読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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ホームレス中学生 田村裕 著
中学生が夏休みに入って家へ帰ると家は差し押さえ状態。 帰って来た父親から兄弟に告げられた言葉はなんと「これにて解散!」これはすさまじい父親だ。 ホームレスとは言っても自宅の近所の公園で寝泊りをする。 持ち金が尽きてからは、 「自動販売機の下をあさって小銭を探す」 「草を食べてみる」 「ダンボールを食べてみる」 「雨をシャワー代わりに使う」 「鳩にエサを撒いているおじさんから鳩のエサであるパンの耳をもらって食べる」 というような有名な? もしくはどこかで聞いたかもしれない? エピソードが続く。 15少年漂流記の様に無人島へ行ったわけではないのだから、その危機状況さえ人に説明すれば・・・確かに友人に明かすには、恥ずかしいかもしれないが、ちょっと勇気を出してみたら手を差し伸べてくれる人は最初からいただろうに・・・などと思ってしまうが、それではやはり話にならない。 「まずは自分の力でやれるところまでやって」が無ければあのようなエピソードは体験できなかっただろうし、白ご飯のありがたさやお湯のお風呂へのありがたさは生まれなかったということだろう。 読む前に予備知識が入りすぎてしまったのか、タイトルが「ホームレス中学生」だったからなのか、はたまた本人の風貌からなのか、実はもっと本格的なホームレス物語を期待してしまっていた。 河川敷あたりでダンボールで家を作ってそこで炊事も行なっている様な・・・。 中学生時代からずっとホームレスをやっていたのだとばっかり思ってしまっていた。 レストランやホテルのゴミをあさったり、ダンボールや空き缶を拾って売ったりして糧を稼ぎ、そしてホームレス仲間から可愛がられたり・・という様な中学生のホームレス生活を連想していた人には少々拍子抜けだったかもしれない。 実際には夏休みに入ってのほんの少しの期間の事なので、ホームレス生活を描いた部分はこの本の前段の一部で、その後は生活保護を受けながらの兄姉との3人でのアパート生活で、高校卒業までの間の出来事が綴られている。 タイトルが「ホームレス中学生」だが、この本の主題はホームレス以外のところにあるのだろう。人の親切のありがたさ、日々の食事や生活に対する感謝の心、周囲の人への感謝の心、兄弟愛、亡き母への愛情を支えとする主人公の心・・といったあたりが本の主題だろうか。 それにしてもこの人のお兄さん、責任感は強いしっかりとした人のようだが、ちょっとぐらいは「蓄え」というものに対する考えはなかったのかなぁ、などと思ってしまう。 月々生活保護でいくらのインカムになったのかは書かれていないが、生活保護で生活が少し豊かになったとたんに、一人毎日2000円ずつ与える、というのはどうなんだ。 弟である主人公は、一日2000円を必ず使い切るつもりなので、飯代では使い切れずに友達に奢ってやったりしている。 生活保護で支給されるお金も税金なんだぞ!などと怒るつもりは毛頭ない。 生活保護を受けている一家でありながらその親父は外車を乗りまわしていた、という話やら、本来なら身体に障害を持つ人が頼るべき福祉施設でありながら、そこでは五体満足な男達が昼間からのんべんだらりと働きもせず・・・などという類いの連中と一緒にするつもりはない。 この兄弟こそ生活保護法に規定される通り生活保護されるに相応しい人達なのだろうから。 一日2000円生活から一日300円生活へと落ちたとはいえ、もう高校生以上が3人、住む場所は確保してもらっているので3人がアルバイトをすればそこそこ食生活は成り立ったのではないか、などと思ってはしまうが、そんな展開ではタイトルが泣くというものだ。 そこはお兄ちゃんの最後まで部活を続けろ、という弟に対する愛情から敢えて腹ペコ状態を選択したものだと素直に読んでみよう。 腹ペコ状態に陥って一日一膳の米を噛みしめて噛みしめて兄弟3人してとうとうご飯の「味の向こう側」へと到達するというあたりはさすがなのだ。 ※ 生活保護法 第三条 「この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」 「味の向こう側」という超文化的な生活水準にまで達したわけだ。 ふむ、ちと意味不明だったか。 それにこのお兄ちゃんも芸人志望だった。 なるほど、若い芸人志望に蓄えなどという考えは似合わない。 貧しさこそが芸の肥やしと言ったところか。 この本はストーリーの中の些細な箇所に一ヶ所一ヶ所突っ込みを入れるような本ではないのだ。 一膳のご飯のありがたさ、一杯の味噌汁のありがたさ、あったかいお風呂のありがたさをあらためて教えてくれる、という意味で飽食の時代の子供達への良い教材なのだろう。 と結んで終わりにしようと思ったが、主人公の中高生の時代も飽食の時代と言えば最高の飽食の時代だろう。なんと言ってもその頃はバブル絶頂期じゃなかったか。 その主人公が現代を飽食の時代というのはなんだかなぁ、・・・などという些末な突っ込みを入れたら終わりにならなくなる。 この言葉で結びにしよう。 この言葉に全ては集約されていると思いたい。 「僕はお湯に感動できる幸せのハードルの低い人生を愛しています」 05/Jan.2008 放射線のひみつ 中川恵一 著
この8月6日にあの寒ナオトいや菅直人という人が平和記念式典に出席して、反原発・脱原発をぶち上げる演説をする、というウワサがある。 現在、8月6日の未明なのでその真偽はまだ定かではないが・・。 今回の3.11の大惨事によって多くの日本人が悲しみや苦しみの居、未だ先の見えない不安の日々を過ごす。 そんな中で唯一、今回の大震災を喜んでいるとしか思えない男が日本のリーダーの立ち位置に居る。 福島の原発事故を嬉々として喜び、反原発・脱原発を叫ぶことでなんらかの人気を回復させようという魂胆だったなのだろうか。 見え過ぎていて反原発・脱原発で一致しているはずの人たちですら、もはやほとんど支持する人間はいないだろう。 この男の目的がさっぱりわからない。 嫌われていることが喜びなのか、嫌われてからの方が寧ろ元気になっているのはもはやヤケクソなのだろか。 そして目的のわからぬパフォーマンスのみをさらに嬉々として演じ続ける。 復旧・復興を国のリーダーが進めずとも東北各地域は独自に徐々にではあるが復旧しようとしている。 その復旧・復興というものから全く除外されてしまっているのが、福島の避難勧告地域。 人の姿が全く無くなったゴーストタウンになろうとしている。 原発事故の被害にあっているのは何も避難勧告地域の人たちばかりではない。 牛を育てていた畜産農家はとうとう福島、宮城、岩手に続いて、栃木県までもが県内全てで出荷制限。 被害はそれでとどまらないのは明白だ。 牛の次はなんだ。 米も新米は売れず、古米が売れるのだとか。 放射能漏れ、放射能に汚染された牛、野菜・・連日のように流れる報道。溢れる報道。 福島の牛肉だろうが宮城の牛肉だろうが、買って食べるよ、という人が居たってどこにも売ってやしない。 参加組合内で福島産の野菜や牛肉を買うべく働きかけをしようじゃないか、と言ってみたところ、各々賛意はあれど、手段がないので最終的には誰もが口をつぐむ。 別に子どもや赤ちゃんや妊婦の人に食べてもらおうと言うのではない。 もう40も50も過ぎた人ばかりなら、別にいいじゃないか。 出荷停止をするよりも購入者に選ばせてくれないか。 もしくは免許制じゃないが、40や50を過ぎた人は免許証を見せて購入許可をくれるとか、なんとか出来ないのか。 懸命に生産したものを捨てるしかないという無力感。ものを生産した人なら誰しもわかるだろう。これをなんで救えないものなのだろうか。 この「放射線のひみつ」という本。 おそらく読んで反発を覚える人は多いだろう。 何故なら「放射線は大して怖くない」ということを説いているからで、「そんなことまだ立証されていないだろうが」という反発は当然ながら出て来るだろう。 それでも「放射能」とは「放射線を出す能力」のことである、カタチあるものではないからして、「放射能漏れ」だとか「放射能を浴びる」だとかという表現は間違っているのだそうだ。連日の報道は言葉を間違えて使っているわけだ。 「被ばく」は「被爆」では無い。とか。 まずこういう言葉の説明から始まり、次にXXシーベルトなどの単位についての説明。 そして、放射線は普段から身の回りにあるもの。という説明。 100ミリシーベルトで発がんの可能性が0.5%云々の説明。 日本人の1/3はがんで死亡するのだという。 100ミリシーベルトでがんによる死亡率が33.3%から33.8%に増える・・云々の話。 いずれもわかりやすい。 平易な言葉で書かれている。 ただ、ここで書かれていることはもう大半は知っていることだった。 早朝のローカル番組でそういうことを毎日解説する人が居る。 彼ははそういう話をしながらも自らの原発に対する立場は明確にはされない人だったが・・。 中部大学の武田教授というCO2は削減するな、で昨年あたりから急に名を知られるようになった先生が居られる。 この先生、原発推進から反対に100%舵を切られたことでも有名なのだが、先日、講演を聞く機会が有った。 講演の中で武田先生が言うのは何シーベルトがただちに健康に害がある云々よりも寧ろ、それを強制されて吸わされたことに腹を立てておられる。 この先生、禁煙運動とかは大嫌いで、自分で好きで健康に害があるとわかりつつも吸っている人はそれでいいじゃないか、という論者。 自らはお吸いにならないので自分では吸わないが、吸いたい人はどうぞ吸って下さいな。但し、自分にはタバコの煙を吹きかけないでくださいよ。 だって自分は吸いたくないんだから・・・。 放射線も同じことで自ら、好んで浴びたいのなら構わないが、浴びせられたくもないのに浴びせられる。こんな不愉快なことはない・・と。 そう。 中川先生が「放射線はさほど怖くはないんです」とこの本で説いていたとしても武田先生の言う通り、誰しも自ら好んで浴びたいわけではないわけで、強制的に浴びせられることに対しての憤りというものを解決してくれているわけではない。 それでも思う。 強制的に浴びせられてしまった農家の産物を救いたい。 それこそ好んで口にしようというのだからそれはこちらの自己責任においてである。 世の中、好き好んでタバコを一日二箱も三箱も吸う人だっている。 もちろん自己責任においてである。 どうか、強制的な出荷停止などではなく、自己責任の上で買えるようにしてはもらえまいか。 いや、あのパフォーマンス男が居座る限りは何をどうせよ、と言っても無駄か。 06/Aug.2011 北天蒼星 伊東潤 著
サブタイトルが「上杉三郎景虎血戦録」 そんな大そうなサブタイトルがついているにも関わらず、謙信の後継ぎとして戦国時代を駆け巡った男などでは全然無い。 謙信亡き後の上杉家がさほど歴史の大役を担っていたわけではないことは承知しているのだが、「もしや?」目新しい観点か?という思いがあった。 で、読み始めてすぐに気が付くのだが、景虎?景虎?景虎?あれっ後継ぎは景勝じゃなかったっけ。 そう。 いつになったら天下を賑やかすのだろう、などと大きな筋書きを期待して読んではいけない。 跡目争いの騒動だけで、これだけの長い話を成り立たせてしまっているのだから。 元々この景虎という人、北条の人なんですね。 北条氏康の子に生まれながらも僧侶への道を歩まされそうになるのを、寺を抜け出してでも武士になろうとする。 そうしたところに越後、相模の(上杉と北条の)同盟話が持ち上がり、その証として越後へ赴く。 言わば人質だ。 妻を娶らない謙信に息子はいない。 それでも後継ぎ候補に甥がいるにも関わらず、その人質を後継ぎ候補NO.1にしてしまう。 この景虎と景勝の跡目争いの戦い、景虎に勝機が無かったわけじゃない、どころか、ずっと敵よりも有利な立場にあって、何度も勝てる場面を逃し続ける。 景虎と言う人、どうも他力本願なのだ。 北条から来たから自身の兵を持たない。 だから持ち上げてくれる家臣団に頼らざるを得ないような解釈で話は進んで行くのだが、曲がりなりにも謙信の後を継ごうという意気込みがあるから戦っているのではないのか。 馬上から声をかけて来るような無礼な家臣は一喝すればいいだろうし、「武将が自分勝手に判断して攻め込むのが越後の戦い方」などと変な割り切り方をして結局、敗戦敗戦を繰り返す前に何故、自身が先頭に立って指揮を取らないのか。 所詮は将の器では無かった人ということなのだろう。 作者は景虎をとことん「善」、景勝をとことん「悪」と描くが、この戦い方や家臣へのおもねりでは、この戦いにいくら勝ったところで、この将では上杉はその代で滅んでいたのではないだろうか。 悪人として描かれた景勝は、といえばその後、豊臣の五大老の一人となり、関ヶ原の後は外様となるものの、江戸時代の赤穂浪士の討ち入りの時にだって、吉良上野介は上杉を頼りにするほどに力のある大名として家は永らえる。 数年前のNHKの大河ドラマで直江兼続が取り上げられてたっけ。 結局、数回しか見なかったが、あれはあれで、いくら直江兼続の兜に愛の字があるからって、民のため家族のために愛を貫くだのって、良くもまぁ恥ずかしくもなくあんな展開が描けたものだ。 最近の大河ドラマはホントに嘆かわしい。 平清盛はどうどうと白河法王の落とし胤で確定みたいなところから始まってしまうし・・。 昨年のお江の方なんて現代ドラマを歴史ものに焼き直しただけかい。みたいなつくりだし。 もはやあそこまでやるなら、よくドラマのエンディングに映し出される「この物語はフィクションであり・・」っていうやつ、絶対に出すべきだろ。 「このドラマは実在した人物を元に描いたフィクションであり、実際の歴史的事実とは無関係です。なんら根拠資料はありません」ぐらい流しておいて欲しいものだ。 とはいえ、この本も謙信から後継ぎに指名されなかった景勝が小姓で陰謀をめぐらせると天下一品の少年、樋口与六(後に直江家を継いで直江兼続となる)のはかりごとを用いて謙信を殺してしまうという展開、まるで大河ドラマ憎しとばかりに・・・。ちょっと作者さん作っちゃいましたか。 09/Feb.2012 星月夜 伊集院 静 著
東京湾で見つかった若い女性の死体と老人の死体、二人の身元がわれても、どこにも接点が見当たらない。 この物語には二人の誠実な老人が登場する。 一人は殺害された女性の祖父。 岩手で農業を営むこの老人は息子夫婦を失い、さらに孫娘にまで先立たれる、という降りかかる最悪の事態の中、それを黙って飲み込む。 まさに昨年の大震災後に見せた東北の人たちを想起させるような哀愁が漂う。 もう一人は遺体となった出雲の鍛冶職人の老人。 この人には凛とした強い意志を感じさせられる。 この二つの被害者がどこでどう結びつくのか、それは終盤になってようやくわかるわけだが、ここに登場する警察の捜査陣は実によく捜査をする。 無残な死を迎えるに至る、被害者たちの生の軌跡を地道な捜査で明らかにして行く。 地道な捜査だけではなく、被害者やその家族の心情を思う真摯な姿勢が描かれてもいる。 確かに推理小説かもしれないが、推理そのものよりもそれぞれの人間を描こうとしているように思える。 推理小説としてはいかがなのだろう。 貧困の中から這い出して成功を遂げた人間がまだ、若い頃ならいざ知らず、昔の愛した人への執着がどれだけあったにせよ、これだけの成功者が殺人に至ってしまうその安易さがどうにも腑に落ちないが、まぁそういう話も有りでしょう。 あまり、ミステリだの推理小説だのというふれこみを前提に読まない方がよろしかろう、と思います。 23/Jul.2012 星の子 今村 夏子 著
幼い頃、病気がちだった女の子が父の会社の先輩に薦められた水を飲んだところ、みるみる快復してしまった。 この一家ではそれが終わりの始まり。 父も母もその水にすっかり心酔してしまい、それを大量に購入するようになる。 また、その水を販売している団体にもすっかり嵌り、そこでの行事には必ず参加するようになって行く。 いわゆる、いかがわしい宗教団体というやつ。 小学校に上がってからも「アイツは変な宗教団体に入っているからな」と冷ややかな目で見られるどころか、いじめをなくす立場の教師からも「変な団体への勧誘をするなよ」などと白眼視されるのだが、一家はお構いなしだ。 姉だけはまともだったのか。 この家を飛び出して帰って来なくなる。 もちろん教団からのすすめなのだろうが、親はますます奇行が多くなり、仕事もおそらく首になったのではなかろうか。 この主人公の娘も成長していくにあたって、おかしい団体だと気付きはじめているのだが、自ら去ろうとはしない。 子ども視点でたんたんと話が語られて行くが、かなり重たいテーマだ。 ![]() 06/Jan.2019
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