読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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放射線のひみつ 中川恵一 著
この8月6日にあの寒ナオトいや菅直人という人が平和記念式典に出席して、反原発・脱原発をぶち上げる演説をする、というウワサがある。 現在、8月6日の未明なのでその真偽はまだ定かではないが・・。 今回の3.11の大惨事によって多くの日本人が悲しみや苦しみの居、未だ先の見えない不安の日々を過ごす。 そんな中で唯一、今回の大震災を喜んでいるとしか思えない男が日本のリーダーの立ち位置に居る。 福島の原発事故を嬉々として喜び、反原発・脱原発を叫ぶことでなんらかの人気を回復させようという魂胆だったなのだろうか。 見え過ぎていて反原発・脱原発で一致しているはずの人たちですら、もはやほとんど支持する人間はいないだろう。 この男の目的がさっぱりわからない。 嫌われていることが喜びなのか、嫌われてからの方が寧ろ元気になっているのはもはやヤケクソなのだろか。 そして目的のわからぬパフォーマンスのみをさらに嬉々として演じ続ける。 復旧・復興を国のリーダーが進めずとも東北各地域は独自に徐々にではあるが復旧しようとしている。 その復旧・復興というものから全く除外されてしまっているのが、福島の避難勧告地域。 人の姿が全く無くなったゴーストタウンになろうとしている。 原発事故の被害にあっているのは何も避難勧告地域の人たちばかりではない。 牛を育てていた畜産農家はとうとう福島、宮城、岩手に続いて、栃木県までもが県内全てで出荷制限。 被害はそれでとどまらないのは明白だ。 牛の次はなんだ。 米も新米は売れず、古米が売れるのだとか。 放射能漏れ、放射能に汚染された牛、野菜・・連日のように流れる報道。溢れる報道。 福島の牛肉だろうが宮城の牛肉だろうが、買って食べるよ、という人が居たってどこにも売ってやしない。 参加組合内で福島産の野菜や牛肉を買うべく働きかけをしようじゃないか、と言ってみたところ、各々賛意はあれど、手段がないので最終的には誰もが口をつぐむ。 別に子どもや赤ちゃんや妊婦の人に食べてもらおうと言うのではない。 もう40も50も過ぎた人ばかりなら、別にいいじゃないか。 出荷停止をするよりも購入者に選ばせてくれないか。 もしくは免許制じゃないが、40や50を過ぎた人は免許証を見せて購入許可をくれるとか、なんとか出来ないのか。 懸命に生産したものを捨てるしかないという無力感。ものを生産した人なら誰しもわかるだろう。これをなんで救えないものなのだろうか。 この「放射線のひみつ」という本。 おそらく読んで反発を覚える人は多いだろう。 何故なら「放射線は大して怖くない」ということを説いているからで、「そんなことまだ立証されていないだろうが」という反発は当然ながら出て来るだろう。 それでも「放射能」とは「放射線を出す能力」のことである、カタチあるものではないからして、「放射能漏れ」だとか「放射能を浴びる」だとかという表現は間違っているのだそうだ。連日の報道は言葉を間違えて使っているわけだ。 「被ばく」は「被爆」では無い。とか。 まずこういう言葉の説明から始まり、次にXXシーベルトなどの単位についての説明。 そして、放射線は普段から身の回りにあるもの。という説明。 100ミリシーベルトで発がんの可能性が0.5%云々の説明。 日本人の1/3はがんで死亡するのだという。 100ミリシーベルトでがんによる死亡率が33.3%から33.8%に増える・・云々の話。 いずれもわかりやすい。 平易な言葉で書かれている。 ただ、ここで書かれていることはもう大半は知っていることだった。 早朝のローカル番組でそういうことを毎日解説する人が居る。 彼ははそういう話をしながらも自らの原発に対する立場は明確にはされない人だったが・・。 中部大学の武田教授というCO2は削減するな、で昨年あたりから急に名を知られるようになった先生が居られる。 この先生、原発推進から反対に100%舵を切られたことでも有名なのだが、先日、講演を聞く機会が有った。 講演の中で武田先生が言うのは何シーベルトがただちに健康に害がある云々よりも寧ろ、それを強制されて吸わされたことに腹を立てておられる。 この先生、禁煙運動とかは大嫌いで、自分で好きで健康に害があるとわかりつつも吸っている人はそれでいいじゃないか、という論者。 自らはお吸いにならないので自分では吸わないが、吸いたい人はどうぞ吸って下さいな。但し、自分にはタバコの煙を吹きかけないでくださいよ。 だって自分は吸いたくないんだから・・・。 放射線も同じことで自ら、好んで浴びたいのなら構わないが、浴びせられたくもないのに浴びせられる。こんな不愉快なことはない・・と。 そう。 中川先生が「放射線はさほど怖くはないんです」とこの本で説いていたとしても武田先生の言う通り、誰しも自ら好んで浴びたいわけではないわけで、強制的に浴びせられることに対しての憤りというものを解決してくれているわけではない。 それでも思う。 強制的に浴びせられてしまった農家の産物を救いたい。 それこそ好んで口にしようというのだからそれはこちらの自己責任においてである。 世の中、好き好んでタバコを一日二箱も三箱も吸う人だっている。 もちろん自己責任においてである。 どうか、強制的な出荷停止などではなく、自己責任の上で買えるようにしてはもらえまいか。 いや、あのパフォーマンス男が居座る限りは何をどうせよ、と言っても無駄か。 06/Aug.2011 のろのろ歩け 中島京子 著
急激な発展を遂げる中国という国。 主人公は10年前に訪れたことがあり、今回は初の中国の女性ファッション誌を創刊のための助っ人として北京に招へいされる。 そこで彼女が見たものは、感じたものはあまりの10年前との違い。 日本の高度成長期や日本のバブル期と重ねるが、もはや成長度合いはそんなものではないだろう。 主人公氏の印象にあるような人民服はさすがに10年前でも無かったかもしれないが、もう少し前ならあっただろう。 一昔前の中国の映像と言えば人民服と自転車の洪水。 今やどうだ。 至る所の高層ビル群。 中国という国に対して、嫌悪感や薄気味悪さを感じる人が結構いるが、これは何も尖閣の問題ばかりが原因ではないだろう。 共産党一党独裁で民主主義の国ではない、これも原因とは言い難い。 他の王政の国にそれほどまでの嫌悪感を持つだろうか。 日本の戦後から高度成長、バブルという他の国が50年かかって為し得たような大成長をたったの五分の一ほどの短期間で成し遂げてしまう、そんな急成長ぶり、急拡大ぶりなんともが不気味でならない。ということなのではないだろうか。 あまりにそのスピードが凄まじいのだ。 当然、いびつなところが残るに決っている。 今年の正月明けのニュースでは、北京は晴れの日でも薄暗いほどに空気が汚れ、人々はなるべく外出を控えるようにしている、とか。 タイトルにある「のろのろ歩け」は「慢慢走」(マンマンゾウ)という言葉から来ている。 意味するところは「Take Care!」「さよなら」の代わりに「気を付けてね!」とか「お元気で!」という言葉を使うような意味合いで使われるらしいのだが、「慢慢走」ということば、「ゆっくり行けよ」と言う言葉が挨拶に使われるというところがおもしろい。 あまりの急ピッチで進んで行く社会に対して、人々の本音は「ゆっくり行けよ」と言っているかのごとくではないのだろうか。 他に上海を舞台とした話、一話。 台湾を舞台にした話、一話。 21/Jan.2013 吉祥寺の朝比奈くん 中田永一 著
本のタイトルってやっぱり大事ですよね。 この本、 「交換日記はじめました!」 「ラクガキをめぐる冒険」 「三角形はこわさないでおく」 「うるさいおなか」 「吉祥寺の朝比奈くん」と中篇5作が収められているが、「吉祥寺の朝比奈くん」以外の4篇のどのタイトルが本のタイトルになっていてもやはりこの本を読む対象をしては考えなかっただろう。 「交換日記はじめました!」という作品。 本来、二人で始めたはずの交換日記に割り込みの書き込みが入り、そしてノートは歳月を経て、人の手から、人の手へ、その人達がまたそこへ書き込みを残して行く。 二人で始めた掲示板に参加者が増えていった、というのともまた違う。 決してインターネットの掲示板のように広く開かれているわけじゃないんだから。 ある時は日記であり、ある時は次の書き手へのお手紙。 ちょっとめずらしいタイプの物語。 「ラクガキをめぐる冒険」、「三角形はこわさないでおく」、「うるさいおなか」なども各々コメントをしてみたいところはあります。特にこの「うるさいおなか」。 これなどはなかなかに楽しい。 それでもそこらは置いておいて、本題の「吉祥寺の朝比奈くん」に移ろう。 吉祥寺の朝比奈くん、なんて悪いやつなんだ。 そんなことをおくびにも出さないような性格をしているのになぁ。 吉祥寺の朝比奈くんっていう本のタイトルからしたって、悪いやつはなかなか想像しないわな。 「僕の場合、誰かと付き合いはじめても、すぐに関係が希薄になり、そのまま連絡が途絶えてしまう。人の心とはうつろうものだからしかたのないことだ」 という言葉でなんとなく納得させられてしまっているが、 ある女の子と付き合い、好きでしょうがなかったけれども別れることにし、新しい恋人と部屋に戻って来たら、その子が居て、包丁を持って大暴れ。 アパートは追い出され、バイトもクビ。新しい恋人とも別れて、泊まるところがなくなるが、新しいアルバイト先で知り合った女の子の家に即、居候する。 心のうつろいやすい性格だから、と聞いて、ああそうなんだ、と思ってしまうが、その行動原理って世の中一般では、女ったらしって言われるんじゃないのかなぁ。 そんな行動原理そのものはどうでも良いのだが、たかだか金のためだけにかなり用意周到な準備をして一人の女性を騙そうとする。 これはひどい。 それでもなんだかんだと最終的には許されてしまうところが、もてる男の特権なのだろうか。 大半の世の男たちはその理不尽さに歯がみすることだろう。 09/Oct.2010 電車男 中野独人 著
なんで今頃?と言われてしまいそうですね。 前回UPのダ・ヴィンチ・コードでも充分時期を逸しているのにそれに輪をかけた様なこのタイミングの悪さ。 なんで今頃か、と申しますとこの本の存在を知ったのが最近だったから・・と答えるしかないです。 いやはや、びっくりしました。 新潮社から出ている本なのですが、この話、作り話だとばっかり思っていたのが、違ったのですね。 巻末にあった著作権云々の記述を見て初めて知りました。 もちろん、この「中野独人」なる人も存在しない。本そのものが完璧に掲示板のコピー&ペーストで無関係の書き込みを削除しただけで出来上がっている、と言うのですから。 と、言う事は実際にエルメスさんは存在した訳で、そのエルメスさんに告白して成功した電車男も実際に存在する、という事になりますね。 後に、映画になりテレビドラマにもなってしまうなどとは書き込んでいる当時は想像もしなかった事でしょう。 それにしてもいるもんなんですね。エルメスさんの様な女性。 またまた、そのやり取りを逐一ネットで流して相談を求める男。それに対して多くの人が親身になって答えているなんて、そんな事って有り得るんですね。 インターネットの掲示板などと言うもの、もう匿名である事をいい事に、「うざい」「詩んでしまえ」などという暴言のやり取りが日常茶飯事なのだと思っていましたが、そんな優しい世界が存在するんですね。 元々インターネットに携った頃からなんでこの世界というのはこんなにサービス精神が皆さん旺盛で、全くのボランティア、無償奉仕でここまで丁寧な事をしているんだろう。と思う事しばしば。でも実際にどこかへ自分の調べた事やら、自分の意見やらを発表する機会なんてそれ以前は無かったんですよね。情報というものは一方的に与えられるだけで、自ら発信する、なんて事は出来なかった。自費出版でもしない限りは。 普及するに伴って「私の家族はこんな一家です」みたいな情報発信でも何でもない、目的の判らないサイトが一時さかんに作られていました。 今やアフィリエイトなるものが幅を利かせて来て、どこでもかしこでも広告ばっかり。 このMMI-NAVIへ登録しに来るサイトも大半がアフィリエイトの広告ページだそうです。 1ページにベタベタと広告だけを貼り付けた様なページで、そこには自らの考えも意見もオリジナルの文章は一つも無い。 一見、何かコメントでもあるのかと思えばなんの事は無い、全部広告主が提供した借り物の文章。 そんなサイトを取捨選択しながらNAVI登録者は作業をしているんだそうです・・。 そんな中で、やはり自己発信の原点とも言えるのが掲示板でしょう。 匿名でのやりとり、というのが玉に瑕かと思った時もありましたが、実際にはサイト管理者以外は匿名でもハンドルネームでも実名でもあまりその事そのものは意味を成さないかもしれません。 さて、電車です。 電車で酔っ払いのオヤジと言えば、絡んで来るよりもゲロを吐かれた思い出しか無い。 電車で人助け人助け人助け・・・とつらつら思い出すに、どうもそういう類の場面に遭遇していない。いきなり蹴られた事ならあるが・・。 電車で人助け人助け人助け・・・人助けと言えるほどの事では無いですが唯一あるとしたらこのぐらいか。 この原作本の中では、ドラマ、映画の様な危機的場面が訪れる訳では無く、話は極めて順風満帆。強いて言えば電車男の心の中の葛藤ぐらいなものでしょうか。 映画はまだ原作に忠実。中谷美紀に似ていると言われればそのまま中谷美紀をエルメス役にまで配している。ちょっと雰囲気が違うんじゃないの?中谷美紀という女優はもっとシリアスな役柄が似合う様な気がする。 そこへ行くとテレビドラマの方は役柄からは嵌りでしょう。 テレビドラマらしく何回も危機的状況を作り、原作には無い話をいくつも入れておりました。でも原作にある言葉などはそのまま使っていて、エルメスさんという人柄を損ねてはいない。 「ちゃんと掴んでますから」 「もらい泣きしちゃいました」 かなり視聴率も高かったらしいです。 とは言っても私自信ドラマ全部を見た訳では無いのですが・・。 伊藤美咲という女優、それまで知りませんでしたが、かなり好感度はUPした事でしょう。 電車という乗り物、皆さんもご利用になって、何某かの些細なトラブル、些細な出会い、何某かの出来事を経験されておられるでしょう。 中には、人助けの様をされた方もおられるでしょう。 それらはほとんどが一期一会で二度と同じ人にも同じ場面にも二度と遭遇しない。 だから些細な出来事はその場限りのものでしょう。 もう一つだけ実体験をお話しましょうか。 一期一会で二度と同じ人にも同じ場面にも二度と遭遇しない。 些細な出来事は常にその場限りのもの。 と、過去の経験を踏まえた上で現実を見直してみた時、ふとある事に気がつきました。 テレビドラマの様な作りが入っていれば、やはりドラマはドラマだなぁ、でお終いですが。 実際の話なんだとすると、「勇気を出せ」とボードの皆から応援されていたオタクの電車男よりも寧ろ、エルメスさんの方がよほど最初から積極的だったのではないでしょうか。 電車の中で起こった些細なトラブル。その場で「ありがとうございました」でお終い。 これが普通。 名前と住所を聞き出して、エルメスのカップをお礼に送って・・とこの先の成り行きをエルメスさんの方がよほど望んでいた、という事なのでは無いでしょうか。 などと言うつまらない勘ぐりを入れるのはやめておきますね。 長くなりました。 実物の電車男さんとエルメスさんに幸あれ! END 14/Jul.2006 ロスト・トレイン 中村 弦 著
ちょっと大人の青春小説、みたいな宣伝文句で思わず手にしてしまったが、青春小説とはいかがなものなのだろう。 新潮社にしてはちょっと過大な宣伝文句じゃないだろうか。 一言で表すなら「鉄道マニアが喜ぶ架空廃線ファンタジー」といったところだろうか。 なんといっても鉄道マニアにはたまらない一冊だろう。 主人公はさほどの鉄道マニアではなく、どちらかと言えば廃線歩きマニアというような立ち位置だが、他の登場人物はなかなかに熱烈な鉄道マニアばかり。 「日本のどこかに、まぼろしの廃線があり、その始発駅から終着駅までを辿れば奇跡が起きる」 そんな話をキーワードに物語は進んで行く。 主人公氏は鉄道マニアの老人と知り合いになり、行きつけの店で酒を酌み交わす仲になるが、ある時、その老人はまぼろしの廃線を見つけたかのような言葉を残して失踪してしまう。 その老人を同じ鉄道マニアの女性と一緒に探しに行く話。 今ではすっかり見かけなくなった駅の伝言板。 その伝言板に二人だけがわかる符牒でやり取りし、飲みに行く時の合図に使う。 これは鉄道に関係無くても携帯電話や携帯メールのやり取りよりも押し付けがましくなくて、何やら情緒を感じる。 戦前の鉄道の話やら、ゲージのサイズについてのくだりやらは鉄道ファンなら大喜びしような話ではあるが、何と言っても鉄道マニアのお得意は「乗りかえ上手」なのではないだろうか。 鉄道乗りかえの妙技は松本清張の推理ものを連想ししまうが、考えてみると時刻表片手に鉄道を乗っていた時代には、この時刻の電車に乗って、ここで下車すればこの電車に乗車でき、ここへはこんな時間へ到着出来る、みたいな事は鉄道マニアでなくても一般的な大人なら普通に行っていたことだろう。 インターネットの路線検索では絶対に出てこないような上手な乗りかえ方を時刻表片手の時代には容易に出来ていたわけだ。 そういう意味では鉄道マニアという存在、ある時代のある文化を残すという意味でなかなかに貴重な存在なのかもしれない。 09/Jan.2014
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