読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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し 原田 宗典 著
平仮名一文字で一番多くの意見を持っているのは何か。 作者は日本語大辞典で調べてみる。 その結果、1位は「し」で259。2位は「き」で243。 今度は「字通」で調べてみてもやはり 1位は「し」で297。2位は「き」で286。 この奇妙なひらがな一文字タイトルの「し」という本、「し」という読みを持った漢字、子、師、歯、死、誌、姿、祠、刺、試、使、嗜、仕、氏、試、覗、それらを一つ一つを取り上げいるエッセイ集なのでした。 それぞれのエッセイの中にはその漢字の生い立ち、成り立ちにもふれられています。 - 子 - この漢字、子供が手を広げて跳ねまわっている姿を表しているのだということでした。子供が手を広げて跳ねまわらない現代の子供達にあてる「子」という文字は横棒がもっとだらっと下がっていなければならないのだといいます。 なるほど。 - 師 - これも考えさせられる文字ですね。 今の世で「あなたの師と呼べる存在は?」と聞かれて、即座に答える人など確かにそうそうは居ないでしょう。 この作者にはその存在が居たとはっきり言えるところが今時そうそう居ない人なのか。 誰しも今の自分を形成するにあたって最も影響のあった人物の一人や二人あるいはもっと、は必ず居るでしょうが、なかなかその存在を「師」とまでは呼べないものではないでしょうか。 - 歯 - 文庫のあとがき氏もこれを絶賛しておられましたが、ここに登場される老女(と言っても良い歳なのでしょう)の歯科医師の魅力的なこと。 田中角栄が表れる以前の新潟で一番の英雄の家に生まれ、その生家の敷地はもとより、庭の池だけで300坪というとんでもない大金持ちの子として育ち、スポーツをさせれば、スキーで国体に何度も選ばれ、その後長崎で被爆し、歯科医になった後も周恩来から長島茂雄から、サムスンの会長・・・までもが彼女の患者だったらしく、何か途方も無いほどに大人物でありながらそんなことを自慢するでも無く、恬淡として格好いい。 そんな先生に歯の治療をされた話。 そのあとも、父の命がけの大手術の事を語る「死」 学生時代の文学少年時代を振り返る「誌」 このあたりから徐々にこの作者の人間像が少し垣間見えるようなエッセイが続きます。 無宗教の男が神とたたえるものを書いた「祠」 たばこは数のでは無く、嗜むもの、と愛煙家としての気持ちを書く「嗜」 ・ ・ 最後の「覗」などは、よくぞ恥をしのんでこれを書けたものだ、と少々関心してしまいました。 「し」という読みを持った漢字で思い出してしまうものはと言えばなんだろう。 資本、資金の「資」、視野、視界の「視」、我々の業界では欠かせない仕様書の「仕」、始末の「始」、・・・・。 いや、今ならまさに四苦八苦の「四」かな。 20/Jan.2009 シャーロックホームズの息子 ブライアン・フリーマントル 著
『消されかけた男』、『再び消されかけた男』、『呼び出された男』、『罠にかけられた男』、『追いつめられた男』・・・フリーマントルと言えばなんと言ってもスパイもの。 しかも旧ソビエト連邦、共産圏の東ヨーロッパと西側のスパイの暗闘。 これほどおもしろい読み物はそうそうなかっただろう。 それが90年代に入っての東の崩壊。 それはすなわちフリーマントルの時代そのものの終わりかと思っていたら、最近になってこんな本を見つけた。 コナン・トイルの描いた名探偵シャーロックホームズをスパイ小説家のフリーマントルがどの様に描いていくのだろう。 時代は第一次世界大戦勃発前。 シャーロックホームズの息子セバスチャンはホームズの兄マイクロソフトホームズの子として育てられ、シャーロックホームズの子である事を知ったのは大きくなってからの事。優秀な成績で大学を卒業し、政府の要人であるマイクロソフトからの話を受け、チャーチルの密命を帯びて単身でアメリカへと渡る役割りを引き受ける。 このアメリカに渡ってからセバスチャンのやろうとする事については今一読んでいても判りづらいものがあった。 とにかく大英帝国にとって有益な情報を持つ人に近づき、情報を得て本国へ暗号で知らせる事だけだったのだろうか。 セバスチャンやシャーロックホームズの活躍はさておいても、語られる事は当時の歴史を忠実になぞっている。 中立の立場を表明するアメリカ。 当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係は、ドイツ・オーストリア・イタリアの同盟側対イギリス・フランス・ロシアなどの連合側の2陣営。 いずれ戦争は避けられないだろうとアメリカのビジネスマン達は語る。 アメリカはモンロー主義を掲げて同盟側対とも連合側とに同盟関係は無く中立を宣言していた。 ドイツがベルギーを侵略した場合の事にも触れている。 だが、イギリスはベルギーの独立と中立を保証していた。 ベルギーの中立を守るためにはベルギーの中立を侵犯した側の敵側に立って参戦すると表明していた。 ベルギーへの侵犯をイギリスが看過するかどうか、アメリカのビジネスマン達はあくまで客観的なのだ。 中立と言ってもタチが悪く、ドイツ側にもアメリカ側にも武器を輸出しようと言う言わば武器の商人そのものでとにかく他所で戦争が起こってこれれば良いという戦争を商売として喜ぶアメリカ。 ライフル銃の使用は戦争の姿を大きく変えたがこれをこの小説ではアメリア・ベッカーという女性が経営するベッカー社が開発したものとして紹介している。 セバスチャンは当時海軍大臣だったチャーチルの密命を帯びているのだが、何か事が起こった際には、英国もチャーチルもセバスチャンには何の関与もしていない、単なる単独行動だったという事にする約束をさせられる。 チャーチルはヒトラーのドイツに宣戦布告した時の英国宰相というイメージが一番強い。 政治家としてのチャーチルについてはもちろん賛否両論あるだろうが、ヒトラーへの宣戦布告で発揮した指導力、ロシアがソ連になってからのスターリンの独裁を忌み嫌い、米ソ冷戦を早くから予想していた先見性など歴史的にはかなり評価の高い指導者なのではないだろうか。 名言も数多く残したが、 ・成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。 ・成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ。などと割りと失敗についての名言が多いのは本人が失敗を多く積み重ねたからだろうか。 そのチャーチルについては野心家として、フリーマントルは少々手厳しい。 ホームズに批判させたりもしている。 最終的にはセバスチャンはドイツ人組織の陰謀を暴き、アメリカに参戦させる、という事で後世の歴史を大きく変えてしまうほどの活躍をするわけだが、その実績と成果については決して表には出ない。 やはりフリーマントルはスパイ小説家だったのである。 07/Oct.2007 しゃべれども しゃべれども 佐藤多佳子 著
単純明快に一言で言うと、「面白い。あなたも是非読んでみる事をおすすめします」 で終ってしまう。 私はこの本に関しては全く予備知識無し。 たまたま家の片隅に転がっていたので暇つぶしを兼ねて読んでみたのである。 何かの予備知識などは返ってこの本を読むにあたってはジャマなのでは無いかとすら思える。 しかしながら、それではこのコーナーの主旨に反してしまうので、何かを書き残して置きましょう。 主人公に3度のメシより落語が大好きという江戸っ子の噺家を据えているだけに、話が軽快である。非常にテンポがいい。 少し前にTOKIOの長瀬が演じる「タイガー&ドラゴン」というテレビドラマが有った。 もちろんドラマは毎回見た訳では無いが、若い層の落語離れの流れを変えたドラマなのだと言う。その長瀬演じるヤクザの新米落語家とこの本の主人公である今昔亭三つ葉という短気で喧嘩っ早いこの二つ目の噺家のがまずかぶってしまった。 この三つ葉という人、存外におせっかいな性格で、 「どもりで悩むテニスコーチ」、 「人とコミュニケーションを取れない無愛想な黒猫美女」、 「東京へ引っ越しをして来て、大阪弁が抜けずに同級生からシカトされている小学生」、 「野球解説ができない元プロ野球選手」 の個性あふれる面々を相手に落語教室を開くはめになる。 読んだ人によって思わくは異なるかもしれないが、私の見る準主役は、この小学生である。 実は私にも同じ様な経験がある。小学生の時に大阪から東海地方へ転校したのだ。 丁度、半年前に大阪から転校したやつはもう地元の言葉に馴染んでいたが、私は彼を真っ先に軽蔑し、大阪弁を捨てなかった。というよりもどこからどこまでが大阪弁でどこからが標準語なのかもわからなかった。「あかん」とか「ほんま」という言葉がよもや大阪弁でしか使われない言葉だとは全く思っていなかった。 大阪=商人=ドケチというイメージが地元ではあるらしく、大阪弁に対する嫌悪感はいやでも感じられた。大阪といってもどうせいなかの方だろう、などと言われた時には、「じゃかーしいわい。大阪のどまん中じゃい」と言って返してやると、しばらくの間、「どまん中」が私のあだ名となった。「どまん中」という言葉も全国標準だと思っていたら大阪弁なのであった。 とは言え、小説の中の小学生とは時代が違う。いま時の陰険さなどはかけらも無い。 喧嘩は毎日であったが同じクラスの中の体格のいい連中との喧嘩は必ず一対一での勝負だった。それは単なる喧嘩からだんだんとゲーム性を帯びて来る様になり、授業の合い間のわずかな休み時間でのプロレスごっこ。こちらはけしてギブアップしないので、ゲームはひたすら続き、逆にこちらから新たなゲームを持ちかける様になった。そうなればもう喧嘩でも何でも無く、単なる遊び友達なのだが、本人連中は皆真剣勝負と思っているところがおかしい。 ある時はぺったんでの勝負を挑み、参加した連中のぺったんを全部まきあげてやった。ビーだん(ビー玉)勝負も同じでやればやるほど、全部こちらへ「ビーだん」は集って来る。 「やっぱり、ぺったんとビーだんは大阪が日本一や」と本当に狭くてローカルな愛郷心。 私は大阪にいた頃からぺったんとビーだんは負け知らずだったので、けして大阪が強い訳では無かったのだが、自分としては大阪を背中に背負って日々挑んでいる。何事につけ、勝って「どや大阪を見直したか」と言わなければならないので負けるわけにはいかない。 そんな勝負の仕方をしていたら、お小遣いが無かったら続かないではないか、というクレームが出て来る。 「当たり前やろ。強いもんが勝ち取るのんが勝負なんじゃ。くやしかったら頭下げて子分にならんかい。ほな、ぺったんもびーだんも好きなだけ分けたるわ」 などと日々ほざいていたのだから終焉が来るはずが無い。 話が横道にそれた様に思えるだろうが、この本の中の小学生と意識としては同じだと思う。 寧ろこの小学生の方がはるかに心が強くて立派だろう。 この小学生が六甲おろしの出囃子で阪神タイガースの帽子を被って落語をするシーンなどは涙なくして読めるだろうか?・・・読めてしまった。涙なくして読めてしまった自分が恥ずかしい。 話としては、無くしてしまった自信をこの落語教室を通して取り戻して行く姿を描いている読み物なのだが、何事につけ自信過剰な私にはそういう立派な筋書きよりも、個々の個性に興味をひかれる。 最高の脇役は解説ができない元プロ野球選手だろう。現役時代、チャンスには滅法強いが、代打でしか勝負をしない。毎打席だと集中力が持続しないタイプ。 野球中継での解説ではありきたりの事を言おうとして、そのテンポが悪いのでアナウンザーのジャマになってしまう。 ところが、テレビの野球中継を見ながら思うところを語ると 「真弓には打てない」とずばり言う。 「今日の斉藤は死ぬ気の気合で投げている」 「そういう時は打つ方も死ぬ気で向かっていかなけりゃ・・・」 真弓が登場した段階で、はじめてこの本は真弓がまだ現役バリバリの頃に出版されていたのに、その存在すら知らなかった自分の無知に気付く。(余談) 何故、そういう事を解説でしゃべらないのか。との突っ込みには、 「本人を前にしてなら、ボロクソに言う事も出来るが、本人の居ない席でしかも視聴者全員を相手にして選手をけなすなんていう卑怯な事が出来るか!」 立派な人なのだ。自信喪失者でも何でもない。潔いポリシーを背負って生きている人なのだ。 こういう話なんですよ。この本は。 ってね。ちゃーんと読んだ人にしかわからない様に書いているでしょう。 で冒頭の「あなたも是非読んでみる事をおすすめします」に繋がった。 ところで、変なうわさを耳にしてしまいました。 この本が映画化されるという。しかも主人公はTOKIOのメンバーだと聞いて、じゃぁ長瀬しかいないだろう、と思いきや、国分何某だという。以前に私が気に入った本がドラマ化され、この国分何某が演じてしまい、妙にシラけた思い出があるだけになんとも嫌な予感がするのである。 この人は贅沢な料理でも食って「チョーうめー!」「おーいしーい!」と、数少ないボギャブラリで叫んでいた方が似合う様な気もするが、世の中にはいろんな方のファンもおられる事もあるし、このあたりでこの駄文も終わりにしようと思う。 12/May.2006 シャングリ・ラ 池上永一 著
地球温暖化の話題が沸騰中の頃の作品だわな。 いや、温暖化の話題や問題が決して消え去ったわけではない。 それでも、ここのところ、ニュースや新聞からもほとんど地球温暖化の文字は消えつつある。 この10月に導入されたばかりの環境税、これは温暖化対策のためだったはずだが、新聞、ニュースともあまりその本質にはふれないままに導入された格好だ。 他の製品価格の値上がりの中の一項目みたいな紹介のされ方だ。 温暖化による影響を述べていた国際機関の報告書が実は憶測によるものだった、ということや、温暖化で海の水位は実は上がらないという学者が話題を振りまいたり、といったことだけが原因ではないだろう。 やはり原発問題。 この問題で温暖化問題はメディア上からは見事に消し飛んでしまった。 メディアで温暖化の問題真っ盛りだった時に、CO2の排出量を取引するとか言っていたあの話は今はどうなったんだろう。 その温暖化への究極の対策を展開するのがこの物語なのだ。 その排出量取引は将来のマネーゲームになるだろうとかつて予想されていたが、この未来小説の中では世界に炭素税というものが導入される。 各国がはき出す二酸化炭素の量に応じて炭素指数という物差しが導入される。 その炭素指数こそが、この物語の世界のマネーゲームの根源となる。 世界金融は炭素経済に移行し、炭素指数が上がる国の通貨は暴落する。 その炭素経済を操るのがカーボニストと呼ばれるエリート達。 日本も同様で東京では、「アトラス」と呼ばれる空中都市へ人々は移住し、地上はどんどん森林化して行く。 アトラスとは東京の空中に地盤を作り、その上に七階層、八階層と階層を重ねて行く新都市だ。 一階層がビル群が建てられるほどの高さなので、何階層かを積めば富士山をはるかにしのぐ高さになる。 アトラスへ移住出来るのは中流より上の層の人達だけで、残った人々は地上でどんどん森林化される中で生きている。 3人の少女達が主役的な役割りで登場する。 その一人が、炭素経済の元となる炭素指数を自在に操るプログラムを作り上げ、炭素マネーを自在に動かす。 また、別の少女はアトラスへ移住出来なかった人達が作る反政府ゲリラの親玉となって、政府軍を翻弄する。 話の規模も大きいし、かなりの長編である。 方やマネー戦争、方や実際の戦闘、人工知能コンピュータ対人間とまぁ楽しめる本ではある。元柔道日本代表のニューハーフの存在も面白い。だが、如何せん長すぎる。 どう考えたって死んだんだろ、という人間を何回も生き返らせたりしているのは、雑誌か何かで連載していたからだろうか。 話を長続きさせようとしているようにしか思えないくだりが後半は続くのだ。 単行本化する時にCUTすれば良かっただろうに。 そして何より終わりに近づくに連れ、話はもうグダグダだ。 だんだんと収拾がつかなくなってきたのだろうか。 東京以外の日本がまるで描かれていないのはどうなんだ。 あとがきで筆者は東京のシンボルとはなんだったのか、にふれているが、この物語じゃまるで太古の都が東京だったみたいじゃないか。 それでもまぁ、脱原発で火力発電フル稼働の今にしてみれば、こんな近未来への想像たくましくなるというほんのちょっと過去もあったんだなぁ、という念も湧いてくる。 08/Oct.2012 シャンタラム(上) グレゴリー・デイヴィッドロバーツ 著
上・中・下の三巻からなる大作。 インドを知るには上巻だけでももう充分でしょう。 自国で強盗事件の後、拘留。 そこを脱獄してインドへ。 そしてインドのスラムで暮し・・・ 著者の略歴を見る限り、この本限りなくノンフィクションに近いものと思われる。 ボンベイ(現在のムンバイ)へ行くバスの中で知り合ったカナダ人のインド旅行慣れした二人の青年。 彼らは途中に並ぶスラム街を見て汚いでしょう、と口を揃えるが、主人公氏はバスが停止した時にそのスラムの家の中を観察している。 チリ一つ落ちていない。食器は整然と並んでいる。 家の中は極めて清潔なのだ、と。 その時から、主人公氏はスラムに住む資格を持っていた、ということなのかもしれない。 主人公氏は自らを犯罪者、逃亡者と言いながらも、すべからく素直なのである。 バスを降りた途端に群がって来る、ガイド希望者達。 旅慣れた人はさっさと無視してしまうのだが、主人公氏はその笑顔が気に入ったとその中の一人を雇い入れる。 また、自らの名前もそのガイドから「リン」の方が良いと言われ、そのままリンと呼ばせてしまう。 何から何まで、これまでの常識と思っていたことが覆される、目からウロコの小説(自伝か?)なのだ。 スラムの中では一切盗難は起きない。 そう、外からかっぱらって来たとしても内部では絶対に盗んだりしない。 たまに飼っている猿が手くせで人のものを持ってこようものなら、これどなたかのものです、と台の上に並べていて持ち主が現れるのを待っていたりする。 いさかい、けんか、もめごとがあれば、スラムというコミュニティの長が表れて、まさに八方がまるく収まる解決策を呈示し、皆はそれに従う。 ボンベイのスラムにはいろんな地域の人々が集まり、その宗教もヒンズーもあれば、イスラムもある。 そんな宗教上のトラブルなど、血をみない限り解決策はなかろうと思ってしまうのだが、その長は見事にいさかいをストップさせるのだ。 そして、スラムの中で困っている者が居れば皆で助け合う。 なかなかにして、すばらしいコミュニティなのだ。 まさにそのスラムのありようは「貧しいこと即ち不幸とは違う」を見せつける。 その言葉は昭和の貧しかった時代を懐かしむ年代層が言いそうだが、ちょっと意味が違う。 方や高度成長で未来に夢を見る人々だが、スラムの人々は未来に夢を見ているわけではない。 主人公のリンはボンベイから何十キロか何百キロか離れた電気も無い村へ一週間の滞在のつもりで赴くが、そこでも何ヶ月と住んで溶け込んでしまう。 貧しい村だが、ここの人々も未来を夢見てはいない。 それどころか、何百年、ひょっとしたら何千年と同じ暮らしを続けて来て、今後もずっと変わらないと思っている。 つまり未来もまた現在の延長でしかなく、これから変わるなどとこれっぽっちも思ってやしない。 インドをはじめ世界の貧困の凄まじさを書いた本はあまたある。 また、いろいろな旅行記もあるが、インドをこれほど深く知った人の本は無いだろう。 もう、これを読んだら他のインド旅行記など読めたもんじゃない。 インドでの子供の人身売買。 人身売買をするだけではなく、買ってきた子供をかたわにして、足を引きづらせたり、片手の不自由な身体にして、乞食として稼がせ、その上前をはねる商売がある。 そういうものを書いている本、いや書き手だけじゃなく読み手も、到底「人間のすることじゃない」と思ったことだろう。 それがごくごく一般の見かたというものだろう。 だが、この本は違う。 そうやって、買われて行った子供の方がまだ幸せで親も安心しているのだ、などというのだ。 そう買われなかった子供はそのまま飢えて死ぬしかないから、乞食としてでも買われた方がマシで買った大人に皆感謝しているんだ、とその商売をリンに見せるインド人は言う。 まさにこれまでの常識の正反対じゃないか。 主人公のリンはなんでも素直に受け入れる。その性格の良さがインドの人達にまた好かれる。 なんでも素直に受け入れるのは、もうどこへも逃げ場が無くなったから、とも読めるが、実際に素直な性格、そのガイドに言わせると「良い心を持っている」から。 まさにそうなのだろう。 冒頭のインド通のカナダ人旅行客は初っ端の宿泊費、三人で米ドルにして6ドル、これをして4ドルにまでまけさせられたのに・・という。 三人泊まって6ドル。もう充分に安いじゃないか。 これを三人であと2ドルばかり値切ったところで、その金にどんな使い道があるというのか。 リンは値切らない。 その2ドルを値切ることが宿泊施設の人たちの晩メシを削っているかもしれないと思ってしまうからだ。 インドの人は、ヒンディー語やウルドゥー語はもとより、自分のふるさとの言葉、ボンベイに出て来る人にはマラーティー語をふるさとの言葉として持つ人たちが多いが、そんなふるさとの言葉を覚えて話してくれる外国人が居たら、とたんに好きになる。 そして彼らは一旦好きになってしまうと、あふれんばかりの、見返りを要求しない愛で包んでくれるのだ。 「シャンタラム」。これはリンがインドの田舎で暮らしていたときに、そこでもっとも尊敬されている女性から与えられた名前だ。意味は「神の平和のひと」。 一年の間に何度も何度もインドを訪れるインド通と呼ばれる人たちがいる。 彼らの自慢はどれだけ安く旅が出来たか、であり、インドをいかに良く知っているか、なのだろう。 そんなインド通の彼らにさえ、インドの人々は、通り一辺の外国旅行者向けの一面しか見せていないのだ。 21/May.2012
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