは扱われる。 撲殺された父親は家族に暴力をふるうような人では無かったのだという。 仮に犯人がその自供のまま母親だったとして、そのスイッチの入り方は、その一家の長男が言っている通り、全く理解出来ない類のものでしかない。 ましてや息子や娘達がこの先どんな目に会うのかをほんの少しでも想像出来るだけの理性があれば、スイッチが入ったとしたって一線を超えることは思い止まれるだろうし、違う方法で爆発することを考えるだろう。 それが大人であり親だろう。いや、人間だろう、が正しいか。 普段、スイッチが入らない人ほど、一旦入るとどこが一線だかわからなくなる、という典型なのだろうか。 それにしても誰がどうみたってそりゃないだろう、と思えるようなことで一線を超えてしまう人がいるとしたら・・・、他人には理解しがたいその人ならではのスイッチがあるのだとしたら・・・、世の中ってやっぱりこわいなぁ。 被害者件加害者宅に誹謗中傷のビラが山ほど貼られるが、それを剥がしに来てくれた友が居る。 世の中の他人全てから非難されようが、たった一人でもそんな友が存在する。 これは唯一の救いだろう。 18/Aug.2011 やすらぎの郷 倉本 聰 著
永年、テレビ界に貢献して来た人たち、往年のスターたち、そんな人たちばかりを入居させる老人ホームがある。 入居にあたっての費用は一切無し。入居後も費用は無し。 必要なのはリーズナブルなバーでの飲み代ぐらい。 中には医者も居れば、スタッフも充実。共有スペースでは数々の娯楽が楽しめ、建物を出れば釣りを楽しめる場所まである。 それに何より、かつての有名人ばかりが揃っているのだ。 最近、見ないなぁ、もしかしてお亡くなりになってたりして・・・というような人ばかりが入居している。 そんな施設があるという噂はあるがまるで都市伝説の様でその実態は誰も知らない。 テレビ界に貢献して来た人と言っても局側の人間は対象外であくまで組織に守られていない立場の人たち。 売れなくなったら誰も見向きもしおないばかりか、生活にも困窮してしまうような立場の人たちへの恩返しのような施設なのだ。 そんな施設への入館案内がある脚本家の元へ届く。 数々のヒットドラマを書いて来た脚本家、それが主人公。 まさに倉本聰そのものかもしれない。 この「やすらぎの郷」、テレビのドラマで放映されていたらしいのだが、全く知らなかった。 だが、この本を読むと、まさにドラマを見ている様な気分になる。 本を開けば、脚本そのもの。 俳優が読む台本ってこんな感じで書かれているのかな、と思えるような内容。 主人公の脚本家の先生役を石坂浩二が演じ、その周辺にはそうそうたるメンバーが勢ぞろい。 まだまだ現役の人たちばかりだ。 マヤこと加賀まりことお嬢こと浅丘ルリ子のやり取りはいかにも言ってそうで笑える。 ミッキー・カーチスや山本圭などが主人公の脇を固める。 本を読んでいるのだが、まさに加賀まりこや浅丘ルリ子の姿がありありと浮かんでくる。 なんと言っても、姫と呼ばれる存在の八千草薫の存在は大きい。 心から人の好さが伝わって来る。 そんな八千草薫もお茶目ないたずらをしたりする。 この台本、俳優を決めてから書いただろう。そうとしか思えない。 読んでいて笑いが止まらない本なんて久しぶりだった。 ![]() 02/Mar.2018
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