読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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ウエハースの椅子 江國香織 著
おそらく、人に薦められでもしない限り、この本を読む事は無かったであろう。 この本を薦めてくれたのはこの本の中の登場人物と同世代の女性である。 私の知り合いまたは読む本に登場してくる女性になんとこの同年代の人の多い事か。 私はこの本についてはあまりコメントしたくは無い。 だが、読んだ以上はコメントせよ、との御達しなので致し方ない。 三十代後半の女性の視点ならではの描写がこれでもかこれでもか、と続いていく。 そのならではの描写には次第にうーんとうなってしまう。 別に物語なのではない。ストーリーすらない。 言わば今流行のブログのはしりの様な書き物か。 小学生時代の思い出も出て来る。 「なんでのこんな事をしなければならないのだろう」 同じ思いは実は私も感じたのである。 だが、私とこの登場人物との間には決定的な違いがある。 私は疑問に思った事はそのまま身近な大人(担任の教師だっただろうか)にぶつけたのである。 あれは何学期の事かは忘れてしまったが、とうとう堪忍袋の尾が切れた、と言わんばかりに険しい表情をしたその教師は教室の後方に座っていた私の所まで、早足で来るや否や、私に往復ピンタを喰らわせたのである。 その教師曰く、長年教師をやって来て、俺にピンタを叩かせたのはお前が二人目なのだそうだ。 一人目はどんな人だったのか、どんな事でピンタを喰らったのか、ピンタを喰らった直後であるにも関わらず、自分の好奇心にはやはり勝てない。そのまま質問してしまった。 その人が何年も前の小学生の女子であった事だけは聞き出せたが、残りの疑問には一切応えてはもらえなかった。 あの学校では5年の担任はそのままクラス替えも無く6年も担任する事になっていた。 私は6年生からは親の都合で転校してしまい、別の学校に移ったので、さぞかしその教師はほっとした事であろう。 話が思いっきり飛んでしまっている。 元へ戻そう。 この登場人物と同年代の三十八歳の女性であれば、多分に自分と重ねて見て、同じ思いを共有してしまう、とう事は無いだろうか。 この本の愛読者は反発するのであろうが、この本に共感を持った人を私は好きにはなれないだろう。 どうしてもポジティブにな気持ちを維持出来ないのではないだろうか。 あまりにネガティブなのである。 ウエハースの椅子では恋人は決して彼女を嫌いになったりはしないし、彼女も恋人にどっぷり浸かっている。 ただ、恋人がウエハースの椅子を自身の事として書いている姿を見た時、興ざめの様なものは起きないだろうか。 それでも彼は優しいので内面はどうであれ、外面は同じ様に優しいのであろう。 19/Mar.2005 薄紅天女 荻原規子 著
『空色勾玉』『白鳥異伝』とこの『薄紅天女』で勾玉三部作と言われる。 三部作と言ってもストーリーとしては各々が独立しているので、続けて読まなければ、という心配は無用である。 『薄紅天女』は前2作から時代をはるかに下り、平城京から長岡京へ遷都した後から平安京遷都までの時代が背景。 前2作が全く伝説の時代を舞台としていたのに比べると、さすがにこの時代ともなると中学・高校生の日本史の教科書に登場して来る様な人物も描かれている。 長岡京遷都、平安京遷都となれば、その時の皇(すめらぎ)とは桓武天皇であろう。 坂上田村麻呂は登場するは、藤原薬子が男装で登場するは、若き頃の無名の空海は登場するは、と登場人物は多彩である。 前2作は日本の神話時代を舞台にしているので、そこを物語化するとかなりその神話と関わりの深い神道をいじる様な何かタブーに触れる様な分野だったが、平城、長岡京まで時代がくだれば、そういう心配もないだろう。 長岡京遷都は薄命だった。 長岡京造営時に尽力した人物が(藤原薬子の父)が暗殺された為、桓武天皇の弟早良親王嫌疑が及び早良親王は配流の後、恨みを抱いたまま死去したとされる。 そのため長岡京は遷都直後から怨霊の噂の絶えない都となった。 菅原道真が大宰府へ左遷された後も都で病死、怪死が相次ぎこの時も怨霊騒ぎが起きる。当時の人は怨霊の実在に敏感だったのだろう。 『白鳥異伝』の次なだけにまた勾玉をめぐっての攻防かと思ったが勾玉にはさほどの役割りは与えられていない。全く別の物語と言っても差し支えない。 今度の物語は都に巣くう怨霊とその怨霊の退治を行う話で、武蔵の国の少年達の話から始まり、蝦夷へ、伊勢へ、都へと舞台を移して行くが、この物語の語る別の一面がある。 苑上内親王を通して見られる皇女の孤独である。 同じ兄弟でも親王で無いためにもはや存在しないも同然の立場。 だから自由勝手気ままが許されるかと言うと皇の一族としてあまりに尊貴な立場ゆえに恋愛も結婚相手さえも探すことままならない。 物語では苑上内親王は薬子に学んで男装し、隠密に姿を隠し鈴鹿丸と言う偽名を使って活発で勝気な性格の役どころとなるが、生まれてから最期まで宮中しか見たことがないままという皇女も多かったのではないだろうか。 著者はこの話の中では苑上内親王に幸せな将来を与えている。 他の登場人物で輝いていたのはなんと言っても坂上田村麻呂だ。 長岡京での怨霊退治のための明玉を探しにほぼ単独で蝦夷へ向かう坂上田村麻呂。 坂上田村麻呂という人物、ほぼ初代の征夷大将軍にして蝦夷征伐を行った人、という事以外のはほとんど知られていないのではないだろうか。(初代かどうかには異論があるのかもしれないので念のため「ほぼ初代」としておいた) その坂上田村麻呂が都人でありながら、都人らしくのない、実にくったくのない人柄の人として活き活きと描かれている。 そのほとんど知られていない、というところが作者の目の付けどころなのだろう。 最後に長岡京にも触れておかなければ・・・。 この地名はもちろん長岡京市として現存している。 京都の南西に位置する市街地域である。 昔、都があったと意識する人はそうそういないだろう。 この地を訪れる人の多くはそこに自動車免許の試験場があるからで、かつて一時とはいえ、都であった面影を残すものはその市街地には無い。 怨霊のために埋没した都の名残などなこれっぽっちも無い。 唯一名残と言えば長岡宮跡の公園があるらしいが私は知らないし、住んでいる人訪れる人のほとんども知らないだろう。 22/Sep.2007 嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 入間人間 著
読み始めて第一感、西尾維新っぽいかな?と思ったがそうでも無かった。 作者があとがきで自ら述べているように、まさに「書き散らし」た言葉遊びのやり取り。作者は山ほど書き散らかしの言葉遊びを溜め込んでいたのではないだろうか。 あらかじめストーリーありきだった様には思えない。 書き散らかしの山から削って、拾ってを繰り返す内に体系だって来たものを後からストーリー的なのものに嵌め込んで行った、その結果の成果物のように思えてしまうのは何故だろう。 物語としてはまりに救いが無い。 あまりにも壊れすぎている。 心が壊れているという表現は語弊を招くだろうか。 とある田舎町で立て続けに発生している連続殺人事件と一つの小学生の失踪事件。 連続殺人の方は単なる殺人ではなく惨殺という言葉を使うような殺人ばかり。 なんの取り柄もない田舎の町が全国区になったのは8年ぶり。 その8年前に発生した誘拐事件の被害者が主人公のみーくんとまーちゃん。 そのまーちゃんが小学生を監禁している。 話はそこからはじまる。 そこからはじまるがストーりーそのものは先に書いたように救いがないのでふれない。 荒っぽい言葉遊びだけに明け暮れている様にも思えるが、存外な面も覗かせる。 例えば、無意識という言葉を作者は「ムイシキ」とカタカナ表記する。 会話ではもちろん感じないが、文章では「無意識に○○をした」と「ムイシキに○○をした」では伝わる語感が違う。 意識が無い状態で行ったのではなく、何気なく行った行為について「無意識」という漢字をあてることを回避しているあたり、案外この作者は言葉表記を大切にしていないように見えて大切にしているのではないかと思わせる。 作者のペンネームも変わっている。入間人間。 作風からしてあの宮崎某が起こした連続幼女誘拐殺人事件の舞台となった入間川をもじったのではないか、などと考えてしまったが、それはおそらく考えすぎなのだろう。 08/Feb.2010 歌うクジラ 村上龍 著
村上龍という人、何年かに一度、途轍もないものを書いてくれる。 「コインロッカー・ベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「五分後の世界」、「半島を出よ」いずれも長編で、あまりの衝撃、あまりのエネルギーに圧倒されてしまうのだ。 他の作家の本で、どれだけ感動するものがあろうと、どれだけ傑作だ、と思えるものがあったってこういう凄まじいエネルギーを放つような作品にはそうそう出会えるものじゃない。 この「歌うクジラ」もそうした一冊だった。正確には上下巻なので二冊なのだが。 一言で言えば未来小説。 一口に未来小説と言っても大半は、いくら木星へ居住していようが、金星に移住していようが、どれだけ優秀なロボットが登場しようが、どこか現在の価値観を延長しているものが大半である。 この本の圧倒的なパワーというのは未来小説というよりジャンルを大きく飛び越え、既存の価値観や概念、全てを破壊しまくってしまうところだろうか。 110数年後の日本。 そこには今で言うところの格差というものがない。 何故なら人民は最上層階級、上層階級、中層階級、下層階級、最下層階級の間で隔離され、下の階級に要るものは上の階級の存在すら知らない。 江戸時代の士農工商の様に共存しているわけではない。隔離されているのだ。 存在を知らないので、妬むことも羨むこともない。そこには格差が無い。 なんとも逆説的に思えるが、実際にそうなのかもしれない。 仕事もしない目の前のエリートが収入を何倍も得ていれば、嫉妬心もわくのだろうが、ビル・ゲイツに格差だのと嫉妬するやつはいない。 ビル・ゲイツはメディアに登場したりするのでその存在を知られているが、存在する知らなければ、もはやその差そのものも彼らには存在しない。 そういう隔離された階級の最下層。最下層というのは性犯罪者やその子孫たちが住み、平均寿命は短く、45年で三世代が入れ替わる。 その最下層の島からから主人公は旅立って行く。 SW遺伝子と呼ばれる、老化に繋がる遺伝子を修復して老化をSTOPさせてしまう遺伝子が発見され、最上層と呼ばれる階級はその恩恵を受け、100歳を超えても尚、若々しさを保つ。 同じ遺伝子を逆用することで、犯罪者にはその逆の老化を一気に早めるという措置が取られる。 この110数年後の世界に至るまでの間に、「文化経済効率化運動」、という一見彼の国の文化大革命を想起させるようなネーミングの改革を経て、日本人は敬語という文化を捨てる。 敬語が通じない世界。 それだけでも日本人の意識はかなり異なるものになるのだろうが、まだまだそんなレベルの話ではない。 恥という概念がもはや無い。 怒りという概念が無い。 人を可哀そうだという概念が無い。 最上層のi一部の人間は理想社会を追い求め、その行きつく先はとことん自然と共存した、ジャングルに住むボノボという類人猿に近いものになって行く。 たった一世紀やそこらで類人猿になるほどの変革が起きてしまうとは考えづらいが、我々小市民にはわからなくても案外「命を守りたい」と演説したあの人なら、最後の演説で「国民がとうとう耳を貸さなくなってしまった」と言い切る人になら、自然と共存しすぎて類人猿になることも理解出来るのかもしれないな。 この理想社会も逆説的ではあるが、何事にも極端にぶれて行けば実現してしまうのかもしれない。 下層階級の中には移民の子孫たちも含まれるのだが、彼らは日本語の助詞を敢えて違えて会話する。 さすがにこの部分がえんえんと続いた箇所はかなり読みづらいものがあった。 はたまた別の場面では、高齢化社会のとことんの行く末を描いた箇所なども読み応えがある。 この本はこれからの100年先という未来から見た歴史書なのかもしれない。 この100年後はかなりいびつに強調された姿ではあるが、ここまで行かずとも似たようなことは起こり得るのかもしれない。 実際の100年後の人たちからすればもう一つの100年後。まさに「5分後の世界」なのかもしれない。 11/Apr.2011 虚ろな十字架 東野圭吾 著
ちょっと買い物に行くその間だけ幼い娘を留守番に残し、そのちょっとの間に強盗に入られ、わずか数万円のために娘を殺害されてしまった夫婦。 我が子を殺害されたばかりというのに真っ先に疑われたのがその両親だった。警察への連絡の後真っ先に事情聴取され、妻にいたっては一日で返してもらえないほどに執拗に聴取され続けた。 娘の遺体があざだらけだったり、近所でも有名な児童虐待の家ならそうかもしれないが・・・。 二人は掴まった犯人には極刑を望むが、一審では無期。控訴してあっさりと死刑判決。 そこでぽっかりと空洞が空いたような喪失感。 結局夫婦は離婚してそれぞれの道を歩こうということに。 極刑を望んで、もしそうならなかったら、二人で焼身自殺をして抗議しよう、とまで意気込んでいたのに。望みどおりの判決となったのに。 かつて妻を強姦された上に妻と子供を殺害された男性が、犯人の死刑を望んで運動をしていたことがあったっけ。 あれも最初の判決であっさりと死刑が確定していれば、あの人はあの運動を起こすこともなく、それこそ魂の脱け殻のようになってしまっていたかもしれない。なんとか極刑を、と訴え続け、運動することこそが生きる力になっていたかもしれない。 あの人は今頃どうしているのだろう。 さて、別れた夫婦だが、今度は元妻の方が殺害されてしまう。 犯人は早々に自首して来た後に、元夫は別れた後の妻の行動を追う。 妻は離婚後、フリーライターとして活動していた。 頼まれ仕事とは別に 「死刑廃止論と言う名の暴力」というタイトルの文章をを執筆。 もうすぐ出版するというところまで書きあげていた。 その文章の主旨は、 「人を殺めた人は命で償うしかない」 「刑務所という更正施設で人は更正などしない」 というもので、自らの体験談はもちろん、被害者遺族の取材、死刑を減刑する側の弁護士への取材も試みた内容だった。 「虚ろな十字架」という本のタイトルもその亡くなった元妻の文脈の派生による。 ならば、この「虚ろな十字架」という本も一見「死刑廃止を許すまじ」が主旨の様にも受け取れるが、そこはどうなんだろう。 話の終盤で出て来る話。 若気の至りで過ちを犯してしまった人の奥さんの言葉。 この人は、その一人の命と引き換えに自分達親子二人の命を救ってくれた。 今も尚、他の数多くの命を救っている。 「人を殺めた人は命で償うしかない」のかどうなのかの判断を読者に委ねようという試みなのかもしれない。 とはいえ、救いようのない犯罪というものはあるもので、上の母子殺害事件などは死刑以外の選択肢があるとはそうそう思えない。 09/Mar.2015
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