読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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カッコウの呼び声 ロバート・ガルブレイス 著
あのハリーポッターシリーズの著者J.K.ローリングがロバート・ガルブレイスというペンネームを使って書いた探偵物。 ガルブレイスという名前からは「不確実性の時代」などで有名な経済学者を思い浮かべてしまうが、全く由来にも関連は無さそうだ。 何故、わざわざ別の名前で出版したのだろう。ローリングの名前で出せば即座に世界中ベストセラーになっただろうに。 案外、この探偵物、実験的試みだったのかもしれない。 ローリングの名前だとそのイメージが先行し、ポッターを期待する読者にがっかり感を与えないようにという配慮だったろうか 結果的にはローリングの別名、という知名度が有ったからこそ、早々に日本でも翻訳出版され、こうして手にすることとなったわけだから、ポッターの名前を傷つけずにベストセラーへの近道を得たということで出版社としては万々歳だろう。 事務所の家賃すら滞納しているさえない私立探偵コーモラン・ストライクという男が主人公。 その事務所へ手続きミスのような形で派遣されて来たのがロビンという名の女性秘書。 家賃さえ払えないのだから、派遣とは言え、事務員や秘書を雇う余裕などあるはずが無い。 その直後に舞い込んだ一つの依頼。 超有名なスーパーモデルの自殺に関して、その兄が依頼に来る。 「妹は絶対に自殺ではない、調査をして欲しい」というのが依頼内容。 著名な人の事件だけに警察も念入りに調べた結果の自殺の判断したのだろうから、それを覆すのは容易ではない。 だが、探偵事務所というところ、事件を解決したり、覆したりすることが仕事ではない。 依頼に基づいて調査を行い、その調査結果を出すことが仕事である。 依頼主からもらえる高額な報酬も引き受けるきっかけには充分だろう。 誰しもが自殺を疑わないこの事件の調査にコーモラン・ストライクは決して手を抜かない。 最後には意外な結末が待っているのだが、そういう展開はハリーポッターのシリーズの中でもクライマックスになって信頼していた人がヴォルテモートの手下だったり、それを暴いたり、という流れもちょくちょくあったような気がする。 若干だが類似性はあったわけだ。 そんな話の本筋よりも秀逸だったのは派遣秘書のロビンの存在。 なんと機転が利く人なのだろう。 かつて、中東で仕事をしていた人が日本の会社で会議用に資料を10部コピーするように頼んだところ、参加者一人一人が読みやすいように1部ずつクリップでとめられた資料の束を見た時に彼は感激してしまった。日本では当たり前のことのようだが中東の事務員ではまず考えられないという。「日本の事務員は世界一優秀だ」と声を大にして言っていたが、そんな日本の事務員でもこんなロビンにような仕事ぶりを発揮する人は早々いない。 指示された仕事にはその期待の何倍もの結果を出して返して来る。 派遣社員なのだから何時から何時まで働いていくら、という時間の浪費のような仕事の仕方をしない。 上司の今一番求めているものを的確に把握し、常に能動的に動く。 それでいて細やかな気遣いはどうだろう。 これが一番びっくりだ。 物語のストーリーよりも寧ろ、このロビンと言う人の働き方にしびれてしまった。 何故、この人をこれまで正社員として迎え入れる会社が無かったのであろうか。 いや、寧ろ逆か。日々勝負の派遣だからこそ身に付いた生きかたなのかもしれないなぁ、と一人ごちたのでした。 14/Dec.2014 カッシーノ! 浅田次郎 著
カッシーノとは知っている人は知っているカジノのこと。 浅田次郎がモナコから始まってイタリア各地、フランス各地、オーストリア各地、そしてロンドンと、ヨーロッパを股にかけてカジノ巡りをし、ギャンブル三昧の旅行を楽しんだ一冊。 なんとまぁ豪快でゴージャスなことだろうか。 浅田次郎と近い世代で言えば村上龍なども以前は若者雑誌向けの連載もので世界を飛び回って贅沢三昧をする話を書いていたし、新しいところで「案外、買い物好き」という本では、イタリアへ行って、シャツを何十枚単位で大量買い、靴をまとめて何十足と豪快な買い物ぶりを披露していたが、浅田次郎のようなギャンブルの世界へ踏み込んだ類は読んだことが無い。 浅田次郎自らは、自分は小説家がたまたまギャンブルをしているのでは無く、小説を書くギャンブラーなのだ、とのたまう。 さて、何ゆえ今になって「カッシーノ」なのか。 この本は2003年刊なので、近著というにはちと遠い。 それは、橋下大阪府知事が「大阪カジノ構想」というものをぶちあげている最中だからに他ならない。 かつて石原東京都知事も「カジノ構想」を語っていたはずだが、あれはいったいどうなったんだろう。 一言でカジノと言ってもそのスタイルたるや、各地域地域にて全く趣きを異にする。 もちろん観光客目当てが大半だろうが、オーストリアのカジノに見られるような、来るなら来い、という姿勢のところ。入場料ならぬ、入り口チップを買わなければ入らせないというのは、立見の観光客を排除するのが目的。 タキシードに蝶ネクタイなどという正装で無ければ入れないところなどは、一般の観光客には敷居が高すぎる。 フランスのように、郊外のリゾート地でしかカジノを開設してはならない、という取り決めのところが大半であるが、中にはロンドンのように街中の至るところにカジノがあるようなところ有り。 但し、ロンドンのカジノはすべからく会員制。 中には50万ポンド(書かれた当時のレートで約1億円)を一晩で賭けることが条件のところなども紹介されていて、それこそどんな連中が遊ぶんところなのか、桁が違いすぎて呆れてしまうほどである。 それにしても、大阪の人間がタキシードを着て、蝶ネクタイをしてカードに興じる姿というのは想像するに難いものがある。 この「カッシーノ」に次ぐ第二弾「カッシーノ2!」という本では、イスラム圏内の各地のカジノなども紹介されている。 こちらのスタイルはどうか、というと徹底的に外貨獲得に徹している。 まず、地元の人は入れない。 それになんということか、現地の通貨が使用出来ない。 米ドルを使用せよ、という。無ければ円でも良いなどと。 カジノがあるホテルでも現地通貨から外貨への換金はしてくれない。 カジノでドルや円をたんまり使わせても外貨獲得。たまたま、客に勝たせてやったところで、現地通貨から外貨への換金が行われないのだから、その国で全て使って帰れということなのだろう。 現地通貨に換金し過ぎて、その余りで散財してやろうか、という輩は入る余地がない。 大阪カジノ構想というものには総論賛成なのだが、はてさて、大阪カジノはいったいどんなスタイルを目指すのだろうか。 ちなみに海外の人から言わせると、「日本にもたくさんカジノがあるじゃないか」と言われるらしい。 つまりパチンコ屋さんのこと。 あれだけ、街中の至るところに、しかも全国的にカジノがある国も珍しいと。 パチンコは日本独特のカジノスタイルなのだそうだ。 そのパチンコ屋さんの件数で言えば、大阪には首都東京と匹敵するぐらいの件数があるだろう。 人口比で言えば絶対に大阪の方が多い。 ということは大阪にはギャンブルの下地がもともとあるということなのかもしれない。 この本には、そもそもビスマルクがカジノで負けなければ、第一次大戦も第二次大戦も起こらかったのではないか。 と浅田次郎らしい視点が登場したり、あのドストエフスキーが旅先でカジノにハマってケツの毛まで抜かれるほどに負けてしまい名著『賭博者』を書くはめになった。 などというカジノにまつわる逸話がいくつも書かれているので、ギャンブラーでなくとも楽しめる。 日本人をして 「タイム・イズ・マネーも結構ですが、タイム・イズ・ライフということもお忘れなく」 と言うカジノ経営者の一言は、いい言葉だなぁとは確かに思うが、だからって即ちギャンブルって言うわけでも無かろう、とも思う自分もいる。 って大阪カジノに水を差すわけでもなんでもなく、府市統合も大阪カジノもうまく行くに超したことは無い。 大阪府民であり且つ大阪市民として応援しよう。 ただ、ビスマルクではないが、他所の国の将来の国家元首が来て、大負けさせたために第三次世界大戦勃発!なんていうオチだけは御免蒙りたいものである。 06/Jan.2011 カッシアの物語 アリー・コンディ 著
近未来小説。 人類が目指すべきユートピアを描いた作品はいくつもある。 そのほとんどが、実はユートピアとは、管理された監視社会であった、という類のもの。大半の人々はそのユートピアを信じ、これぞ正しい生き方とその与えられたものに満足し、感謝さえしたりする。 ところが、その社会の有りかたに疑問を持つものが表れるや否や、ユートピアはその牙を剥くのである。 何故にそのような監視社会ばかりを描くのだろう。 いったいいつになれば、ジョージ・オーエルの「1984年」の延長でしか勝負しないのだろう。ジョージ・オーエルが皮肉った相手のソビエト連邦はとうの昔に消えて無くなったというのに・・。 とはいえ、それぞれの近未来作者はしのぎを削り、それぞれの新しい世界をみせてくれていることもまた事実。 この物語の世界、人はCREATEする、という行為が出来なくなってしまっている。 文字は読めても文字が書けない。 どうやら、文字を書くことはどうやら禁止されているらしい。 音楽に興味を持つ者も居ない。 生涯の中で二大イベントの一つが17歳で体験する「マッチ・バンケット」と呼ばれる儀式で、生涯連れ合うのに最も相応しい、見ず知らずの結婚相手をその場で決められる。もちろん、たまたま知っている相手と当たる場合もある。 仕事に関してもその人の能力に見合った仕事が割り振られる。 31歳をすぎて子供を持つことは禁じられている。 自分の家の中ですら正直な会話が出来ない。 資料館などで、特定のキーワードで検索をかけると、誰がどんな検索をかけた、とあらぬ嫌疑をかけられかねない。 そして、癌になることもなく健康体のまま生きて、二大イベントのもう一つである「ファイナル・バンケット」と呼ばれるイベントを迎える。 「ファイナル・バンケット」とは80歳の誕生日にめでたく健康体のまま、死を向かえるイベントなのだ。 人間、歳をとって自分が必要とされていない、と思う状況ほど辛いものはない。 この世界で科学的に計算された健康で理想の寿命、それが80歳なのだった。 これがこの物語でいう「ソサエティ」という世界。 「ソサエティ」では何事につけ、公平なのだ。 そして、生まれてから死ぬまで、ずっと管理されているわけだ。 そこまでしてルールに縛られ、管理、監視され、彼らは何を得るのだろうか。 安寧な生活か?健康な肉体か?貧困ではない生活か? 逆にそのルールを破ったら何がもたらされるのだろうか? 優秀な人間は仕分けと呼ばれる仕事を行う。 コンピュータででも行っていそうなそんな仕事を役人となった人間が行う。 仕分けとは特定の仕事に向いている人間、向いていない人間を選り分けて行く仕事。 結婚相手を見つけ出すのも一つの仕分けなのだろう。 その上級職がまた仕分けする人間を仕分ける。 では逆に掟破りをして異端となった果てには何があるのか。 ちょっとした異端は「逸脱者(アベレイション)」と呼ばれ、もっとはずれた者は「異常者(アノーマリー)」と呼ばれる。 異端の身分になると、少なくとも長生きだけは出来そうに無さそうだ。 この物語、ソサエティというこの管理されながらも安全な社会で平凡に生活を送っていた少女、カッシアが、「マッチ・バンケット」で定められた相手以外の異端から来た男の子を好きになってしまう。 そして、文字を書くことを覚え、ソサエティのルールを侵すことを覚え、ソサエティからのはみ出し者になることも厭わなくなって行く。 この一冊でストーリーとして充分に完結していそうにも思えるのだが、続編がまだ出るらしい。 異端の世界へ行ったその後、ということだろうか。 そこがどんな世界かはわからないが、どこだろうが常人ならこんな監視社会よりはマシと思うかもしれない。 でも、生まれてこの方ずっと管理・監視されることに慣れ、平和な世界に慣れたカッシアが如何に耐えて行くのか、乞うご期待、といったところか。 26/Apr.2012 海峡の南 伊藤たかみ 著
北海道から神戸へ移住して来た父。 大局の無い小さな金儲けのネタがあれば、ハナを効かせ、飛びついて何でも手を出しては失敗する。 大した商才もないのに儲け話にだけは、飛びついてしまう。 そんなやついるよなぁ。今となっては「いたよなぁ」になるのかな。 とはいえ嫌いじゃない。そういう生き方も。 どうせすっかんぴんで出て来たんだから、すっかんぴんになったところで恐れる何があるのか。 失うものがないところからのスタートなら失うものはない。 失うものを持ってしまうと重荷になる。 ならば常に失うことを怖れずに好き勝手に生きるのも一つの生き方だろう。 まぁ、そんな父を持った息子には災難かもしれないが。 それにしてもおもしろいなぁ、この伊藤たかみという作者の表現は。 思わずそうなのかなぁ、と思えてしまうし現にそうなのかもしれないと思えるところしばしば。 それを主人公の”はとこ”の歩美に語らせる。 子供が母親似なら昔一度は好きになったという遺伝子を引き継いでいるはず。だから母親似なら父親が好きになる要素をたっぷり持っているはず、という理屈。ほーんなるほど、などと思ってしまう。 「不在という名の存在」これはこの本を読まなければわからないかもしれない。 それを聞いて主人公も、んなわけあるか、と思いながらも案外そうかもな、と思えるところはあたりで主人公の意識が読者に伝播するのである。 北海道は時間がゆっくりとながれているのかもしれない。 北海道は距離感がつかめない。 そうなのかもしれないなぁ、と。 ”はとこ”どころかこの主人公の男性も父はホームレスになっているのかもしれないと言われた時に、「今なら親父のことが好きになれそうな気がして来た」というあたり相当な変わり者か。 北海道の人が本州を「ナイチ」と呼ぶあたりに「そうだったのか」などと思ってしまうが、この舞台の大半にあたる紋別や遠軽というところから見れば、距離的にはロシアの方がはるかに近い。 かつて父親が渡った北海道から本州へと海峡を渡ることの重み。 本のタイトルである 『海峡の南』 という言葉の意味を何度も想起させてくれる本だった。 06/Jul.2010 会社に人生を預けるな リスク・リテラシーを磨く 勝間和代 著
この本、リスクという言葉が一体何回登場するのだろう。 1ページに一回、二回、三回・・・と二十回を超えたところで数えるのを止めた。 サブタイトルにもある単語なので、何度か登場するべき単語なのだろうが、頭の良い人らしいので愚鈍な読者にこうやって繰り返し、繰り返し、同じ単語を使って、読者を洗脳して、いや教育しておられるのだろうか。 なんといっても「世界で最も注目すべき女性50人」の一人なのだと本の筆者紹介にあるほどの人だ。 先日サンデープロジェクトという番組に勝間和代という女性が登場していた。 あぁ、この人だったのか、と読んでいる本の筆者にテレビで遭遇。 その番組では月々17万の給与で保育園の園長をしながら二人の子育てをするシングルマザーがその日々の苦労を語り、この筆者はほんの二三回、話を振られた程度で、「政府はもっと子育てを支援しなければ・・」云々の様なコメントを述べておられたように思う。 この同世代と思われる二人の女性がテレビにツーショットになる絵、テレビ局にも本人にもその意思は全く無いのだろうが、どうしてもいわゆる勝ち組(この言葉はあまり好きではないが)とそうでない組のツーショットに見えてしまうのはなんとも皮肉であった。 そこで筆者が本でさんざん述べておられる「リスク」という言葉を持ち出して、 「結婚する時にリスクを考えたの?」 「子供をつくる時にそのリスクを考えたの?」 「離婚する時にそのリスクを考えたの?」 などと畳み掛ければ、なるほろ、この人は一貫しているんだ、などと変に感心してしまったかもしれないところであったのに。 それは余談。 さて、この本は一体誰に対してうったえたかったのだろう。 終身雇用の制度を奴隷制へなぞらえ、会社を辞めて転々とするとどんどん就職が困難になる現状について片や述べながら、会社に人生を預ける事を否定する。 現在就職している人や、これから就職する人達を対象に発しているのだとしたら、何か矛盾してやしないか。 世の中の経営者連中や大企業の採用担当へ働きかけるのであれば、それはそれで筋が通っているかもしれないが、会社を辞めて就職しづらくなっている人達に向かって就職が困難になるが、会社に終身雇用される考えを捨てよ、といってもそれは言う対象者が違うだろう、という気がしなくもない。 とは申せ、我々のコンピュータ業界ほど、終身雇用の概念の薄い業界も珍しいかもしれない。技術者はそれなりのスキルを身につければ、より条件の良い会社に転職するという事が最も他の業種よりも早くから行われていた業界である。 業界そのものにも転職者というものに対しての違和感が全くない。 このご時世でこそ、敢えて自ら退職して独立しようという人は少ないが、これまでは、転職の末、最後は入社せずにフリーの技術者になるというパターンも少なくなかった。 筆者の言うところのリスクとリターンは表裏一体であるという事を充分意識し、体現して来たのは我々の業界だったのかもしれない。 我々の業界はその動きが早かっただけで、一時、というより少し前までは終身雇用などはもう古いという風潮が当たり前になりつつあったのではなかっただろうか。 その最後のピークが、筆者の批判する小泉政権の時代だったかもしれない。 この本は一体誰に対して・・・の答えが読んでいくうちにわかったような気がする。 今の政治に対してうったえたかったのだろう 「よりよく生きるために」 「リスクを取れる人生はすばらしい」 これらの投げかけは目下の仕事を確保するのに精一杯の人達に対してのものではないのだろう。 政治に対して言いたい事が多々あるお方なのだと思われる。 まもなく総選挙もあることだ。 この筆者は政治家が向いているのではないか、とお見受けした。 04/Jun.2009
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