読み物あれこれ(読み物エッセイです)
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華麗なる一族 山崎豊子 著
だいぶ以前に読んだ事があるがほとんど詳細は忘れてしまっていた。 今回ドラマ化という事で結構騒がれていた様子。 ドラマ化にあたって何かが違うなという違和感が拭えなかったので再読してみた。 そう。主人公が違う。華麗なる一族は本来万表一族の長たる万表大介が主人公のはず。 それがドラマでは息子の鉄平が主人公になり木村拓也が演じている。 まぁ悪役が主人公では視聴率もとれないか。 しかしドラマの中に出て来る昭和40年代前半の街の風景はどうだ。 あれは大阪でも神戸でも無い。いつの時代の日本でもない異様な風景である。 それもそのはず、当時を再現するために上海でロケをしたとか。 それに「華麗なる」を強調しようとしてか、異様に目立つ調度品、インテリア。 下手をすれば役者を食ってしまいかねない。 番宣が効きすぎているので余計にそう見えてしまうのか、シャンデリアやらなんやらに億を投じたとかなんとか。 そんなものに何億かけなくても「華麗さ」を演出するのがテレビ屋さんや映画屋さんの仕事だろうに。 またドラマの中の万表頭取はあまりにも口が軽い。 「経営者たるもの時にはウソをつかねばならない時もある」なんて、いくら心で思ってはいてもそれを露ほどにも見せないのが万表頭取ではないのか。 それに大同との合併にしたって心の内を明かすのはほんの一握りのはず。 でなければ秘密裏に画策したことにならない。 ドラマは全てをナレーターが語っては成り立たないので止むを得ないのだろうけど。 ドラマ化と併行して再読したので、どうしても原著とそのドラマ化されたものを比較する格好になってしまう。 そうなれば軍配は原著に上がるに決まっているのでドラマの事はおいておこう。 それにしてもドラマ化されて再読するとなんとその演者の顔と被ってしまうものかが良くわかった。 山崎豊子という人、徹底した取材をする事で数々の名著を世に送り出している。 華麗なる一族でもその本領はいかんなく発揮されている。 「阪神特殊製鋼」という会社での高炉建設にあたってのプロ顔負けの専門知識は、同じく山崎氏が著した「大地の子」の中で中華人民共和国初の国家の大プロジェクト、中国初の大製鉄所の高炉建設を成すべく、数々の困難に立ち向かって行った日本の技術者達への取材と通ずるものがある。 おそらく「華麗なる」の方が先に書かれたのであろうから、その下地はこの阪神特殊製鋼を描く時の取材に有ったと言えるのだろうか。 万表一族が閨閥結婚を進める中で登場する大阪船場の仲人役の人の描きはまさに大阪船場の御料人さんにSPOTをあてた「女系家族」を読んでいれば、そのプライドの高さは良く理解出来る。 高炉建設中に事故を起こして死者まで出してしまった万表鉄平がその遺族に謝罪に行くあたりは「沈まぬ太陽」で日航機事故の後始末で遺族に詫びる役目を負った主人公を彷彿させる。 この「華麗なる」の目玉はなにより金融業界である。 金融の企業ものでまず思い浮かぶのは高杉良。でも高杉良の方が舞台は新しい。 以前のもので金融の企業モノと言えばモフ担(大蔵省担当)にスポットを当てて、いかに銀行たるもの大蔵省の動向を気にかけているか、というあたりを描いた作品があったが、タイトルも作者も思い出せない。城山三郎だっただろうか・・。 このモフ担に相当するのが、阪神銀行の東京支店の芥川常務を頭とする忍者部隊に相当するだろう。 原著の中ではこの芥川常務が合併の画策に最も貢献しているのではないだろうか。 ドラマではあまりに登場人物が多いと判りづらいのか途中で詰め腹を切らされる役割りだが・・・。 いずれにしても「華麗なる」の舞台は昭和40年代前半である。 その時代に本当に大蔵省は金融再編を考えていたのだろうか。 その時代の本なのでここでも当然大蔵省と記述するが、少し前までは大蔵省や通産省というその呼称が無くなった事の方に違和感を感じたものが今では、懐かしいとさえ思えてしまう。 かつて日本の銀行は横並びの護送船団とも呼ばれていた。 都銀は都銀で横並び。信託銀行は信託銀行で横並び。 信託八行に至っては、ビッグ、ヒットという金融商品の新聞広告でさえ同じ日に同じ新聞で横一列に並んで掲載されていたのもほんの少し前までは当たり前の事だった。 そのはるか以前に金融再編を画策していたのだとしたら、旧大蔵省銀行局の壮大な計画は、20年いや30年たってやっと実現された、という事になるのか。 まさか太陽と神戸がくっついて太陽神戸となった事を指しているわけではあるまい。 筆者が書いていた頃はおそらく昭和50年代だろうが、その時代に現代のメガバンク誕生の先駆けとなる再編を描くとは、なんという先見の明。 今やかつての都市銀行でそのままの業態を維持しているところはもう無いだろう。 合併に次ぐ合併で、もはやかつてどこの銀行だったのかさえわからなくなってしまったほどである。 万表頭取の取った行動は息子を切り捨てるというよりも寧ろ万表コンツェルンの一角を担う核の企業を切り捨てる事でオーナー経営者としてはなかなか決断できない事だろう。 息子の出自がどうのという問題と阪神特殊製鋼をどうして行くかという問題の根が同じ所にあるとしたらそれこそ経営者以前の問題。 息子の出自がどうであれ、やはり万表頭取は阪神特殊製鋼を切り捨てたのではないだろうか。 万表頭取が芥川常務の部隊を使ってモフの情報集めに腐心している最中、大同銀行の三雲頭取は天下り元の日銀へ阪神特殊製鋼への日銀特融を頼みに行くだけでそれまでモフの情報収集や根回しを怠っている。 阪神特殊製鋼にしても自己資本の何十倍もの借り入れをして設備投資をするという、ハナからが銀行頼みの計画では銀行に裏切られて破綻しても止むを得ない。 銀行が裏切らないなんて思っている人はおめでたい以外の何者でもない。 それとも高度成長真っ盛りの時代では当たり前の事だったのだろうか。 少し早めにオイルショックが来てしまったらやはり破綻だったのでは無かったか。 三雲頭取にせよ万表鉄平にせよ経営を政治ととらえる万表頭取にしてみれば政治的には赤子の様な存在だったと言う事か。 戦をさせれば天下一品の義経が政治的にあまりにもオンチだったために頼朝に追討されてしまうが如くに。 いやそう片付けてしまってはあまりに鉄平が可哀想か。 ドラマの方は原著ではもみ消された裁判沙汰にこれから突入するようだし。原著とは違う終え方をするのかもしれない。 それにしても万表鉄平とうよりキムタク演じる万表鉄平のテーマソングになった感のあるイーグルスの「Desperado」。(邦訳「ならず者」なのでイメージはほど遠いのだが) あの心に響く曲が頭に残って仕方が無い。 Desperado, why don't you come to your senses. ・・・・ 最後のこの一節は鉄平では無くいずれ再合併されて呑み込まれてしまう万表大介頭取のためにある様に思えてならないのである。 「You better let somebody love you before it's too late.」 07/Mar.2007 変な国・日本の禁煙原理主義 山崎正和/養老孟司 著
変な国・日本の禁煙原理主義 山崎正和/養老孟司<文芸春秋10月号対談> 養老孟司先生と言えば以前良く読んでいたエッセイなを思い出す。 面識もないのに先生と呼ばわりは不遜かもしれない。 たとえ面識があっても学者というだけで先生などとは呼ばない主義である。 養老氏では無く、先生と呼びたくなるのには訳がある。 だいぶ前に読んだエッセイの中の一つに痔の治し方についての養老先生の独自にあみ出した方法が書いてあった。 当時、私の知人の中に何人か痔持ちがいて、痔というもの医者へ行って手術をして切っても切ってもまた数年後には再発して、医者へ行って切らなければならない、そんな病気なのだと言っていた。 それがなんと養老式の治し方を知人三人に紹介してみたところ、三人が三人共、医者へも行かず、手術もせずに完治したというのだ。 それを聞いて、私の中では養老氏は養老先生となり、尊敬の念すら抱く様になった。 何も痔の事だけではない。歯に衣を着せないそのエッセイでの語り口が好きなのだった。 この対談は煙草を推奨しようと言うものではない事はもちろんだが、「禁煙」というものへの世の中の行きすぎに警笛を鳴らしてだけの様にとらえられている向きもあるかもしれないが、私はそうは読まなかった。 本来個人の責務であり個人の自由であるべき「健康増進」というものにまで「健康増進法」などという法を作り、国が国民へ生き方についてまでの押し付けを行う。 また、それに対して誰も疑問を持たないこの国のあり様を憂いているのである。 健康増進法 第二条 (国民の責務) 「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」 余計なおせっかいを通り越して責務だとはまるでファシズムの様だと対談では冒頭から過激な言葉が飛び交う。 かつて、日本のオフィスで禁煙というところは少なかった。 それが会議室となるともっと顕著で煙草の煙がもうもうとする中で会議をする、というのが当たり前だった様に思う。 アメリカの会社へ出向していた人がいて、帰国後 「アメリカの企業では一人でも私は煙草の煙が嫌いだという人がいたら、その会議室では煙草が吸えなくなるんだ」 というのを聞いた時には、皆がなんとまぁ理不尽な話だなぁ、などと言っていたものだ。 それが、あっと言う間に分煙化が進み、それが今やどうだろう会議室はもちろん、オフィス全てが禁煙は当たり前。わずかに喫煙室という小部屋があったものまで今やだんだんと無くなるか、戸外へ追いやられるか、という変わり様だ。 日本では、いや日本だけではないかもしれないが一つの事にヒートアップしてそれが過熱現象となる傾向が多々ある。 特に健康がからむとそのヒートアップは進む様だ。 一旦アスベストが悪いとなると、アスベストにヒートアップする。 かつては耐熱性にも耐薬品性にも優れ、耐久性も有り、電気に対する絶縁性も有る。 しかも安価であるという事で「夢の素材」とまで言われて普及していたアスベストがである。 食品に対してもやり玉にあげられた企業は数多い。 もちろん、うそ偽りを言っていた企業に責任があるのだろうが、中には何もそこまで・・と思える様なケースもあったが具体名は書かない。 「健康と安全」というお題目はなんと言っても強いのだ。 警察の交通課の言葉に「3Sの撲滅」というものがだいぶん以前からあった。 3Sとは「信号無視」「酒気帯び」「スピード違反」の三つだったと思う。 私は父と兄を交通事故で亡くしている。 両事故共に3Sは関係無かった。 事故があったのを聞いて病院に駆け付ける際にその病院には駐車場が無かった ので、原動機付自転車(所謂原付)を使用した。 かなり安全運転に気を使ったつもりだったが、覆面パトに停められスピード違反の切符を切られた。 パトカーの警察官に私は言った。 「3Sと言いますがね、私の父親は信号無視も酒気帯びでも無いスピード違反もしていない、単なる運転の下手糞なオバさんに撥ねられたんですよ」 と言い、今からその病院に駆け付けるところだと述べてみたが、一応軽く同情はされたが切符はしっかりと切られた。 この3Sの中でもここ1〜2年で急激にエスカレートして悪者になって来ているのが、酒気帯びである。 そりゃかなり酒気を帯びてのひどい事故が続いたからやむを得ないかもしれないが、本当にそこまでやる?というところまで来てしまっている様な気がしないでもない。 私共が住んでいる場所や仕事をしている場所は何分か待てば電車も来るし、タクシーだってそこらじゅうを走っているので構わないが、田舎の方は本当に成り立っているのだろうか。 電車は数時間に一本しかない。タクシーも走らない。ましてや運転代行屋さんなどいるわけもない。 そんな田舎はいくらでもある。 唯一の交通手段は車である。 知人のお通夜に行って「亡くなった人への供養だと思って」などと言われて酒を注がれて本当に拒めるものなのだろうか。 お正月のご挨拶に伺って、まぁ一献と差し出されたものを拒絶出来るのだろうか。 「このご時世ですから」と逃げ出せる人もいれば、拒みきれない人もいるだろう。 それがその地方で生きて行く生き方だとしたら尚更である。 だが、酒気帯びに対する罰則は都会も田舎も同じはず。 このバッシングは当分止みそうにない。 それは元々酒気帯びそのものは違反である、という過去からの決まりがある以上誰しも納得せざるを得ない。 ところが煙草はどうなんだ。 煙草を吸う事が犯罪か? 煙を吐く事は違反なのか? 大抵の場合はヒートアップはするが、またその熱がさめるのもあっと言う間である。 山崎・養老両先生も、煙草に対する嫌悪熱はいずれさがるだろうと見ていたフシがあるが両先生の意に反して、嫌悪熱は下がるどころか、ますますエスカレートして行ったのである。 ほんの十年前の映画ですら、煙草もくもくなんて当たり前だったのに、今や煙草吸いはまるで犯罪者の一歩手前の様な扱いである。 私も分煙には賛成。 歩き煙草もしない方がいいだろうと思うし、煙草のポイ捨てももちろん反対。 要はマナーの問題じゃないのか、と思うのだが、もはやマナーがどうであれ煙草はいけない、健康を害する、他人の健康をも害する、お前達煙草吸いは煙でもうもうとなった換気の悪い小部屋で肩身を狭くして吸うがいい、と言わんばかりの世の中。 両先生の主張を裏付ける訳ではないが、私も一日に煙草二箱を必ず吸うという九十何歳かのジイさんがピンピンしているのを現実として知っている。 九十数歳まで長生きした搶ャ平だって単壺をに痰をペッペを吐きながら煙草を欠かさなかった事は有名だろう。 まぁ、そんなケースだけを取り出しても仕方がない事は承知している。 この対談を読んでいて思い出したのが喫煙者が世の中から迫害され、抹殺されて行く話を書いた筒井康孝の短編。 残念ながらタイトルは忘れた。 世の中そこまでは来ていないがかなりの部分でその短編の世界に近づきつつある。 この対談はかなり世間を賑わせたらしい事は最近知った。 禁煙の推進団体やら推進する学会などが、 「肺ガンの主な原因が喫煙ではないという根拠を示せ」 「受動喫煙には害がないという根拠をお示せ」 などと反論しているらしい事も聞いた。 なんか話が逆ではないのか。 両先生はその真逆の問いかけをしているのである。 ・煙草が肺ガンの主な原因となるその根拠を示せ、と。 ・受動喫煙に害がある事の根拠を示せ、と。 煙草についての検討会なるものでは、検討をする前に既に煙草が害悪である事が前提となっており禁煙推進者は喫煙擁護派には根拠資料すら開示しない事例もあげて憤慨されておられる。 両先生には笑止であろう。 養老先生は肺ガンの原因が煙草である事を医学的に証明出来たらノーベル賞ものだ、と以前から言っている。 根拠を示し、証明すべきはどちらなのかは自明の理である。 と、両先生を擁護する意見をここまで書いてしまったが良かったのだろうか。 ここは私個人の掲示板でもないのに。 まぁ、いいか。気にしない気にしない。 パイプを咥えていないシャーロックホームズなんて想像出来ないし、葉巻を咥えていないチャーチルも吉田茂も想像出来ない。 世の中良識ある言葉が往々にして葬られるものである。 この勢いだけはとまる気配が無い。 両先生の冗談でもあるまいが、いずれシャーロックホームズの挿絵のパイプだけがモザイクになって出版される日が来るかもしれない。 くわばら、くわばら。 27/Oct.2007 ラグナロク-黒き獣 安井 健太郎 著
「ラグナロク」というのは剣の名前。 この剣が何故か話すことが出来て人格を持っている。 主人公は傭兵としての最高レベルまでのぼりつめながらも自ら昇進を辞退して官製の傭兵を飛び出していったリロイという青年。 正義感が強く、弱者を救済し、魔族を次から次へとバッタバッタと倒して行く。 小説としてはどうなんだろう。 小説というもの何某か作者が読み手に伝えたいことがあると思うのだが、伝えたいことが何なのか、最後までわからなかった。 格闘シーンというのを文章で描くのは難しいものなんだな、とつくづく思う作品なのです。 この本、格闘シーンに次ぐ格闘シーンの連続で最後にラスボスの様な強敵との格闘シーンが待っている。 「ラグナロク」というのは神話の世界のハルマゲドンのことらしいのだが、続き物の先にはそんなタイトルに相応しい展開になって行くのだろうか。 2巻目「白の兇器」もやはり同様に格闘シーンに次ぐ格闘シーンの連続であった。 これは、読み物として書かれて文章で読むものではなく、アニメやゲームにした方が向いているのではないか、などと思っていると、本当にDSのゲームに同じ名前のものを発見してしまった。 本書は格闘ゲームがお好きな方にはうれしい本なのだろう。 その「ラグナロク」というゲームを楽しんでおられる方々にはゲームのキャラクターをより堪能するためのありがたい本なのかもしれない。 03/Mar.2009 終活ファッションショー 安田 依央 著
就活ではなく終活。 人生の終わる時に向けての事前準備だ。 自分のお葬式をどのようにして欲しいのか。 何を着て棺桶に入りたいのか。 そんなことを遺書にしてしたためたところで、遺書が読まれるのは大抵、お通夜も、お葬式も終わった後。 では口頭で伝えておけばいいか、と言うと、これもまた、「やだぁ、縁起でもないこと言わないでよ」と聞いてもらえない。 ならば、と主人公の30代独身女性の司法書士は企画を考える。 ファッションショーというイベントに遺族となるはずの人達を呼んで、それを見せてしまおう、そんなお話。 就活ファッションショーの準備を進める内に、舞台に上がる人たちは考え、悩む。 どんな衣装で、を悩むわけではない。 これまで自分はどう生きて来たのか。 自分の終わりはあと何年後と仮定するか。 その時に残っている人は誰だと仮定するか。 その時に呼んで欲しい人は誰か。 そのために未来の年表を作り、何年後には○歳で、息子は○歳、家族構成はこう変わっているはず、そして自分はこんなことをしているはず。 一見、死ぬための準備のように話は進みながらも、残りの人生を如何に生きるのか、に命題が変わっている。 『最高の人生の見つけ方』という映画があった。 余命何カ月を宣告された二人の老人が生きている間に、やり残した楽しい事全てをやりつくしてしまおうという話。 あれはいい映画だったなぁ。 あれも如何に生きるかの一つだろうが、ちょっとだけおもむきが違うか。 それよりも寧ろ『エンディングノート』という映画に近いものを感じる。 いかに死を迎えるのか。 残った家族に何を残すのか。 いざ、という時にどうして欲しいのか。 残された者に伝え忘れていることは無いか。 世の中、そんなテーマの話がやけに多くなった気がする。 団塊の世代の方達が定年を迎える年になって来たことと無縁ではないだろう。まぁこれは日本だけのことだが・・。 この作者、巻末にプロフィールが載っているが、現役の司法書士なのだという。 そして、「終活」の普及に務める、と書いてある。 確かに、この本、小説の体裁はとっているが小説を読んだという実感よりも、残りの人生をいかに生きるかを考えよ、と教え諭されている実感の方が強く残る。 そんな本なのでした。 10/Aug.2012 カブールの燕たち ヤスミナ・カドラ 著
旧ソビエト軍がアフガニスタンに侵攻して以来というもの、アフガニスタンの人々に安寧が訪れたことなどあったのだろうか? 人々の心は、すさみきっている。 街を無気力が支配する。 この話の舞台は、ソ連がアフガン侵攻をあきらめて撤退した後、アフガン内部での熾烈な内戦。その中から台頭して来たタリバン勢力でがカブールを制圧後、徐々にその勢力圏を広げ、ほぼアフガン全土へと勢力圏を拡大していこうとしている、そんな頃のアフガン首都カブールが舞台になっているお話。 二組の夫婦が登場する。 三人も四人も妻を持つ人がいるような中で、この夫婦は双方共、一夫一妻。 方やの夫婦の亭主は拘置所の臨時雇いの看守。妻が病気で毎日イライラばかりしている。 方やの夫婦は夫も妻もソ連侵攻前のカブール大学に通っていたのだろう。 その当時のカブールは、イスラムのにおいの薄い街で、特にカブール大学あたりでは、欧米の一流大学並みの教育を受けた人が多く、自由の空気を浴びていた人が数多く居ただろう。 特にこの妻は、チャドリを頭からかぶるなどと言うのは屈辱以外の何物でもないと思っている人なので、かなり若い頃の自由の気風が抜けないのだろう。 この本のタイトル、「カブールの燕たち」の燕とはチャドリで全身を覆ったカブールの女性達を意味している。 タリバンなどのイスラム原理主義者達が支配する街では女性は、一人前の人として扱ってももらえないし、男女が人前で口を聞くことも、笑うことも手をつなぐことすら許されない。 要は家でじっとしていろ、というわけだ。 この本はタリバンを糾弾している。 欧米のジャーナリストがアフガンを取材してタリバンを糾弾することは、彼らの常識から言ってままあることだろう。 だが、この作者、アルジェリア生まれのイスラム教徒なのである。 イスラム教徒でも西欧的な高等教育を受けた人にしてみれば、同じイスラムでも原理主義者の方がキリスト教徒よりも遠い存在で、原理主義者がいるからこそイスラムそのものが忌み嫌われる、そういう意味で著者にとっては原理主義者は迷惑な存在なのかもしれない。 タリバン=悪、一般的に、世界的になにかそういう公式が刷り込まれている様に思えてならないが、当時のアフガンでカブールほど西欧的な空気を味わった町は別にして、ほどんどの町や村で望まれたことは何より、内戦の終結。 タリバンの台頭による治安の回復を何より喜んだのではないだろうか。 タリバンがあれだけ短期間にあの広いアフガニスタンという国の制圧範囲を広げられたのは何より地域地域で歓迎されたからに違いないのだと私は思う。 この原著が出版されたのが2002年。 アメリカによる空爆は既に2001年から始まっている。 執筆時は丁度、9.11の手前だったのかもしれないが、ウサマ・ビン・ラディンを匿っているのか?の問いかけにYESともNOとも応じなかっただけで、世界の敵の扱いを受けることになるタリバン達を敵たらしめるには同じイスラム教徒が書いた本書は大いに利用されたかもしれない。 「国際IMPACダブリン文学賞」などという賞の受賞もその一環と思えなくもない。 本の中にはそんな詳細記述はないが、あらためて振り返ってみるに、ソビエト侵攻前に大学に在学して、となると1978年より前。その後タリバンがカブールを治めるまで20年弱。 自由な大学を去ってからほぼ20年間もの長期に渡って、戦禍の中にいて尚、チャドリを拒否するだけの自由を追い求める気持ちを持ち続ける女性が存在し得るのか。 そして学生時代に男子学生を魅了した女性が20年経って尚、素顔をさらすことで男を魅了してしまうほどの魅力を持ち続けて来られるものだろうか。 ジェンダーフリーとは正反対のイスラム原理主義タリバン政権下での女性達を描いた話なのだが、存外、女性の強さを書いているも物語なのかもしれない。 01/Jun.2012
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