読み物あれこれ(読み物エッセイです)
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忘れられない脳 ジル プライス 著
サブタイトルは「記憶の檻に閉じ込められた私」 著者の欄に「バート デービス」という名前もあるので共著なのだろうか。 子供の頃からの記憶がほぼ完ぺきに残っているというのはどんな状態なんだろう。 この本の自伝を書いたジルという女性は2〜3才の時の記憶も有り、本格的に記憶が残り始めたのは8才から。 14才以降になってからというものほぼ100%の記憶が頭に残っている。 頭の中には30年以上のDVDが録画をし続けながら、再生をし続けている状態か。 いや「記憶がある」とうだけなら時に困らないだろうが、常に子どもの時からの記憶がアトランダムにつなぎ合わされて頭の中を駆け巡っている状態というのは、どう考えてもまともな暮らしが営めるとは思えない。 筆者のジルという女性の頭の中には全てのシチュエーションが頭の中に残っている。 かつて映画「レインマン」でダスティン・ホフマンが、一度読んだもの、一度見たものを丸暗記してしまうサヴァン症候群の自閉症の男を演じていたが、そういう丸暗記とはまた違うのだ。 彼女は九九さえまともに暗記出来なかったと書いている。 自分で見た、自分で感じたものをその感じたままに記憶している。 子供の頃、恐いと感じたものはそのまま恐いと感じたままに記憶が再生される。 何か子供の頃にショッキングな出来事があるとそれがトラウマになるとか、よく言われるが、彼女の場合は全ての出来事がトラウマ? 精神的な外傷ではないが、記憶への残り方はトラウマみたいなものとといってもいいのかもしれない。 楽しい記憶だけが残っているならいいが、ちょっとした不注意な発言で人を傷つけたり、傷つけられたり、辛いこと、悲しいこと、いやなこと、怖い経験、全てが頭に残ってしまっては溜まらないだろう。 ちょっとした嫌な出来事を一日、二日で忘れられるというのは人間の生きて行く上での自衛本能ではないだろうか。 少し前の事だが、長年会っていなかった高校時代のサッカー部の同期の連中と同期会で集まる機会があった。 話題の中心はやはり高校時代のサッカーの試合の話。 その時に人の記憶というものがいかにあやふやなものであるか、ということを痛感した。 高校の最後の公式戦でPK負けを喫してしまい、その試合を最後に引退となったわけだが、最後のPKのシーンは蹴った本人はまさか忘れていないだろうと思っていたら、あろうことか、はずした二人だけ、まさに二人共、全くその試合そのものを記憶していなかった。 あの南アのワールドカップだって本田の活躍より駒野のPKの方が頭に残ってしまっているというのに。 逆に全員が覚えていると言い張ったのが、自分自身が決めた高校時代の初のゴールシーン。 これは先ほどと逆で、本人だけしか憶えていない。 みんなちゃんと自分のいいシーンだけはキッチリと憶えていて、嫌なシーンは頭から消し去ってしまっている。 良く言えば前向き思考の連中ばかりなのかもしれない。 全員が記憶のパズルの断片を持っていて、皆の断片をつなぎ合わせてみるとパズルが仕上がっていくみたいな楽しい時間だった。 人は案外頭のどこかには全てを記憶をしているのかもしれない。 単に繋がらないから出て来ないだけで。 何かきっかけさえあれば、そんなこともあったっけ、と脳の中で切り離されたものが引き出される。 もしくは閉じ込めておいた封印が解かれるのかもしれない。 それにしても彼女はこの膨大な記憶と結構うまく付き合って来ているのではないだろうか。 確かに情緒不安低な時期もうつになりかけた時もあっただろうが、周囲の人の心がけもあってか、健全に40代を迎えているように思える。 大抵の人間なら情緒不安低どころか、気が狂ってしまうのではないだろうか。 彼女が意を決して出会うことにした脳科学者は世界でも初めての症例だと言うが、実際には世界中で一人だけだったのだろうか。 脳科学者の前に存在しなかったのは、そんな症例の人が他に居たとしても、とうの昔に頭がおかしくなってしまうか、自分の嫌な記憶に苛まれて自殺してしまっていたからかもしれない。 ともあれ、世界にはそんな超記憶症候群の人が存在する。 こちらは昔の記憶どころか、昨日の記憶でさえ、いや数時間前の記憶だってあやふやなことしばしばなのに。 それを人は健忘症と言うのかもしれないが、自分では寧ろ頭がそっちを向いていなかっただけ、頭に入れることすらしなかった事柄だと思うことにしている。 もしくは上の空状態か。 「いやぁやはりそれは健忘症でしょう」 そっ、そうなのか?自分では自分の得意技だと思っているのだが・・・。 08/Oct.2011 忘れられない脳 ジル・プライス 著
幼い頃の記憶、小学校や中学、高校の記憶、人間とはどんどん忘却していくものだ。 その忘却を一切しないとしたら、どんなことになるのか。 この本に書いてあるのは全て実話だ。 10年前の出来事だろうが、20年前の出来事だろうが、X月X日X曜日、私は何をして誰とどんな会話をして、その時にリビングからは○○テレビのこんな映像が流れていて・・・。 それが特にに特別な日だったわけじゃない。 物心ついてからのすべての日の記憶を鮮明に、まるで録画放送を流すかのように頭の中を記憶が駆け巡る。 これは特殊な能力なのだろうが、それによって、著者が何か得をしたとかいうことは特にない。記憶力に優れているといっても日常の記憶であって、教科書を丸暗記できるような記憶力とはまた違うのだ。 ある出来事を思い出すと、それに関連した出来事が次から次へと思いだされ、頭の中を暴走し始める。もうそうなるとほとんどパニックみたいなものだ。 記憶力がいいことは素晴らしい能力のように思いがちだが、この本を読むと、そもそも記憶することが能力なのか。忘却することの方が能力なのか、寧ろ後者ではないか、などと思えてしまう。 人は、不愉快な出来事、つらい出来事、悲しい出来事、そんなもの忘却の彼方に置いて行くことで、前向きな生き方が出来ている。 また、若かりし頃の記憶、学生時代の記憶など、思い出すたびに自分を美化し、自分に都合のいい記憶に塗り替えて覚えている。 昔はこうだったんだ!ああだったんだ!という自慢話に尾ひれを付けることを続けて行くうちに、どんどん記憶そのものも上書きされていくケースなど山のようにあるだろう。 それが出来ず、何かの連想でつらい日を思い出さざるを得なくなった場合、そのまんまの記憶で思い出すことはなんとつらいことだろう。 友人とのちょっとした口げんかなんかでも、皆すぐに忘れてしまうから、次に有った時には元通りで居られる。 会うたびにそのことを鮮明に思い出してしまっては、いつまでたっても気まずい気分から抜け出せない。 それでもこの能力、もっと何かに役立てないのだろうか。 裁判の証人になら完璧だろうが、そんな事件に出くわす可能性の方が低い。 彼女が囲碁棋士を目指すひとなら、場面場面を鮮明に覚えていることは強みにはなるだろうが、それだけじゃプロ棋士としては完璧じゃない。 棋譜はコンピュータが覚え、映像は録画ビデオが記憶してくれている。 彼女の強みはその膨大な録画を蓄えるハードディスクの容量と、何らかの検索キーワードでそれを呼び出す検索速度。 何十年の毎日毎日の全記憶ならスーパーコンピュータ並みだ。 やはり、まだまだ未解明の脳研究、記憶の研究に力を貸すのが、最も何かに役立てている、ということになるのだろう。 13/Sep.2016 わたしを離さないで カズオ・イシグロ 著
2017年ノーベル賞受賞作家の代表作である。 この話、既に日本でも著名な役者によって舞台化され、最近ドラマ化されたとのことなので、ストーリーについてはご存知の方も多いだろう。 前半は寄宿舎のような施設での子供たちの日常の描写でかなり退屈な話が続く。 ここで断念してしまった人にはこの話の面白さは分からず仕舞いとなる。 中盤になってくると、教育の施設のなかで「提供」という言葉が頻繁に登場してくる。 人様に提供を行うという類の善行を施せという教育なのだろうか。 で、だんだんと明らかになって行くのが、彼らは一般の市民では無いということ。 彼らは普通に恋愛をし、自己顕示欲の強い子がいるかと思えば、いじめられっこもいる。絵を描くことを熱心に指導され、健康診断が頻繁にあること以外はごくごく普通の子供たちだ。 施設を卒業するころになると、コテージのようなところ一時的にへ移り住み、その提供の日を待つ。 主人公たちが育ったのはヘールシャムという施設で全英で最も恵まれた施設だったらしく、ヘールシャム出身者には、提供の猶予が与えられるのでは?というまことしやかな噂が流れ、彼らは動揺し、猶予の為に出来ることを行おうとする。 施設で育ったと言っても彼らは捨て子でも無ければ、育児放棄された子供たちでもない。 病気を持った赤の他人に自らの臓器を提供することだけを目的としてこの世に生を受けたクローンなのだった。 なんと残酷な話なのだろう。 この話では成長した主人公達がヘールシャム主任保護官だった女性を訪ね、助かる道について尋ねるシーンがある。 答えはNOだ。 臓器移植の技術がいくら進歩したところで、臓器ドナーがいなければ、結局は助からない。 一旦出来てしまった便利なものはさらに便利なものが出来ない限りは決して無くならない。 臓器をいくらでも調達できるとなれば、人道的かどうかよりも自分の周囲の人たちの生命維持が優先されてしまうのだ。 ならば、いっそのこと一切教育など施さなければ・・ 人間らしい感情を持たなければ、臓器を差し出すことに何の感情も無いのでは? 人間と思っていないのなら、それぞれの施設はブロイラー工場と何が違うというのだろう。 いやもっと言えば、一切他人とも関わらない、カプセルを並べチューブで栄養補給させるという本当の工場のような場所で成長させればどうなのだ。 下手に人間らしい暮らしをしているだけに悩み、苦しむ。 この施設という制度のうまいところは、徐々に徐々に「提供」という言葉を浸み込ませ、違和感を無くし、差し出すことに違和感がなくなるようにゆっくりと教育していく。このやり方がまた絶妙なのだ。 カズオ・イシグロ氏はこの作品、他の作品でイギリスの文学賞も受賞している。 クリスチャンの国でこの本は受け入れられたということだろうか。 ものすごい発想ではあるが、人道的観点はさておいたとして、社会保障費の観点から見てどうなのだろう。年間に臓器移植を必要とされる患者の数ってそんなに多いのだろうか。 これだけの子供たちを立派な大人にまで育てたんだから、まともな職場を与えて労働人口になってもらった方が、イギリス経済にとってははるかにプラスのような気がするが、余計なお世話だったか。 そんなことを言ってしまえばノーベル賞も台無しになってしまうな。 ![]() 14/Jun.2018 輪違屋糸里 浅田次郎 著
幕末の時代で大好きな人を一人挙げよ、と言われたら・・・。 高杉晋作?坂本竜馬?桂小五郎?吉田松陰?佐久間象山?否。 西郷隆盛でもなければ大久保利通でもない。 もちろん徳川慶喜でもなければ勝海舟でもない。 たった一人を挙げるならば、「土方歳三」と答えてしまうかもしれない。 なんでだろう。 敗北の美学? 滅びの美学とでも言うのだろうか。 大阪夏の陣、冬の陣で徳川に滅ぼされる事は自明の理でありながら戦い続けた武者達も敗北の美学を求めて大阪城に参集したのではあるかいまいか。 真田幸村、木村重成、後藤基次、明石全登、塙団右衛門・・将も一兵卒も。 彼らは死に場所を求めてやって来た。 敗北する事は承知の上で。 同じ敗軍の将であっても土方の方と彼らとでは圧倒的な違いがある。 大阪の陣で死に場所を求めて来た武者達には少なくとも自らの御大将が大阪城には居たのである。先陣に立ってはくれないが、降参をしたわけではない。 それに引きかえて、土方の場合はどうだ。 御大将であるはずの慶喜はとんずらのあとの江戸城無血開城、謹慎という名の隠遁生活状態。 五稜郭での御大将である榎本は降参の仕方ばかりを考えている。 その中で会津の残兵や新撰組の残兵を率いた土方の目的とはなんだったんだ。 一体誰のために戦っていたのか。 土方は近藤勇を局長に戴くサブリーダーのはず。ところが自ら軍を率いさせたら近藤の比では無い。 同じ幕末の軍略家としての天才大村益次郎の様な軍略のみの人でもない。 同じ戊辰戦争の負け組みの中で、先の見えた天才河井継之助の様に最新兵器に頼った訳でもない。 軍略家であり、智略、胆力があり、勇猛さ有り、才気溢れ、現場指揮官として常に最前線で戦ったのが土方。ただその目的だけが破滅的でありだからこそ美しい。 それこそが自分の抱く土方のイメージ。 『壬生義士伝』で浅田次郎は吉村寛一郎という無名の新鮮組剣士にスポットを当て、主君へ忠を立てる以外の武士道を描いた。 この『輪違屋糸里』ではあの悪名高き芹沢鴨にスポットを当てている。 芹沢鴨とは新撰組がまだ浪士隊であった時からの筆頭局長である。 清河八郎が結成した浪士隊は将軍上洛の際の護衛がそもそも名目上の結成目的。 清河八郎がその浪士隊の本来の結成目的は尊王攘夷の先鋒にあたる事だ、と演説をぶった時に真っ先に反駁したのがこの芹沢鴨。それに追随したのが近藤、土方らの試衛館組。 そういう意味では芹沢鴨という男、一本筋の通った男なのかもしれないが、商家への押し入り、商家の焼き討ち、大阪で相撲取りへ切りかかり、島原では太夫を切り捨てる。島原では太夫という存在、正五位の位を持つのだという。大名級の存在である。 傍若無人も甚だしい。 しかも酒を飲めば酒乱となり誰も手がつけられない。 新撰組が「壬生浪」と京スズメから軽視・蔑視されていたのもこの乱暴狼藉し放題の芹沢鴨の存在故ではないかと思われる様なふるまいで知られる人だ。 この芹沢鴨をして侍の中の侍。男の中の男として語られる。 呉服商の妾(この本ではおかみ)で芹沢に手篭めにされたお梅の言葉を借りて。 また壬生浪士に住まいを提供している八木家、前川家のおかみさんの言葉を借りて。 また、近藤と芹沢の間を取り持ったような関係の永倉新八の言葉を借りて。 芹沢こそが尊皇攘夷思想の権化であり、本物の武士、本物の尽忠報国の士だと。 商家への押し入りにも、商家の焼き討ちも、全ては意味があったのだ、とその解説がなされて行く。 さすがは浅田次郎。その視点、見事。説得力もある。 それでもさすがにその話なかりは鵜呑みには出来ない。 芹沢が尽忠報国の士だったとしよう。生まれも育ちも確かに武士かもしれない。 しかし、本当に何かを成そうとしていた人間だったのだろうか。 酒浸りで、暴れまくるのも単なる芝居だったと言うのだろうか。 芹沢鴨という人。先が見えない、というよりも先の事など一切考えない人だった様な気がする。上では土方を敗北の美と書きながらおかしいかもしれないが、芹沢は破滅型の人。そんな事をしていたらいつか誰かに刺されるか、ろくな死に方はしない、おおそれで結構じゃねーか。どうせ一回こっきりの人生よ。酒飲んで好きな事して暴れまくって死んでやろうじゃねぇか。という破滅型の確信犯的な人の様に思えてならない。 この幕末の先が見えない時代、そんな人は多かったのではなかろうか。 たまたま剣に覚えがあってしかも浪士隊という寄せ集め軍団の長であるが故に余計にやる事が派手になってしまった破滅男。 それが自分の持つ芹沢鴨のイメージである。 それに芹沢鴨を持ち上げれば持ち上げるほどに芹沢を討つという絵図を書いた土方の悪役ぶりが目立ってしまう。 この話、女の視点から描いた新撰組の話であり、島原という京で一番(という事は日本で一番)由緒のある花街の舞台から見た新撰組の話であり、もう一つは百姓と武士という構図から描いた新撰組の話である。 確かに土方は策謀家なのでやり方そのものには構わないところはあるだろう。 だがそれが百姓の戦い方だとでも言うのだろうか。 子供の頃ならともかくも成人した後の土方や近藤が武士になりてえ。侍になりてえ。などと言っていたなどとはとても思えない。 この本のでも中に土方に上野の松坂屋へ奉公に出た時の事を語らせる場面がある。 店の者からは「百姓はやっぱ百姓だの」「このどん百姓め」と罵声を浴びせられ、士農工商はお題目。百姓は商人より下だと感じた事になっている。 それだけ百姓と呼ばれる事に負い目を感じていたとう設定。 だが土方がその奉公を辞めたのは、すぐに先が見えてしまったからのはず。丁稚から手代になるまで何年、番頭になるまでは・・と。 江戸時代も初期なら戦国の気風も残っていただろうが、江戸時代の安楽も二百数十年も続けば、腐るものはかなり腐ってきていてもおかしくはない。 問題さえ起さなければ、その地位が代々保障されるのが武士という階級だっただろう。 現代のお役人、いやサラリーマンにだってそういう側面はある、そういう事なかれ主義の発端は江戸時代に培われたのかもしれない。 それも武士という社会によって。 上には従順。下には偉ぶるだけで、問題解決能力のない武士という連中に土方ほどのものがいつまでも「なりてえ」「なりてえ」などと言っているわけがない。 土方は階級としての武士にあこがれたのではなく、自ら信ずるところの武士道を守り抜いた男だろう。 浅田次郎の本の中で嫌いな本は一冊も無い。この本にしても土方への見方が違うという点はあるが嫌いではない。 『輪違屋糸里』という作品、そのタイトルからして『天切り松闇物語』の中で松が闇語りする姉の話を連想してしまう。 子供の頃、ろくでなしの父親が姉を遊郭へ売っぱらい、姉はその遊郭で若くして死んでしまう様なせつなく悲しい話である。 もちろんこの話にも花街の女としての悲しい話は出てくるが主人公の糸里という天神は芯の強い人である。 状況を哀しむだけの人ではない。 尊皇攘夷だ、尽忠報国だ、となんだかんだと偉そうにしている男達の大半は若くして幕末の時代に命を落として行き、残りの大半も明治になってすぐに命を落として行く。 明治の日本の発展を謳歌したのは幕末を闊歩した男達ではなく、女達と百姓達だった。 この本の中では土方より芹沢が武士だと言う設定の永倉新八が大正時代まで生き抜いたというのはなんとも皮肉だが、永倉新八が生き残った後に建てたの芹沢鴨などではなく、土方歳三の墓を建てたということを最後に記しておこう。 16/Mar.2008 笑う科学イグ・ノーベル賞 志村幸雄 著
イグ・ノーベル賞とは、俗に「裏ノーベル賞」もしくは「ノーベル賞のパロディ」。 受賞条件は「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」。 とは言いながらも真面目な研究も多い。 日本人の受賞は極めて真面目なものばかり。 ・ハトがピカソの絵とモネの絵を見分けることを発見した研究 ・犬語翻訳機「バウリンガル」を開発した事に対して ・兼六園の中にある日本武尊の銅像に何故ハトが寄り付かないのかを解明。 ・カラオケの発明者に。 ・ウシの排泄物からバニラの香り成分を抽出した人。 などなど。 海外の受賞例はもっとふざけたものが多い、というよりそういうものをピックアップして紹介しているのかもしれない。 ・身長とペニスの長さと足のサイズの相関について ・思春期における鼻クソをほじる行動の研究 ・尿検査の際に患者がどのような容器を持参するか などなど。 わりとどうでもいい。 この本、「イグ・ノーベル賞」という賞を教えてくれるにはもってこいの本だろう。 でもわざわざ買ってまで読む本でもないようにも思える。 この本に書かれている内容は著者が自分の足でイグ・ノーベル賞の主催者や受賞者を取材してまわった内容が書かれているわけではないのだ。 なんならインターネットで「イグ・ノーベル賞」を検索して、その受賞者を一つ一つ見ていけば、この本にあるような内容は充分に拾えてしまうのではないだろうか。 取り立ててやってみようとは思わないが・・・。 04/Aug.2014
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