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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
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草原の風 宮城谷昌光
相対性理論を楽しむ本 佐藤勝彦
瘡瘢旅行(そうはんりょこう)  西村賢太
そして、バトンは渡された 瀬尾 まいこ
卒業 重松清
空色勾玉 荻原規子
空の拳 角田光代
造花の蜜 連城三紀彦
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草原の風 宮城谷昌光

宮城谷氏の三国志が後漢の終わりからがスタートなら、この本は後漢の誕生を描いたもの。

宮城谷さん、三国志を書いている最中にかたわらでこの草原の風を書いていたんだろうな。

三国志に比べると宮城谷さんの筆がなめらかなように思えてならない。
孟嘗君、重耳、呂不韋、晏子・・・など、個人にスポットを当てたを描いている読み物は、長編とは思えないほどにすらすらと読めてしまう。
宮城谷さんのいかにも自分好みの人物にスポットを当てた時、その人物のいい所を存分に引き出している時が、一番ご自身でも書き易いのだろう。
まさに軽快なタッチの読み物。

三国志が決して不出来なわけではもちろんないが、やはりあれだけ多くの人が書いているものを別の観点から描きだすには、そんなにすっきりと割り切って書けるものでもないだろう。
私は宮城谷三国志を文庫から手を出してしまったので、そのまま文庫で通そうと思っているのだが、文庫の出版は未だ第七巻まで。
第八卷の出版待ちなのだ。
それだけこちらは年月がかかっている。
書く方も読む方も。

この草原の風は前漢が王莽の手によって終わり、王莽による新朝という新たな時代に入っているところから始まる。

王莽そのものは儒教家なのだという。

後漢の終焉近くになって現れる、とんでもない悪政を行う閻顕(えんけん)、梁冀(りょうき)、董卓(とうたく)・・・そのはざ間はざ間では、宦官によるこれまた私利私欲の政治。
そんなひどい悪党のような連中が国のトップになったとしても、まだなんだかんだと後漢は続くのである。
それに比べて、王莽の作った新朝の15年という短さはどうだろう。
確かにひどい施策を行っている。
田畑への作物へ増税を行うまでは、仕方ないだろうが、過去何年にも遡って、その増税分を納付しろ、などと言って回れば、どれだけ備蓄豊かな豪農だって逃げ出さざるを得なくなる。

漢時代の呼称、官職名や地名を尽く変えようとしたことも人々に混乱を招く。

自らの後継ぎを誅してしまうことも短期王朝へ拍車をかけたかもしれない。

それにしてもだ。
それにしても反乱軍が興ってから崩壊までが早すぎる。

後漢の終焉前に黄巾の乱やら、散々反乱が起きても延々と後漢が続いたのと比べるとあまりにも早い。

この本には天子という言葉が良く出てくる。

主人公の劉秀も周囲は早く皇帝の地位につくべきだ、と言われつつも永い間逡巡するのは自らが天子たる資格があるかどうか、の見極めがなかなかつかないからである。

後漢が事実上、そのていを為さなくなっても延々続いて行くのは、天子という権威に叛いて自らが賊になりたくないからでもあり、高祖劉邦から続いた劉王朝を廃するということによほどの大義名分がなければなかなか民意を得られない、ということもあったのかもしれない。

それに比べれば、王莽の朝廷は倒す方にこそ大義名分がある。
だから、一旦反乱が起きれば、倒壊するのが早い。

宮城谷氏は主人公の劉秀という人物を思いっきりお気に召したようだ。

この人物には徳がある。

それだけでも充分だと思うのだが、戦もうまい、勇気もある。

青年になるまではひたすら農業をして来た人なのだ。
田畑を生き返らせることの達人でもあった。

その頃から人に対する思いやりにあふれ、自分のしたことを誇らず、他人の成果にしてしまう。

伯父から官吏になれ、と言われて長安へ留学する。

その人が兄から推されるように反乱軍を率いる道に入って行く。

それまで、農業と学問しかしたことのない人がいきなり、反乱軍を率いての戦術などたてられるものだろうか。

土方歳三みたいに若い頃から、喧嘩ばっかりやって来た人なら、人と戦うということが如何なることかを知っているかもしれないが、草木を慈しみ、学業をし、せいぜい他にやった事と言えば運送業の手伝いぐらい。

そんな人があろうことが少人数を率いて百万の大軍を破ったりまでもしてしまうのだ。


「後漢書」を著した范曄(はんよう)という人は、劉秀(光武帝)より二百年の後の人だという。
二百年も経過すれば、英雄伝は誇張されたり、作られたりもするだろう。

歴史書の中にあっても、疑義と思えるところにはちゃんと疑義を述べるのが宮城谷氏なのだが、好きな人物にはついつい、筆が甘くなってしまうのかもしれない。

それでも「あとがき」の中で、劉秀をして平凡な人が王になり皇帝になっていくさまを驚いた、と書いているので、筆が甘くなったよりも本当に驚きの心だけでこの本を著したのかもしれない。

草原の風、(上)(中)(下)と結構なボリュームの本ではあるが、全く退屈を感じずに一気に読めてしまう本である。



草原の風(上)(中)(下) 宮城谷昌光(著)


20/Apr.2012
相対性理論を楽しむ本 佐藤勝彦

20世紀の偉大な天才、アインシュタインの「相対性理論」と言えば知らない人は稀でしょう。
その「相対性理論」とはどんな理論なのか。
その言わんとする事をご存知の方は結構いらっしゃる様です。
ちょっと周囲にヒアリングした結果がそうでしたので少々驚きでした。

しかしながら、それはどうしてそうなるの?と聞かれて答えられる人となるとその数はぐっと減る。
ましてや数式を持ち出すまでも無く容易な言葉で説明出来る人となると、これは滅多にお目にかかれない。

高速移動の乗り物、例えばロケットなどに乗っている人と下界に居る人(静止している人)とでは時間の進み方に差が出てしまい、ロケットで長時間生活をして地球に帰って来ると、自分では1年のはずが地球では何年も経過していた、なんてまるで「猿の惑星」の世界の様な理論。
実際に「猿の惑星」の原作を書いたは「相対性理論」を参考にしたのかもしれません。

別にロケットを持ち出さなくても電車でも船でも説明がつくんですよね。
動いている船のマストの上から真下に物体を落とした時に1.5秒かかったとします。
地上で同じ高さから同じ重さの物体を真下に落とした時も同じく1.5秒。
しかしながら地上から船の上の物体の動きだけをとらえてみると、船が1.5秒間に進んだ距離だけ斜め前に落ちている。つまり真下の距離よりも長い距離を落ちているにも関らず、かかった時間は同じ1.5秒。
となると移動している乗り物の中に居た方がほんの少しだけ地上よりも(静止している人よりも)時間のたつのが遅い、という事になる。
って言葉で書くよりも図解した方がわかりやすいんでしょうけれど、ここでは敢えて相対性理論についての説明を書こうなどとは思っておりません。

この本は、そういうふうにわかり易く「相対性理論」を説明しています、という事が言いたいだけなので。

それでも頭で理解してもなかなか現実的には考えられませんよね。
実際に電車に乗って駅へ着いたら駅の時計より時間の進みが遅くなっていて、喫茶店へ行ってたっぷりとコーヒーが飲む時間が出来たなんて事はありませんし、電車の運転士は年をとるのが遅くて定年の頃には妻どころか子供も孫も老人だったなんて聞いたことないし。

私共のような俗物にはどうしてもSFっぽく聞こえてしまいます。

SFついでなので、この時間の早い、遅いって考え、タイムマシンに利用出来ないのか、ってこの単純思考はついついそっちへ頭が行ってしまうのですが、科学的には不可能だそうです。

もちろんこの本にそんな事は書いていませんが、こんな事は考えられませんか?
20光年先の星を見る、という事は30万キロメートル/秒の光でさえ20年かかって到達するほどの距離。
光が20年かけて到達したのですから当然、その星をいくら観察しても20年前なわけですよね。という事は20年前を見ている。
10光年先の星まで辿り着いて、そこに地球が写る巨大な鏡を設置したとします。
その鏡に映った地球の中は20年前の過去ですよね。
100光年先の星に設置すれば、200年前の過去が見られる・・・・・・んん、んな事出来るわけがない、というより出来た頃にはそんな過去でさえはるか未来だ。光でさえ、10年、100年かかる距離を人類が到達するのに何千年、何万年かかることか。

ならば、これは?
テレポーションという超能力を発揮出来る人間が居たとして、100光年先の星にテレポーションしたら?100年前の地球を観測出来のでは?
でもそれだけではタイムマシンになりません。その100年前の地球にテレポーションして初めてタイムトラベルした事になりますが、これだけの超能力者でもやっぱり無理なんでしょうね。
地球から見たら100年前ですが、瞬間移動したならそこは地球から見た時の100光年後の星にテレポートしたという事になる。100年前のその星にテレポートしたわけじゃない。
100年先にはその星だって消滅しているかもしれないし。で消滅していないとしてそこから見える地球はやはり100年前の地球だが、やっぱりそこから地球に瞬間移動したって現在の地球でしかないって事か。

じゃぁ、どうすればいいんだー!
相対性理論を用いれば光の速度に近づけば近づくほどに時間差は生まれる。
じゃぁ過去へ行くには光の速度を超えて移動しなければならないのか・・ははっ・・やっぱり霊界の世界だ。
ってな事はこの本に一行たりとも書いていませんけどね。

いや逆の事は書いてあったっけ。
「光の速さは最大でこれ以上速い物はない。そもそも質量を持った物体は速くなると質量が増すので動きにくくなる。だから光より速く加速させることはできない」だったけか。
時空を超えるとかって聞けば、ちょっとそういう事も考えたくなるじゃないですか。
まぁ凡俗の考える事です。
せいぜい愛想をつかしながら読んで下さい。

アインシュタインは大学を出た後、大学の教員になろうとしたが受け入れてもらえず、やむを得ず特許庁だったかのお役所勤めをしたのだそうです。
そのお役所勤めのヒマな時間を見つけては物理学の本を読むふけり、就職してわずか3年やそこらで相対性理論を発表したと言います。1905年。今から100年と少し前の事。

社保庁のお役人がなんか理論を発表したとは聞きませんね。 んん? いや今でこそ叩かれているが発表しなかっただけでちゃんと理論を生み出してはいたのか。 「先延ばし理論」。 立派に時空を超えた理論だ。
いえ、蛇足でした。


まだ質量の事にふれていませんでしたね。
アインシュタインは質量が減少する事で莫大なエネルギーが生じることも相対性理論の中で述べています。
その原理が元で原子爆弾が出来てしまうよりもはるかにましなのは、ダイエットだ!ダイエットって叫んでいる全世界のオバさん達、いや今現在の日本のオバさん達、んん?それじゃ男女差別と言われてしまう。日本のオジさんオバさん達だけで充分、その質量をその人達の願い通りに減らしてあげてその質量をエネルギーに変換する事が出来れば・・・、今から100年以内に枯渇するだろうと言われている石油エネルギーどころの騒ぎじゃない。1000年分ぐらいのエネルギーがあっと言う間に確保出来るんじゃないの。
いいなぁ、そうなったら、今大騒ぎのガソリン国会どころじゃない。
中年ダイエット質量確保合戦。

なーんてね。せっかくわかりやすい科学本の事を書きながら、なんて非科学的な事ばかり書いているんでしょうね。読んでいる人、呆れて下さい。

この本、相対性理論を確かに楽しめる本なのですが、後半になればなるほど、どんどんと内容は難しくなって行きます。
特殊相対性理論から一般相対性理論に突入するあたりから、著者もわかっているのでしょう。
無理に理解してもらう事よりもそういう理論なのですよ、ということだけ理解してもらえたら充分という書き方になっていきます。
後半の後半は宇宙の創世から今後宇宙はどうなるのか、膨張するのかどうか、なんてもはやSFを通り越してファンタジーも超越した世界。

何十億年何百億年後の宇宙をの世界をどうやって実証するのか、理論的にはこうなる、と言われたって、その頃まで生きている人なんていませんから誰も証明出来ない話。
何十億年何百億年前の宇宙にしたってこれで証明が成り立つと理論的に言われたところで、ビッグバンがあったのかどうか、そのまたビッグバンの前がどうだったなんていう話は監修の佐藤勝彦教授の持論なのかもしれませんが、それが真実とは誰も言い切れない世界。もちろん誰も見て来たわけではありませんし。

ただ、こういう宇宙の創生やら宇宙の果てには・・なんていうとてつもない世界。
哲学、いやもっと言えば宗教に近い世界になるのかもしれませんが、そこへまで物理学や科学というものでシュミレーションを行なってしまう、というそのスケールの大きさにはただただ驚嘆するしかないのであります。

すごいことですよね。目先の事にはなんら影響しない、自分を含めて誰が得をするわけでもないことを延々と研究する。証明しようとする。
そうやって研究した結果、もしくは理論を証明しようとした結果に思わぬ副産物として新たな発明や新たな発見が生まれる。
そういう人達がかつて存在し現在も存在するからこそ人類は進歩し、また今後も進歩するのでしょうね。
もちろん別の見方もあるでしょうが・・。

26/Jan.2008
瘡瘢旅行(そうはんりょこう)  西村賢太

この作者、この本を読むまでは存じ上げなかった。
なんとも文体というか表現の仕方が古めかしい印象を持ったので、さぞかしお歳を召した方なのだろうとばかり思っていたが、巻末の略歴では1967年生まれ、とある。
40過ぎの方であった。

その文章表現から発せられる、古めかしい人のイメージの源泉は一体何が源泉だったのだろう。
この本には、「廃疾かかえて」、「瘡瘢旅行」、「膿汁の流れ」という三部が納められている。
本のタイトルでもある「瘡瘢旅行」の中で主人公は藤澤清造という大正時代の私小説家の虜となり、その作家の書いたものなら如何なるものでも収集しようという、熱烈な収集家である。

そんな大正時代の私小説家を師と仰ぐのは主人公だけではないだろう。
私小説家を師と仰ぐ主人公を描く以上、作者そのものも私小説家なのだろうし、主人公は作者そのもののデフォルメなのだろう。

それにしても救いようのない男が登場する。

DV(Domestic Violence:ドメスティック・バイオレンス)という言葉、今では誰でも知っている言葉になりつつあるが、こんなに一般的な言葉になったのはいつごろからだろう。
夫が妻に暴力をふるうなどという行為、許されるものではないだろうが、そのようなことは江戸時代だって平安時代だって、そういう家庭はあっただろう。

「DV」という言葉が定着したのはこの10年ぐらいの間ではないか、と思うがいかがだろう。
統計資料などではここ数年で急増したかの如く言われること、しばしばだが、果たしてどうなのだろう。
そんな話まともに扱ってもらえなかった。
もしくは家庭の恥をさらしたくなかった・・種々の要因が考えられるが、昔からあったが表面化しなかった、社会問題の一つとして取り上げられるようになってはじめて、表に出て来たというのが実情なのではないだろうか。
別に江戸時代まで遡ることもないだろう。
明治、大正、昭和の戦後しばらくあたりであっても都会か地方かの差はあれ、離婚率の低かった時代なら妻という存在、亭主を尻に敷くまでは、嫁という立場の存在はどれだけ理不尽な思いをしても、それが暴力だったとしても、誰にも文句を言う事もなく耐えていたのかもしれない。

今や、DVの被害者には男性が急増しているという話もある。
なんじゃそりゃ、と言いたくもなるが、まぁ時代は明らかに変わりつつあるのだから、それしきのこと、驚くには値しない。

話を本に戻すと、三部作とも同じような主人公が登場する。普段は妻に対して優しいが、いざキレると暴力をふるう。酒に酔えば暴力を振るう。
ところがしらふに戻る、もしくは冷静に戻ると妻へ詫びを入れ、尚更優しくしようとする。
外では気が弱いが、家の中で酒が入ると大口をたたく。
なんだか世に聞くDV亭主の典型じゃないか。
妻は妻で詫びを入れられ、優しくされると、その暴力を許してしまう、なんだかこれも世に聞くDV被害妻の典型じゃないか。

主人公は性犯罪を犯して監獄に入れられた父を持つ。
それがあるだけにとことん行く前には一応自制が効いている。

なんなんだろう。
こういうのが今時の私小説なのだろうか。

檀一雄は家庭を崩壊させたかもしれないが、その人(主人公)には愛着を持つことが出来た。
ポルトガルのサンタ・クルスで人気ものになる彼を羨ましかったし、ポルトガルを大好きにさえしてくれた。
今東光にしったて「十二階崩壊」をはじめはちゃめちゃでありながら、男としての憧れを抱かせてくれた覚えがある。

この平成の私小説家からどんな憧れを若者に見いだせというのだろう。

と、貶してしまっているが、この本はたまたま新聞の書評欄で見つけて出会うことになったのだが、これが大正時代の作家が書いたものなのだ、となれば案外違った感想になったかもしれない。
もちろん大正時代に新幹線は無いのでそのあたりはかなり差し引かなければならないが・・。


02/Jul.2010
そして、バトンは渡された 瀬尾 まいこ

17歳ににして四回も苗字が変わる、森宮優子という女子高生。
よほど、複雑な家庭なんだろう、よほど辛い思いをして来たんだろう、誰しもそう思うだろう。
ところが、彼女に不幸な影は微塵も無い。
人が不幸だと思ってくれているので申し訳ない、いじめてくれる継母と結婚して、と同居人である3人目の父親に冗談を言い、冗談で返される。

実の母親は幼い頃に事故死。父親の再婚相手とはすぐに仲が良くなり、母親というよりは友達、いや面倒見のいい姉御みたいな存在か。
父親がブラジルに赴任するからついて来ないか、と言われて、姉御は拒否。
で迷った彼女も姉御についていくことに。

この姉御が優子に注ぐ愛情がハンパなかった。
一見、自由奔放、好き勝手に生きている様に見えながらも、実は優子のためなら自分の人生なんてどうだっていいとさえ、思っていたのではないか、と思えるほどに。

その姉御が優子を託したのが、森宮さんというまだ女子高生の父親にしては若すぎるほどの年齢の男性。
で、彼の優子に対する父としての優しさもまたとんでもないレベル。

優子は父親を3人、母親を2人持った事になるになるのだが、その誰からも愛されていた。それは彼女の根っからの明るさ、人から好かれるキャラクタにによるところもあったのかもしれない。


この本、最後数ページだけでも充分に感動させてくれるが、そこまで読者を引っ張って行かせてくれたのは、3人目の父森宮氏と優子の絶妙な掛け合い。

それに森宮氏の全くトンチンカンな方向でとことん頑張ってしまえるキャラクタ。
始業式と言えばかつ丼だろ、と早起きまでして頑張って作ってくれる。なんでかつ丼なんだ!
元気がない時はギョウザだろ、とえんえんとギョウザが毎日食卓に並んで辟易とするが、そんなトンチンカンも全部優子のためを思ってやっている事なのだ。
だから、優子もそれに応えてしまう。

そんな優しさどうしのぶつかり合いが最後まで読者を放さない要因か。



そして、バトンは渡された 瀬尾 まいこ著
23/Dec.2018
卒業 重松清

重松清続きとなります。
哀愁的東京の評は「なんとももの哀しい」の連発で終っていますが、哀愁的東京はもの哀しいだけの話ではなく、やはり重松さんならではの心優しい視点がある様に思います。
まだ幼稚園のかわいい女の子が父親に遊園地へ連れて来られて楽しい思いをする。
その遊園地へ行ったその日に覚醒剤で錯乱状態になった父親に殺されてしまう。
あまりにも可哀想なその話を取材した後に主人公のルポライターは殺されたあかねちゃんという女の子を主人公に描いた『パパといっしょに』という絵本で賞を取り、絵本作家としてさぁこれから、という状態であるにも関わらず、幸せな事の一つも無かったあかねちゃんを題材にした本で賞を取り、しかも事もあろうにそのタイトルは『パパといっしょに』そのなんとも残酷な事をしてしまった思いがトラウマとなり、『パパといっしょに』以降、一切新作の絵本が描けなくなってしまう。
それはもの哀しい反面、人の不幸を書いてその文章を切り売りするルポライターにしてはあまりにも繊細で優しさを持った主人公が浮かびあがります。ですから主人公はフリーのルポライターでは無くやはり絵本の描けなくなった絵本作家が正しいのでしょう。
重松さんの書いているものの底流にはいつもこの優しさがあると思うのです。

『卒業』重松さんらしい四編がおさめられています。
「まゆみのマーチ」、「あおげば尊し」、「卒業」、「追伸」

「あおげば尊し」
ガンに冒され、長くて2ヶ月と宣告された父の最期を自宅で看取る事にし、病院から自宅へ連れて帰るところから始まります。
父は元高校教師。主人公は小学校の現役の教師。
父は厳しくて冷たい教師だった。生徒に好かれたいなどとはこれぽっちも思わず、素行に問題のある生徒は容赦無く切り捨てる。従って卒業生からは顧みられず、同窓会の案内も来ない。教え子の結婚式に呼ばれた事も教え子が家を訪ねて来る事も無く、年賀状すら教え子からは一枚も来ない。38年間教師をしていながら見舞いに来る教え子はもちろんゼロ。それでも自分ほど「あおげば尊し」を歌われるに相応しいと思っている父。
方や主人公も教員生活18年。火葬場へ出入りし、死体に興味があると言う生徒から「何故死体に興味を持ってはいけないのか」の問いに対して返す言葉を持っていない。
「あおげば尊し」を歌われる事に自分は相応しくないと思っている。
話す事も満足に出来ないが最期まで先生であろうとする父と死体に興味がある生徒との出会いを描く。

「卒業」
学生時代の親友の娘が突然職場に訪ねて来る。
親友はその娘がまだ妻のお腹にいる時に、突然飛び降り自殺をした。
なんとも身勝手で無責任な人だった訳ですが、成長してその事実を知らされた娘が父の友人訪ねて来て、なんでもいいから父の事(いや、父親になる前に自殺をしたのだから正確に言えば父親では無い)その人の事を教えて欲しいと。
主人公は学生時代の記憶を辿り、毎日その子の作ったサイトの掲示板へ思い出を書いて行くのですが、親友と言っても20年前の話。2週間も書けばもうネタは尽きてしまう。
『哀愁的東京』の中の「ボウ」という短編にも出てくる話ですが、大学時代の同級生が久しぶりに面会を求めて来たかと思うと「学生時代の自分の事を思い出す限りしゃべってくれ」と言われ、思い出す限りにしゃべってみても5分もすればもうネタが尽きてしまう。こちらは親友という訳では無いのですが・・。
実際にどうでしょう。学生時代、社会人になってからでも構わない。「親友」と呼べる人の事をいざ思い出して書いてみろ、と言われたら果たしてどれだけの事が書けるでしょうか。
2週間もよく書けたという方があたっているのではないでしょうか。
この物語は、苛め、自殺、リストラ・・などなどの重たい課題を背負っている話なのですが、ここでは敢えてそういう重たい課題から焦点をぼかして書く事にしました。

どうも長編でない本の感想というのは物語そのものの紹介になってしまいがちでいけませんね。
「まゆみのマーチ」と「追伸」については内容の紹介はやめにしておきましょう。
この四編の中で私個人として好きなのがこの二編。
特に「まゆみのマーチ」がピカ一ですね。
親の限りない愛情の表現にはいろいろな姿があるものです。
まゆみのマーチの母親はわかっていながらすっとぼけるのが得意な人なんでしょうね。
歌の大好きな娘に、所構わず歌ってしまう娘に対する周囲の苛立ちなどどこ吹く風。ひたすら愛しつづける。
成長しても一箇所に落ち着く事が出来ず、いわゆる世間一般で言うところのはみ出した娘も性根がはみ出しているわけでもなんでも無く、この母娘を理解してしまうと、一般の「普通」という概念がゆらいで来そうです。
主人公(優等生だった兄)が学校へ行けなくなった子供に対して取った行動は決して無茶なものでも何でも無く、ごく普通のもの分かりの良い父親の行動だったでしょう。
ですが、母の死を前にして妹が学校へ行けなくなった時の母親の行動を妹から聞いて、優等生だった兄も読者も「目から鱗」状態では無かったでしょうか。
母の行動はまさしく「まゆみのマーチ」そのものなのです。


ここには余分な事かもしれませんが、2/10のサンケイ新聞の夕刊に重松さんの小編が載っていましたので、それも簡単に紹介しておきます。

『季節風 バレンタイン・デビュー』
21歳になるまでバレンタインデーで義理チョコを含めて一つもチョコレートを受け取った事の無い父親が、高校生になる息子のバレンタインデーをまるで落第確実の受験の発表日の様に扱い、妻や娘にとにかく「その話」をしないように、と厳命し、やきもきしながらその息子の帰りを待つ、という微笑ましい話です。

いいですね。こういう軽いタッチ。
重松さんの作品にはイジメ、自殺、殺人、離婚、哀しさ、はかなさ、トラウマ、人の死、・・・などなどがこれでもか、と散りばめられていますから、そういうものの一切無いこの話、新鮮でしたし、読後ににっこりとする事が出来ました。

卒業  重松 清 (著)


14/Feb.2007
    12 >>