読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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匂いの人類学 エイヴリー ギルバート 著
人間は何種類の匂いを嗅ぎ分けられるか。 3万種類を嗅ぎ分けられると言うジャーナリストも居れば、1万種類としたプレス・リリースも有った。 しかし、それはどれも根拠の無い意味の無い数字だった。 「なんてこった」と筆者は嘆くのだった。 この人、自身では調香師のように臭いをかぎ分けられるわけではないのだが、まぎれもなく、「匂い」の専門家だろう。 これだけいろいろな切り口から「匂い」というものを切り刻んだ本があるだろうか。 いったい匂いというのはどれだけの種類があるのか。 それを専門にする人達はソフトウェアのサブモジュールよろしく、上位からのカテゴリ分けの下の下位モジュールが幾層にも連なる方式で匂いを管理する。 そのカテゴリも時代やその専門とする業種によりさまざま。 そうして匂いというものを分析する人達がいるかと思えば、驚くべき実験結果が記述されている。 瓶の中の液体を綿の塊に沁み込ませて学生たちに嗅がせたのだという。 何か匂いがしたら手を上げるように指示すると3/4の学生が手をあげた。 だが、実際にその瓶の中の液体は全くの無臭の水なのだった。 匂いというものが、方や奥が深いものであるにも関わらず、人が感知する匂いはかなり心理的な要素に左右される。 別の実験では、ラジオで超高周波の音を流し、心地よい田舎の香りが流れる音だと説明すると、多くのリスナーが干し草の匂いがした、牧草の匂いがした・・・などと感想を報告して来たという。 もちろんラジオから匂いなど流れてはいない。 いかに「匂いがする」と思うことが直ちに匂いを感じることに繋がるのかを示した貴重な実験結果だ。 そのほかにも、マリファナの匂いのする印刷を頼まれた業者の話。 マリファナの匂いやコカインの匂いを作ることは果たして合法なのか。 料理と匂いの関係についての分析。 匂いがあるからこそ、風味というものが生まれる。 無臭のコーヒーなど誰が飲みたいと思うだろうか。 また「匂い」をマーケティングに利用しようという試み。 ありとあらゆる角度から「匂い」というものを分析している。 匂いについてだけで全12章。 なかなかにして値打ちのある本だと思う。
07/Mar.2012 追跡!私の「ごみ」捨てられたモノはどこへ行くのか? エリザベス・ロイト 著
まず、ロイト女史の「ごみ」追跡の執念に驚かされる。 日常生活で排出しているごみ。このごみの行方を追いかけることがこんなに大変だったとは。 この一冊にはゴミに関するありとあらゆることが網羅されている。 一冊に収めてしまうのが惜しいほどである。 どこかでリサイクルされているんだろう、と思っていたごみの行方を追いかけて行くと最終的には埋立地に突き当たる。 マンハッタンの高級住宅街が排出するごみは貧しく権利のない界隈へと集まる。 ロイト女史はその事態を「ごみはごみ扱いされている人々の上に捨てられる」という言葉で表現する。 埋立地はガードが固く、話を聞くことも立ち入ることも拒否されてしまう。 かつてジュリアーノ元市長が一掃する前はニューヨークのごみ回収業者はマフィアの手に委ねられていたのだそうだ。 マフィアが一掃された後であっても、新たに参入して来た業者による不正は行われ続けていると言われる。 リサイクルされるごみと言えば紙ごみや金属ごみ。 紙ごみは再生紙として生まれ変わるが、再生紙になる前にその大半はアジアへ輸出されるのだという。 再生紙用の回収率は毎年着実に上がり続けているにも関わらず、バージン紙の使用量は増え続ける。 アメリカで印刷される年間120億冊の雑誌の95%は全く再生紙を含んでいないのだそうだ。 日本でも以前に製紙会社が再生紙利用と銘うちながらも実際には再生紙ではなかった、というニュースがあったっけ。 全米で使用される紙は年間800万トン。再生パルプの入ったものはその三分の一にも満たない。 かく言うロイト女史の出すこの原著についてもロイト女史は再生紙で、と版元に求めたところ、他社よりも50%バージンパルプの含有量を少なくする、という返事だったという。 この原著でさえ、売れれば売れるほどバージンパルプを消費してしまうというなんとも皮肉な話である。 それでも紙ごみはまだまだリサイクルの優等生には違いない。 何故、再生紙に拘るのかは言うまでもないだろう。 バージンパルプを使用する、即ち森林伐採に繋がるからである。 しかも木を伐採して加工した場合、製品になるのはせいぜい43〜47%なのだという。 そしてもう一つのリサイクルの優等生と言えば金属ごみ。 かつて開高健が『日本三文オペラ』で描いた「アパッチ族」のように鉄くずを回収して生計を立てるする人はかつても今も多く居る。 この本では、くず鉄業から大企業に育った企業が登場する。 ロイト女史はそこでもスクラップの80%が輸出されている現状を目の当たりにする。 最大の輸出国は中国。 この本の章立ては「紙ごみのゆくえ」「金属ごみのゆくえ」のあとも「有害廃棄物のゆくえ」「プラスチックのゆくえ・・・」と続き、一人のジャーナリストが良くこれだけ追いかけたものだ、とほとほと感心すると共にそこに描かれる現実は、冒頭に「この本、一冊に収めるにはもったいない」と書いた如く、一つの章立てだけでも充分に一冊分の読み物に匹敵してしまうと思えてしまうからである。 ロイト女史はその中でコンピュータやその周辺機器などの電子ごみがどこへ行くのか、も追いかけている。 電子ごみの80%は中国、インド、パキスタンへ輸出される。 方や、ペットボトルなどの回収プラスチックも大半が中国へ輸出される。 中国にそれだけアメリカのごみを買ってもらい、大量の国債も引き受けてもらっている中国に対して、人種問題や人権問題に真摯の取り組むはずのオバマ氏が中国のチベット問題やつい先日のウィグル問題にコメントすら発っせられないのは、むべなるかなである。 もちろん、それだけの理由ではあるまいが・・。 とはいえ、この世界不況の中でも成長を維持し続ける中国が、いつまでもごみの輸入国に甘んじているわけがない。 いずれ、中国の排出したごみを日本やアメリカが引き受ける時代が来るのかもしれない。 上記数行の記述は本の主旨とは無縁である。 この本、リサイクルという名の美名の元にて行われる様々な不正に目を向けている。 単にリサイクルが素晴らしいと賛美するわけではなく、その本質を見極めようとしているところがいかにもジャーナリストの書き物だけあって好感が持てる。 日本でもごみの分別後、どのように処理されているのが明らかにされていないことに分別そのものに対する疑惑を述べる識者が居られる。 その識者の方々も疑義を述べるに止まらず、ロイト女史のように徹底的に追いかけてみて欲しいものである。 ロイト女史はデポジット制という、一見リサイクル効率を高めるための良い制度に見える制度が生み出す不当利益を得る企業にも目を向ける。 方や一方で、リサイクル出来ない製品を生み出す企業へ質問状を投げたりもする。 凄まじいバイタリティとしか言いようがない。 はたまた、ロイト女史は自らコンポスト(ごみの堆肥化)にもチャレンジする。 良く、日本の江戸時代は最もリサイクル化の進んだ時代だった、という話を聞くが、なんのことはない江戸時代まで遡らなくったって、身近な年寄りに聞いてみればいい。 ほんの40〜50年前だって、一般家庭からはほとんどごみが出なかったというではないか。 そう、まさにコンポストだ。 いわゆる台所から生まれる生ごみは、庭で穴を掘って、小山で穴を掘って、そこへ埋めて土に返す。 それが当たり前だったと。 地方へ行けば行くほどそうだったのだろう。 生ごみが生まれ始めるのはスーパーマーケット、やがてコンビニという便利な存在がパック詰めした食品を売り、土に返らないポリ袋というものに入れてくれ、生活者は庭も近所に小山もない集合住宅に住みだした頃からなのだろう。 とは言うものの、一般家庭から出るごみなどは、ごみ全体でいえばほんの2%に過ぎないのだという。 大半は物を作る製造過程で生まれる産業廃棄物。 はてさて、このごみの問題でも結局、終着点は産業構造の変革化が迫られているということなのだろうか。 22/Jul.2009 ウエハースの椅子 江國香織 著
おそらく、人に薦められでもしない限り、この本を読む事は無かったであろう。 この本を薦めてくれたのはこの本の中の登場人物と同世代の女性である。 私の知り合いまたは読む本に登場してくる女性になんとこの同年代の人の多い事か。 私はこの本についてはあまりコメントしたくは無い。 だが、読んだ以上はコメントせよ、との御達しなので致し方ない。 三十代後半の女性の視点ならではの描写がこれでもかこれでもか、と続いていく。 そのならではの描写には次第にうーんとうなってしまう。 別に物語なのではない。ストーリーすらない。 言わば今流行のブログのはしりの様な書き物か。 小学生時代の思い出も出て来る。 「なんでのこんな事をしなければならないのだろう」 同じ思いは実は私も感じたのである。 だが、私とこの登場人物との間には決定的な違いがある。 私は疑問に思った事はそのまま身近な大人(担任の教師だっただろうか)にぶつけたのである。 あれは何学期の事かは忘れてしまったが、とうとう堪忍袋の尾が切れた、と言わんばかりに険しい表情をしたその教師は教室の後方に座っていた私の所まで、早足で来るや否や、私に往復ピンタを喰らわせたのである。 その教師曰く、長年教師をやって来て、俺にピンタを叩かせたのはお前が二人目なのだそうだ。 一人目はどんな人だったのか、どんな事でピンタを喰らったのか、ピンタを喰らった直後であるにも関わらず、自分の好奇心にはやはり勝てない。そのまま質問してしまった。 その人が何年も前の小学生の女子であった事だけは聞き出せたが、残りの疑問には一切応えてはもらえなかった。 あの学校では5年の担任はそのままクラス替えも無く6年も担任する事になっていた。 私は6年生からは親の都合で転校してしまい、別の学校に移ったので、さぞかしその教師はほっとした事であろう。 話が思いっきり飛んでしまっている。 元へ戻そう。 この登場人物と同年代の三十八歳の女性であれば、多分に自分と重ねて見て、同じ思いを共有してしまう、とう事は無いだろうか。 この本の愛読者は反発するのであろうが、この本に共感を持った人を私は好きにはなれないだろう。 どうしてもポジティブにな気持ちを維持出来ないのではないだろうか。 あまりにネガティブなのである。 ウエハースの椅子では恋人は決して彼女を嫌いになったりはしないし、彼女も恋人にどっぷり浸かっている。 ただ、恋人がウエハースの椅子を自身の事として書いている姿を見た時、興ざめの様なものは起きないだろうか。 それでも彼は優しいので内面はどうであれ、外面は同じ様に優しいのであろう。 19/Mar.2005 バージェス家の出来事 エリザベス ストラウト 著
アメリカのメイン州で育った兄妹3人。 長男がメイン州を出て、次男のボブもメイン州を出てニューヨーク暮らし。 妹のスーザンだけは息子と共にメイン州にとどまっている。 長男のジムは有名な事件の無罪を勝ち取りアメリカ全土で有名になったようなエリート弁護士。 やり手ではないが、気の優しいボブ。 そんな二人の元に事件の連絡が入る。 スーザンの息子のザックがソマリ人の集まるラマダンの晩のモスクにあろうことか、血の付いた豚の頭を投げ込んだのだ。 中に居た人々の恐怖は相当なものだ。 小さい子供はトラウマになるかもしれない。 その事件をきっかけに二人の兄弟はメイン州に帰る。 メイン州というのは、若者は大学進学とともに地元を出て行き、そのまま帰って来ない。なんだか日本のあちらこちらの地方を思い起こさせる。 そこへ、ソマリアから大量に移民が入って来て、町の雰囲気は彼らが過ごした子供の頃とは一変している。 実際にはソマリアと言っても比較的治安のいいソマリランド、海賊国家ブントランド、治安の悪い南部ソマリアなどいろいろあるのだが、アメリカ人にとってソマリアなんて聞いたことのある人は稀だろう。 せいぜいソマリア=海賊と紐付くぐらいか。 移民が大量に来たってそんな程度の認識。 アメリカはもとより移民国家だ。 それでも住民が減少傾向にある地域で、大量に来た人々が、英語も話せず、女性はブルカを被って表情も見えない。 そんあ異教徒集団が集まって来てしまう、というのは気持ちのいいことでは無いだろう。 だからと言って、彼らにとって最も苦手な豚のしかも頭とは。 最も、この事件で一番傷ついたのは事件を起こした当の本人のザックだったのだ。 事件後もゆうゆうとしていた長男のジムだったが、ザックが行方不明になったことをきっかけに壊れ始める。 もうそれぞれ50歳を超える年になった兄妹なのだが、人生年をとっても何がきっかけで何が起こるかわからない。 そんなことを考えさせられる本だった。 09/Nov.2014 聖女の遺骨求む エリス・ピーターズ 著
イギリスすなわちグレートブリテンがイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドからなることはサッカーファンは必ず知っているでしょう。 ワールドカップ予選ではイギリスでは無く各々の四カ国が別の国としてエントリーしていますし。 もちろん、サッカーファンならずともさようなことは承知の事実じゃ。と言われそうですが。 各々四カ国と言ったって、日本の九州や四国や北海道みたいなもんじゃないの、ぐらいに思っていた人は、この本を読めば、そんなものじゃないことが良くわかるだろう。 かつてはヨーロッパ全域に暮らしていたケルト民族。 数々の歴史の中で地方へ散っていくが、ここグレートブリテンにてはアングロサクソンに中心から押しやられ、ウェールズ地方へ移り住んだのだと言われる。 この本の時代背景である12世紀ならば、言語も違えば、民族も異なり、風習も違えば、倫理観も異なる。そこへ入って来て徐々に広がりつつあるのがキリスト教。 中世の教会というもの。 かくの如くに、教会が祭る聖者、もしくは聖女をなんとしてもものにして、教会の権威付けを行いたかったのだろうことが想像できる。 宗教伝播より寧ろ権威付けを目的としていたのかもしれない。 主人公の修道士カドフェルの存在が無ければ、当時の人々は神秘的なことについて聖者や聖女の魂の為せる業と言われれば、そうなのか、といとも容易く信用し、事の本質は明らかにならないままだったのだろうし、そのようなことは歴史の中にはいくらでもあったようにも思えて来る。 またこの本、キリスト教徒にとってはうれしくない、どころか排斥すべき本だったのではないだろうか。もちろん『ダ・ヴィンチ・コード』ほどではないにしろ。 そのような本をキリスト教信者が殆どの国で今から約100年近く前に産まれた世代の作者が書けたものである。 この本のジャンルは一応ミステリという範疇になるのだろうか。 となれば余計にエンディングは書けないが、一般の探偵もののように真犯人がわかったから、真相が究明されてから、といってそれを暴きたてたりはしない。 とてもおしゃれな終わり方をするのである。 01/Oct.2009
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