読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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AX 伊坂幸太郎 著
伊坂幸太郎の作品には何度か殺し屋が登場する。 今回登場するのは通称「兜」という殺し屋。 外では恐いもの無しの男が、家へ帰ると、そこまでして恐れる必要がどこにあるのか。と思うほどの極端な恐妻家。 何が食べたいと聞かれて「なんでもいいよ」という回答は一番いけない。 手がかからない、簡単にできそうなものをセレクトして回答する。 そして作ってもらった料理はどんな味でも一口でやめてはいけない。 相手の話には常に大きく相槌を打たなくてはならない。 「怒ってる?」と訊ねて「別に怒ってない」と答える場合は、基本的に「怒っている」。 会話はまず「大変だね」から始める。 という具合に妻を怒らせないためのマニュアルまで作り上げる。 妻に突っ込まれそうになるたびに息子がうまく助け船を出してくれたりする。 逆に息子からしてみれば、なんで母親にだけはあんなに卑屈になるのか、と疑問でならない。 この男、殺し屋稼業をもうやめようと思っているのだが、仕事を仲介してくる医者がなかなかやめさせてくれない。 このAXでは押し屋、檸檬、蜜柑・・などの別の伊坂本に登場した殺し屋たちの名前も登場してくるので少しうれしくなる。 途中まで読んで、どうも以前読んだことがあるような気はしていたが、類似の作品かもしれない、と読み進み、深夜デパートにデパートに来たシーンあたりでは既にその続きを知っていた。 最後近くのボーガンのシーンではっきりと蘇った。どのシチュエーションで読んだ本なのかをはっきりと思いだした。 蟷螂の斧あの時に読んだ本だ、と確信した。 そうだ。「蟷螂の斧」を所詮カマキリだなどと甘く見てはいけないのだ。 それをこのシーンではっきりと思い出した。 この男、殺し屋という物騒な商売をなりわいとしながらも、家族思いで、ひたすら優しい男の話なのだ。 ![]() 28/Sep.2020 アイネクライネナハトムジーク 伊坂幸太郎 著
短編だと思わせておいて、最後の方で実は全員つながっていた、みたいなパターンなんだろう、と思って読み始めたら、いきなり二篇目から繋がってた。 最後で繋がるどころか、全編にわたる人物が複雑につながりまくってる。 実はこの一篇は過去の話で、誰某は誰某の娘で誰某と友達だった誰某は誰某の会社の先輩の娘で・・・みたいな。 人間関係、複雑すぎるだろう。 マーケットリサーチ会社に勤める男が夜中の街頭でアンケートを取るはめに。 本来はサーバの中に鎮座しているはずのマーケティングデータが、システム管理担当の先輩のチョンボでぶっ飛んでしまったためだ。 そこでアンケートに答えてくれたフリーターの女性。 その女性とあるところで再開するという、割りと平穏な出だし。 次の舞台は美容院。 美容院の常連客が弟を紹介するという。 断ったが、客は勝手に携帯の電話番号を教えてしまい、弟君と週に二三度、長電話をする中に。お互いにあったことも無い相手と8カ月以上電話だけでデートをしているようなもの。 その相手が誰だったのか判明した時はさすがにぶっ飛んでしまいましたね。 客とトラぶったりして一方的に罵られている女性への助け舟として、さも罵っている男を心配してあげているかのような「この方は誰の娘さんかご存知ですか?」作戦。 この作戦が、軸になっていろんな人に伝授されてまた、その繋がりが見えてきたりする。 なんとも面白すぎる構成だ。 他にも日本人のヘビー級プロボクシングのタイトルマッチ、これも縦軸の一つか。 ある一篇の中で広告代理店のクリエーターがいかに大変か、という話になる場面がある。作家やアーティストは一度、探し出した金鉱と同じ路線を掘り続ければいいのだが、広告のクリエーターに二番煎じは無い。それって前にもあったパターンだよね、が通用しない、常に新たな発明をし続けなければならない、云々。 (近年はシリーズもののCMってのも多くなってきたかもしれないが・・。) でもどうだろう。 伊坂さんの作品って、充分に新たな発明ばっかりじゃないの? 07/Mar.2016 アヒルと鴨のコインロッカー 伊坂幸太郎 著
現在の語り部は大学に入学したばかりの平凡な僕。 引越しをして来たばかりの僕は隣人に挨拶をしていきなり本屋を襲撃しようと誘われる。 この物語にはもう一人の語り部が居る。 時期は現在の僕から遡ること2年前。 語り部はペット殺しの三人組につけねらわれる女性の「わたし」。 単にペット殺しと言ってもその残虐さになぶり殺しにしてしまう凶悪な連中。 現在と2年前の物語が交互に登場するスタイルです。 章が変わる毎にまるでコマーシャルで中断されてしまったドラマか映画の様にその続きが読みたくなり、結局途中で読む事をやめられなくなってしまう。そんな小説でした。 物語の主役は2年前のわたし=琴美と河崎とブータンからの留学生ドルジ。 ブータンというと大乗仏教のお国。 「人を思いやるという事を大切にする」のはどんな宗教でも一番の主眼に置いている事でしょうが、それが来世の自分自分の幸せにつながるというのが大乗仏教だったでしょうか。 ですからブータン人のドルジにとっては人が死ぬ事も悲しい事では無いはずなのですが、もの覚えの良いドルジが日本人に感化されるのは早かった様です。 ドゥックユル(雷龍の国)、ブータン。 ドルジはブータンから日本に留学に来ましたが、ブータンにとって日本から来て学ぶ事など本当にあったのでしょうか。 ブータン、パキスタン、カラコルムの僻地へ行った時にも感じましたが、集落の佇まいやその生き方は自然とともに有り、おそらく何百年何千年も前からこんな暮らしをしていたのだろうなぁ、という近代化を否定した様な豊かな生活。 現在と2年前の二つの物語はもちろん繋がっていてだんだんとその繋がりが正体を表す。 そのあたりは『ラッシュライフ』が複数の話がどこで繋がるのかさっぱり分からなかったのとは少し違って、つながるべくして繋がった、というところでしょうか。 そして主人公であるはずの僕は主人公でもなんでも無く、この物語の中ではほんの脇役でしかなかった事に自分の存在に気がつく。 ボブディランの「風に吹かれて」でが無ければつながっていさえしなかったかもしれません。 皆、人生自分が主役だと思って生きているのに語り部でありながら、主人公達のお話の最後の最後のしめくくりのしかも脇役でしかすぎなかったぼくの存在がなんとなく哀れにも思えますが、まぁ人生そんなものでしょう。 さてこの『アヒルと鴨のコインロッカー』が映画化されてこの5月12日から仙台では全国に先駆けて公開されているはずです。 全国展開は6月以降からとか。 この物語、本で読めばこそのどんでん返しがあるのですが、映画化されるとそこがどうなってしまうのかが少し気になります。 そのあたりを映画化にあたってどういう工夫をしたのか、この映画を観る時の楽しみでもあります。 では皆さんここまで読んでくださって「カディン・チェ」。 (ゾンカ語=ブータンの国語です「ありがとう」の意) あ、そうそうこの文章UPする時にはボブディランの「風に吹かれて」をバックミュージックにいれておいてくださいね。How many roads must a man walk down・・・・ えっ、著作権の問題で無理?しかたが無いなぁ「ラ・ソー」。 (「ラ・ソー」はゾンカ語で 「ほな、サイナラ」の意) 28/May.2007 オー! ファーザー 伊坂幸太郎 著
父と母と子供一人の家庭なのになぜか六人家族。 なんと四人の父を持つなんとも贅沢な高校生の物語。 四人の父親が同居している。 正確には母とその交際相手の四人が同居しているというべきなのかもしれないが、実際にこの母は四人の男と同時に結婚をし(籍は別だが)、四人はそれぞれで納得ずく。 この四人の仲が険悪なら(普通は険悪だろう)この子供は毎日がいたたまれないはずなのだが、性格も見た目もまるで違うこの四人の仲が良いのだ。 それに主人公である由紀夫という息子を皆が愛し、自分の息子だと思っている。 普通に考えてしまえば、ご近所から見れば同時に四人の愛人と同居する女性とその息子。ウワサになったり冷ややかな目で見られて育ってしまうのだろうが、ここではそうではない。 それはこの四人があまりに堂々としているからかもしれないが。 ・大学教授で物知り、常識人の父。 ・バスケットボールの名手で武道にも長けている人で熱血中学教師の父。 ・ギャンブルのことならまかせとけ、というギャンブラーで地元の裏社会を牛耳っている人にも繋がりのあるの父。 ・初めて出会った女性とあっと言う間に打ちとけてしまえる能力を持つ、女性にモテモテの父。 こんな四人のいいところばかりを引き継いだら、どんな息子が育つのか。 バスケットボール部では先輩よりうまく喧嘩も強く、勉強も出来て、勝負強くて、女の子にもモテる、とんでもないスーパー高校生の出来あがりだ。 悪いところばかりを引き継いだとしたら、 ネクラでありながら空気が読めない熱血漢で女たらしでギャンブル好きの高校生。 なーんてことになるのだろうか。 実はこの本にもサン=テグジュペリの人間の土地からの引用がある。 「自分とは関係がない出来事に、くよくよと思い悩むのが人間だ」 作者はよほどサン=テグジュペリに思い入れがあるのだろう。 この本、2006年から2007年まで地方紙に連載されたものなのだとか。 それが単行本になったのが2010年だからかなり間が空いている。 作者にはその頃「何かが足りなかったのではないか」という思いがあったからだという。 いやぁ、単行本化されて良かったでしょう。 こんな楽しい本。 それにこの四人の父親達は息子の窮地を救うために不可能を可能にする作戦をやってのけてしまう。 四人が協力して知恵を出し合えばどんな不可能なことでさえ「やれば出来る」になってしまう。 将来の心配ごとがあるとすれば、30年後か40年後だろうか。 それぞれが介護を必要とするような老人になった時、さぞかし由紀夫君は大変なのだろうなぁ。 それでもやっぱり「やれば出来る」!かな? 18/Jul.2011 火星に住むつもりかい 伊坂幸太郎 著
テロ撲滅を目的に作られた「平和警察」と言う組織。 本来は海外のテロ組織のメンバを確保する事が目的で作られたのだろうが、お題目と運用がかけ離れてしまうこと、多々あるものだ。 交通事故を減らす事が目的の取り締まりのはずが、いつの間にか交通課警察のの点数稼ぎのためとしか思えないようなことだってある。 でも必ず言われるだも交通事故は減ったでしょ。 ただこの「平和警察」は次元が違う。 一般市民が嫌いなやつを嵌めてやろうと思っただけで、即機能してしまう。 通報一つでますは勾留される。 自白を強要されるような拷問を受け、自白させられると今度は一般市民を集めた場所でギロチンでの公開処刑。 容疑はなんだったのか。 テロの一味だと思ったのなら、そこで処刑してしまっては意味がないだろう。 もはやそんな普通が許される状態からどんどんかけ離れて行く。 しかし何故歯止めが効かないのか。 だって犯罪件数は減ったでしょ。 それが推進派の言い分だ。 かつてアメリカの9.11テロの後、時の米政府はこれはテロとの戦いだと対テロ宣戦布告をし、怪しいと目される人物と関わった人さらにその関わった人に関わった人と次から次へと監視の網を広げて行く。 これは後にアメリカから亡命したスノーデンの告発によってもそれがプログラムによってかなり大規模にしかも世界に網を張った状態で行われていたことが明らかになって行くのだが、そんな監視社会を「平和警察」は作ろうとしたのか。 いや、もっとひどい。 監視によって容疑者となったなら、まだ容疑者としての根拠があるが、ここに出て来る「平和警察」は何でもやりたい放題。 自分の気分で捕まえることだって処刑まで持って行くことだって出来てしまう。 これに立ち向かうのが黒づくめの謎の人物。 その捜査協力に東京からやって来た真壁という捜査官。 結構立場が上なんだろう。結構「平和警察」のことをボロカスに言っても平気な立場なんだから。 いいなぁ、この人のキャラ。 話しの流れなんてお構いなしで虫の生態なんぞを語り始めてみたり、謎の人物をたぶん「正義の味方」と名付けたのも彼。 この小説、ジョージオーウェルの世界と比較されるんだろうな、と読みながら思ったが、 案外この平和警察に捕縛された段階で、メディアからも一斉に袋叩き。やがては公開処刑という一連、ネット世界での炎上、袋叩きの方が似ているところがあるような気がしないでもない。 正義の味方はそこにも出て来てくれるのかなぁ。 ![]() 06/Jan.2019
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