読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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ハッピー・リタイヤメント 浅田次郎 著
財務省に33年間ノンキャリアとして勤めあげた56歳の男。 財務省を退官するやいなや妻からは離婚届を出され、妻と、息子、娘は退職金と預貯金を山分けし、それぞれがバラバラに暮らして行こうとする。 明らかに山分けにしては少ない金額を残され、見事に捨てられた父でもある。 方や陸上自衛隊に37年間勤務。 防衛大学出でなければ、なかなか出世の出来ない世界で、叩き上げでありがら二等陸佐まで昇進したが、一等はかなわず。 カタカナの和製英語は日本語に置き換えてから理解しようとし、56歳になるまでにマクドナルドも一度も食したことが無いという現代日本人を超越したような稀有の人。 両者共、退官の後に用意されたのが、全国中小企業振興会(通称JAMS)という財団法人。 ん?そんな団体っていかにも実在しそうな気が・・・。 無一文で起業をする人に銀行は融資などしてくれない。 そんな起業家達にチャンスを与えることを目的として、戦後間も無くのまだマッカーサーの統治時代に設立されたのがこの団体。 無担保無保証の人の保証人にこの団体がなってあげる。 返済不能となれば、銀行はこのJAMSから取り立てれば良く、貸し手である銀行にリスクは無い。 借りた側はというと返済不履行となってそのまま音沙汰も無いままのケースが多々有り。その中でも二人が配属されたのは、債務保証をしてからほぼ30年近く経過した、紙くず同然の債券の管理場所。 借り手にしても、もはや時効なので、返済の義務は無い。 即ち、彼らに与えられた任務は、『そこで何もしなくて良い』ということだった。 日がな、本を読んでいても良し、居眠りをしても良し、囲碁、将棋をしても良し。 朝・夕の9時5時さえ守ればあとは、昼間中映画館へ行ってても良し。 そこへ来た大抵の人はこの状況を天国と感じる。 何をしていても良く、しかもお給料もちゃんともらえ、さらにそこを退官するせずともしっかりと退職金をもらえる。 皆、どこかを退官して、もはや終わった人たちだ。彼らは口々に言う。これぞハッピーハッピー・リタイヤメント!と ところがどっこい。 この二人はまだ終わっていなかったのだった。 そこから物語は面白くなる。 久しぶりに会った娘が40万のシャネルのバッグを「タダみたい」とはしゃぐのを聞いて、バカにみがきがかかったと感じる元財務省のノンキャリア。 誠実、実直、朴とつそのものが歩いているような元自衛官。 どちらも味があって浅田氏好みのタイプの二人ならでは、と言ったところだろうか。 さて、天下り、渡り、などともうさんざん報道されたのでそういう言葉を知らない人の方が少ないだろう。 浅田次郎氏はこの天下り人事を全て仕切っている男、言わば悪玉なのだが、その男に発言させることで、この天下りの構造を見事に浮き上がらせている。 終身雇用と言うのは江戸時代から連綿と続いて来た武家の伝統。 終身どころか末代までの雇用を約束している。 方や年功序列と出世主義からなる三角形のピラミッド型の組織体。 終身雇用を維持するのには、入省した時の人数がそっくりそのまま年を取るまで居続ける四角形型の組織となるが、年功序列と出世主義の下では組織は三角形型でなければ機能しない。 そこで四角形でありながら三角形である、という手段を思いついたのだ。 と、とうとうと語るのが、この天下りという方式の素晴らしさ。 このオヤジ、天下りの人事を握ることで、人の心を鷲づかみにするような野郎なのだが、そんな美味しい汁をすすらせるだけじゃなく、組織の外へ出たらまずい行動に出るかもしれない人間などをこういう天下り組織ですっかり骨抜きにしてしまう、などという芸当もやってのけるのだ。 公務員制度改革は現政権の選挙時のマニュフェストの一項目だが、手をこまねいているのか、どうなのか。 小手先はあっても抜本改革を行うようにはとても見えない。 単に天下りを無くす、無くすとは言いながらも結局ピラミッドから溢れた人の受け皿をどうするのか。 そもそもピラミッドじゃなくしてしまうのか。 じゃぁ年功序列はやめないと、それはそれでとんでもない人件費がかかってしまいそうだ。 制度改革を行うのなら、年功序列の廃止は避けては通れないはず。 ところがこの肝心の給与法の改正が進まないばかりか、OBによるあっせんは天下りでは無いなどと屁理屈のような理屈で、天下り根絶どころか、かつての行革推進時より後退している感が拭えないのが現状。 何事も言うは易し。行うは難し。と言うところか。 25/Mar.2010 廃墟建築士 三崎亜記 著
「七階闘争」「廃墟建築士」「図書館」「蔵守」の四篇が収められている。 いずれも非現実な世界。 いわゆるシュールと呼ばれる世界かもしれない。 非現実の世界でありながらも、現実社会を眺めているようなアンチテーゼ。 それが作者の狙いなのだろうか。 七階も廃墟も図書館や本も蔵守や蔵も何かのメタファーなのだろう。 狙いや発想は面白いのになんなんだろうこの後味。 なんだろう、このなんとも言えないこの残念感。 マンションやアパートの「七階」で犯罪や自殺といった事件がたまたま何件か続いて発生した事に端を発する「七階闘争」。 市議会では「七階」の存在が問題の根源だという馬鹿馬鹿しいことを言い出す議員が現れたといたと思いきや、市長もそれに賛同し、「七階」を撤去する方向でに決する。 そこで、七階を守る側の人間による「七階撤去反対闘争」が始まるわけだが、ここでいう七階とは、縁起を担いで四階や四号室を設けないビル、13階か13号室を設けないビルとは全く意味が異なる。 四階が無いということは便宜的に4階を5階と呼ぶだけのことなのだが、古来より7階は希少で12階建ての建築物に遅れること200年後に7階が出来た、要は7階は迫害されて来た云々。 1階にあろうが7階と命名すれば、それは7階となる云々。 建設して間もないビル全体の各部屋に7階だと刷りこめば、各部屋は自分を7階だと思う云々。 もはや、7階とはもはや階層を表すものではないらしい。 歴史的に迫害されたり、闘争運動を起こすあたりは何かの解放同盟のようでもあり、それでも7階からの眺めが好きだというあたりはやはり階層をも表しているのか? 「廃墟とは、人の不完全さを許容し、欠落を充たしてくれる、精神的な面で都市機能を補完する建築物です。都市の成熟とともに、人の心が無意識かつ必然的に求めることになった『魂の安らぎ』の空間です」と主人公の廃墟建築士が語るところから始まる「廃墟建築士」。 この小編では「廃墟の存在こそ国の文化のバロメーターだ」という定義付けがなされている。 その展開、素晴らしい。 物凄い作品なのかも・・・と一瞬思うのだが・・・。 それから先が「偽装廃墟」が問題になって・・という展開になってかつてどこかのニュースで問題になったような偽装問題になって行く。 なんとも残念でたまらない。 図書館では本が夜になる野生になり飛び回るわけだが、物書きなら図書館という建物はともかくももっと「本」というものに思い入れを持ってほしい気持ちが残る。 美術本は華麗に飛び、新しい本は飛ぶ事を躊躇し・・などというぐらいでは本に対する思い入れがあまりに安易じゃないか。 我こそは孤高の人とばかりに孤高の道を行く本や本失格とばかりに他の本を道連れに川に飛び込む本。 左と右での論争ならぬ衝突をする本達や、ひたすら他の本を救おうとする本。 本が飛び交うにしたってそれぞれの作者や愛読者の気持ちまでもメタファーに取り入れたなら、この物語はもっと凄いものになっていたのではないだろうか。 蔵を守ることしか頭になかった蔵守と蔵の世界。 これがこの四篇の中では秀逸だろう。 ほとんどこの世の中の大半を言い当てているのにかなり近い作品なのだが、作者はどこまで意識していたのかわからない。 物語としての収まりが悪いように思えてならない。 つまるところ、出だしは全て期待させられるものの最終的に全て「残念」で括らせてもらうことにする。 蔵守はいっそのこと途中で終えておけば良かったのになぁ。 26/Jul.2011 ハイブリッドカーは本当にエコなのか? 両角岳彦 著
頭から冷や水をかけられたようなタイトルにまず驚く。 エコ減税、補助金もね!と散々コマーシャルされているハイブリッドカー、それがエコなのか?という問いかけのタイトル。 著者は車にはかなり詳しい。 書かれたこの本もかなり専門分野に踏み込んで書かれているので、熟読の覚悟で読まなければなかなか頭に入って来ないだろう。 ハイブリッドカーは本当にエコなのか?と問われれば、そりゃエコでしょう、と誰しもが答えたいところである。 だが、筆者が言うには、ハイブリッドカーでのCO2削減効果は既存の車でアイドリングストップをするのと変らない、もしくはそれよりも落ちるかもしれないのだという。 高速道路の土日千円効果で、土日や連休には各地の観光地は他府県からの車で渋滞状態。その超渋滞の横を歩いていると、その排気ガスむんむん状態に思わずハンカチで鼻と口を覆いたくなってくるほどである。 10分待って10mほどしか進まないようなところだったら、止まっている間だけでもエンジンを切ってくれたらどれだけ、その排気ガスむんむん状態は緩和されたことだろう。アイドリングストップ、大いに賛成である。 ハイブリッド車とは何かと問われれば、自動車の内燃機関をガソリンで動くエンジンと電気で動くモーターを併用させるものなのだろう、と単純に思っていたが、その併用の仕方にもいくつもの方式の違いがメーカーや車種やその車種の世代で存在するのだった。 あまりに専門的なので端折るが、内燃機関で発電機を動かし、そこで作り出した電力をモーターに送り込んで走行する、というのが一番わかりやすい。 これについて著者はハイブリッドが活きる状況は限定される、とばっさり。 ハイブリッドが燃費を稼ぐ最大のポイントは減速時のエネルギー回収。 加減速の多いほど回収率は良く、安定走行であればあるほど回収率は低いのだという。 つまり日本の市街地などのようにしょっちゅう信号で止まったり、という道にはまだ良いが、欧米の様な混雑しないハイウェイで一定速度で走る場合にはその効果を発揮しない、というのだという。 効果を発揮しないどころか通常ならエンジン一つで済むところへモーターなどを搭載しているために車体は嵩張り、重量も200kgも重くなった分、余分なエネルギーが必要になってしまうのだとも。 著者がもう一つ言及しているのは、日本のメーカーの燃費発表の際のお受験システム。 その車の最適な状況で出した燃費を公式数値として発表していることと、それに対して何も言わないマスコミへの批判だ。 著者の言及は燃費にのみとどまらない。 その消費行動が生み出す負の遺産である廃棄物処理の問題。 メーカーたるものモノ作りの際には製品の「解体」「分別」「回収」「再資源化」を設計時から頭に入れて作るべきものなのにその視点が全く抜け落ちているのだという。 それでエコなのか?と。 究極のエコカーと言われる水素自動車に関しても、水素を取り出す際にCO2を排出する、水素を運ぶにはマイナス253度以下にして液体にする必要がある。それら製造・供給のインフラ整備にかかるコストが多大。 従って、究極は水力、風力、太陽光、地熱などの自然エネルギーを利用した発電なのだろうが、最低でも20年という時間軸で考えていくことになるだろう、ということである。 どこぞのノーテンキなお方が2020年までに90年比25%減と根拠もないまま演説してしまったがために、その党の方々は問い詰められる都度、苦しげに、産業構造が変りますから実現可能です、などと言わざるを得なくなっている姿を良く見かける。 産業構造を変えるったって、2020年ってたったの10年しか無いんですよ。 産業界の人が言うならまだしも、政治屋というのは言葉遊びで生きているんだなぁ、とつくづく思う。 昨年末より新聞では首相のそして次にはその党幹事長の政治と金の問題の記事がの一面をかざる頻度が高くなっているが、政治資金云々よりもあの演説の方が後世に与える影響としてははるかに罪深いだろう。 後年、諸外国からあの25%はどうなった、と詰め寄られたら、お得意のあの演説草稿は秘書が作りました、とでも言うのだろうか。 そんなことはさておき、 著者の言いたいことはよくわかる。 ただ、ハイブリッドが活きる状況は限定されるのだとしても、いいじゃないですか。 実際にこれまでの車よりも燃費が悪くなっているわけではないのでしょうし。 実際に著者がL当たり38kmの三代目プリウスで実験した結果、カタログ燃費より10数パーセント低かったからと言っても既存車よりははるかに燃費がいいじゃないですか。 その御指摘のお受験システムにしたって、消費者は承知の上なんじゃないでしょうか。 かつてスーパーカブがカタログ燃費はL当たり150kmだったかな?確かそのくらいだったと思うが、そんなものは最低速度でしかも一定速度で走った場合なんだろ、って誰しも思って購入していたことでしょう。 実際にはその半分の燃費しかでなくても満足していたんじゃないでしょうか。 それにおもしろいのは、スムーズな運転をする人よりも緩急の激しい、どちらかと言うと運転の荒い人の方が燃費効率が良くなるという点でしょう。 これまで排気ガスを、巻き散らかしていた人ほどハイブリッドを利用するメリットがある。 何より自らアイドリングストップをしなくったって観光地の排気ガスむんむん状態が無くなるなら大歓迎じゃないですか。 今や日本経済は疲弊しきっている。 折りしも、本日1/18の日本経済新聞朝刊の一面記事の中に「ハイブリッド トヨタ、倍増100万台」の見出し。 当面は自動車、家電に再度、産業の牽引車になってもらわなければ、もっと疲弊してしまうでしょう。 この本を読んだからと言ってハイブリッドを買うのはやーめたって!っていう単純発想をする人ばかりじゃないでしょうが、あまりネガティブな側面を強調しすぎると日本経済は終焉してしまいかねませんよ。 著者がネガティブな指摘を行うために書いたとは思っておりません。 キチンとご自身で分析した結果を書いておられる。 その分析結果を踏まえて自動車業界は新たな技術革新を図れ、という業界への叱咤激励 なのでしょう。 技術者たちがこういう著者のような指摘者に対して、じゃぁこれではどうだ、とばかりにまた次の技術革新へと一歩を踏み出してくれることを期待して、結ばせてもらいます。 18/Jan.2010 半島を出よ 村上龍 著
村上龍さんと言えば「愛と幻想のファシズム」が以前、このコーナーにて取り上げられているが、そこからいきなり「半島を出よ」までとんでしまうのは惜しい気がする。 あの名作「五分後の世界」までも飛ばしてしまうなんて。だが、同じ感想を書くにしても新しいものから書くのが新鮮というものだろう。 とは言え、「愛と幻想のファシズム」に関しても何らまともな感想が述べられている訳では無い。手っ取り早く言えば、「読めばわかる」という事をたらたらと述べているにすぎない。 「半島を出よ」は近未来小説である。 近未来も近未来、ほんの5〜6年後の世界なのだ。しかもかなりリアルなシロモノだ。 本編の描く未来は2011年。しかもわずか10日間あまりの出来事である。 北朝鮮の反乱軍と日本政府、マスコミ、そして社会からドロップアウトした若者達が話の主役なのではあるが、そこまでに至る経緯、時代背景の描き方、その演出には恐れ入る。 冒頭に出て来る、リョッコウと呼ばれる元公園のホームレス居住区の風景描写なぞはその典型。 「東大・京大・一橋大卒業証明書有りで三万円」と書かれた精子バンクのパンフレット。 穴を掘ってダンボールで囲っただけの便所。ダンボールの下から女の尻が見えていても誰も気にもとめない。 ヤクザがNPOとなってホームレスエリアの利権を漁る。 日本や各国の動きについても見逃せない。 2006年には団塊の世代の公務員退職金未払がはじまり、地方債と財投債が暴落。 金利が暴騰し、インフレと不況が日本を襲い、2007年にATMストップ。 政府は財政破綻し、預金封鎖に踏みったのだ。 消費税は上がり続け17.5%に。 日本はアメリカからもヨーロッパ、ロシア、中国、韓国からも孤立し、日米安保も解消寸前に。失業者の増加。増え続けるホームレス。 国民は導入された住基ネットの住民票コードで管理され、個人情報の全てはこの住民票コードにぶら下がっている。 アメリカも世界の警察である事を止め、イスラエルはパレスチナの独立を認め・・・。 近未来でありながら、直近の歴史を読んでいるかの如くである。 北朝鮮のこの作戦のヒントは、第二次世界大戦時のヒットラーの作戦だった。 亡命ユダヤ人に紛れた特殊戦部隊の一個中隊が客船でニューヨークに上陸し、マンハッタンを占拠する。 その部隊は、ナチスから逃れて来た反乱軍だと主張し、ヒットラーもそれを認める。 その反乱軍と名乗る一隊に市民は人質に取られ、アメリカはパニックに・・。 まさか、なのである。 そのまさかを北朝鮮が福岡を舞台として繰り広げる。 北朝鮮は日本にたった9人の北朝鮮のコマンドを乗り込ませ、福岡ドームを乗っ取る。 政府が全く無策のまま、後続部隊が到着し、たった500人の北朝鮮部隊は、無抵抗の国に乗り込み全く無傷のままで人口100万都市を手に入れ統治する。 駐留部隊は北朝鮮の反乱軍と名乗っているので、北朝鮮による侵攻とはならず、アメリカ、中国、韓国、国連は静観。 500人のみならず、後続の12万人の反乱軍が北朝鮮を出航しようとしている中、日本政府のやった事と言えば、九州の封鎖と北朝鮮への非難。 ほんの5〜6年後の日本を描き、金日成、金正日、北朝鮮・・と実名をあげて書いている。 内容が内容である。しかもそのリアルさとあまりの生々しさ故に、私は村上龍さんの身辺に何か起こりはしないか、と読みながら心配をしてしまった。 だが、もう出版されて広く読まれているのである。毎日出版文化賞も受賞した。 寧ろ書き上げている時の方が遥かに恐ろしい。よほどの緊張感の中で書き上げたのでは無いだろうか。 下巻の巻末に参考文献が記されているが、その膨大な量も去ることながらその分野のなんと幅広い事か。 北朝鮮関連が最も多い。北鮮関連では、脱北者の関連文献から金正日回顧録の類、北朝鮮の童話本に至るまで、北朝鮮と名の付く本は全て漁ったのではないかと思えるほどだ。 他には、国際法関連、安保関連、特殊部隊、兵器、武器、火薬、爆薬関連、住基ネット関連、預金封鎖の関連、エシュロン関連、建築設備関連、虫、爬虫類関連、医学関連書籍・・・そして膨大な映像資料。 村上龍さんの書いている事で一貫しているのは、二者択一しか選択肢が無いのにそれを曖昧なものにしてしまう者達への批判、非難、軽蔑である。 それが、プライドという四文字に表現される事もあれば、裏返しに自信喪失という形でも表現される。 政府しかりマスコミしかり、何より日本人そのものしかりなのである。 そしてその曖昧模糊に対峙するのは、以前は若い女性が主役だった様に思う。 応えの出せない男共に対して、失うものの無い若い女性の方が考え方がシンプルで、迷い無く応えを出して行く。 社会からドロップアウトした少年達がその役割を果たし始めるのは、「希望の国のエクソダス」の前後からだろうか。 この本の中のもう一つの主役達である少年達も「共生虫」あたりから登場し始める、世の中、社会、大人・・というものに溶け込めない少年達に類似したものを感じる。 未読の方の為にも、最後は書かないが、この本の中では社会から、大人から不要とされた少年達が活躍する。 この本に書かれている事は荒唐無稽と読む人も入れば、近未来小説というカテゴリの一つに納めてしまう向きもあろう。 確かに近未来の架空の話ではあるが、ここに登場する人々が陥った様な「これまでに実感の無い現実」を目の前にした時の日本政府、マスコミ、日本人の姿は現実そのものなのである。 25/Jan.2006 博士の愛した数式 小川洋子 著
MMI-NAVIに設置している箱庭ゲームの中のボードでこの本のやり取りを見てしまいまして読んでみる事にしました。 アホカイナ島のあほかいなさんというのはなかなか得をしそうなお名前ですね。 なんか失態をやらかして「お前はあほかいな!」と言われても、そうです。あほかいなです。で、終わってしまう。 いや、博士の愛した数式に話を戻しましょう。 登場事物は極めて少ない。 80分で記憶がリセットされてしまうという数学者、その身のまわりの世話をする為に雇われた家政婦、その家政婦の息子で数学者からかわいがられ、ルートというニックネームをもらった少年。あとかろうじて登場するのが数学者の義姉ぐらいなもの。 その数学者は博士と呼ばれ、1975年から記憶はSTOPしたままで、義姉の言葉を借りると、「頭の中に80分のビデオテープが1本しかセット出来ない状態で、そこに重ね録りしていくと以前の記憶はどんどん消えて行く」という設定。 最初のつかみで、読者を数字の世界に引っ張り込むのに成功している。 電話番号は何番かね? 576-1455です。 5761455だって?素晴らしい。一億までに存在する素数の個数に等しいとは。 XXは? 24 です。潔い数字だ、4 の階乗だ。 などというやりとりが何気ない会話に出て来る。 自ずと読んでいるこちらも中学の数学だったか小学校の算数だったかは忘れたが、その忘れ去った数に対する興味を引き出してくれる。 4 の階乗 1×2×3×4 1 から 4 までの自然数を掛けたもの、何気無い会話に出て来る 数字でそんな事を日常考えながら生活をしている人などまずいないだろう。 220 と 284 という二つの数字を見て博士は即座に感動する。 220 の約数の和 (1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110) が 284 で 284 の約数の和 (1+2+4+71+142) が 220 友愛数、滅多にない組合せだ、と。 博士が問い掛け、家政婦は考え、博士が解答を言う。 そういう非現実的な日常会話に対面した場合、通常の家政婦なら会話を拒否するだろうが、この家政婦は違っていた。 この家政婦という仕事以外の日常で出会う数字に素数を見るける事に喜びを感じ始める。 そんなやつおらんやろ、と思いながらも読後、何気に今日は11日、お、素数だ。 今、読んでいる本のページは? 83ページ? 素数では無いか、など家政婦と類似の後遺症を引きずっている自分に気がつく。 醍醐味部分は未読の人のためにも書けないが、この本の事を江夏抜きではやはり語れない。 あの江夏が投げていた頃を知っている世代であれば、たとえ阪神ファンでなくとも広島ファンでなくとも、あの江夏の完璧なピッチングが嫌い、という人はそうそういないのではないだろうか。 博士は大の阪神ファンで且つまだ阪神にいた時代の記憶のまま江夏の大ファンなのだ。 江夏の背番号は28番。 28 という数字は完全数と呼ばれる。 完全数というのは 1+2+4+7+14 という自らの約数の和から成り立つ極めて珍しい数字の事。 江夏は入団の時には考えもしなかっただろうが、28という背番号を自ら選んだ。 作者がこの一事を発見してくれただけでも十分にこの本を読んだ値打ちがある。 12/Feb.2006
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