読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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インドの鉄人 ティム・ブーケイ バイロン・ウジー 著
2006年に世界最大の鉄鋼メーカーのミタル・スチールが世界第二位のアルセロールを飲み込んだ最大の買収劇の話。 買収をしかけた側のミタル・スチールとしかけられた側のアルセロール。 ずいぶんとミタル・スチール側に肩入れしているように読めなくもない。 ラクシュミー・ミッタルという人、それは紳士的な人かもしれない。 精力的で魅力のある人かもしれない。 アジア人がしかけた最大の買収劇だけに同じアジア人として誇りに思わなければならないのかもしれない。 そんなミッタルに対する好意的な気持ちが方やにあったにしても・・・。 それでも相手の望まない買収合併を突き進むやり方というものをそんなに持ち上げてしまうのはいかがなのものなんだろう。 そんな事を言っいるからグローバル化から取り残されてしまうのだ、と言う声が聞こえてきそうだが、グローバル化とは企業買収のこととイコールなのか。 確かに相手のCEOはモンキーマネーなどという差別的な発言をした。 実際にはインド企業に買収されるというより、ミタル・スチールはヨーロッパ企業ではないか。 単に経営者がインド人であったというだけで。 アルセロール側もミッタル嫌さだけの理由なのか、買い上げ金額を引き上げるネタに使ったのか、何がなんでもミッタルへの買収を阻止しようと、プーチンの息のかかったロシア企業にまで身売りを模索したりもする。 そんなこんななだけに、ミッタルの紳士的な態度が余計に好感度をもたらすのだろう。 それにしてもこれだけ買収、買収を繰り返して、大きくなり、とうとう業界の一位と二位が合併するということで、その時点では次に位置した新日鉄の3倍強の粗鋼量に。 ちょうどそんな頃にも日本国内でも企業買収、M&Aは持て囃され、また一部では顰蹙を買い、なんていうことが繰り返されていたと思う。 日本国内での合併や買収でも相当に駆け引きや裏での仕掛け、奇策の数々もさぞかしあったのだろう。 それを世界最大の鉄鋼メーカー同士が繰り広げる。 時には、欧州のTOPの政治家を巻き込み、資産家を巻き込み、などというあたり、やはり政治家にコネがあるかどうかというのは、民間企業の買収においてもかなり重要なことなのだろうか。 無謀な目標と言われた粗鋼量2億トンを目指すラクシュミー・ミッタルは買収の末にミタル・スチールを世界TOPの鉄鋼メーカーにし、最大の買収後のアルセロール・ミタルはもはやその目標が夢ではないところまで大きくなり、さらに買収を繰り返し、その目標が目前にせまったあたりであのリーマン・ショックだ。 その後は各国の工場を閉鎖したり、リストラも余儀なくされたのだという。 2009年でもTOPの座は維持しつつも、世界の粗鋼量が落ちるなか、中国メーカーのみは伸び続け、TOP10に5社までもが入っている。 かつて日の出の勢いだった日本メーカーはかろうじて、BEST10の末席には連なっている。 「盛者必衰の理をあらわす」か。 何やら栄枯必衰を語った平家物語の祇園精舎の鐘の音が聞こえてきそうではないか。 21/Jun.2010 ブラック・スワン降臨 手嶋 龍一 著
2001年9月11日に起きたあの世界貿易センタービル・ツインタワーへの二機の飛行機の激突とビルの崩落。 あの映像の凄まじさは未だに記憶に新しい。 一機目の時は、何なのかがわからなかったが、二機目の激突を目の当たりにして、これは戦争が始まる。もしくはいや、もはや戦争は始まっている。と思った人は多かったのではないか。 真珠湾を咄嗟に思い浮かべた人も居るだろう。 リメンバーパールハーは戦争が終わった後もずっとアメリカの合言葉となった。 今度のはアメリカ本土だ。 しかも中心地も中心地。 他にハイジャックされた飛行機はあろうことかペンタゴンを直撃。 もはや真珠湾の比ではない。 ところが、真珠湾の時には攻める相手がはっきりしていたが、この戦争は相手が見えない。テロへの戦争。 それにしても「ブラック・スワン降臨」とは、もの凄いタイトルの本だ。 ブラック・スワン(この世に有り得ないもの)が降臨する。 この本では有り得ないはずのアメリカへの本土攻撃9.11事件と、有り得ないほどの日本の民主党政権の危うさ、この二つを書いている。 特に著者が言いたかったのは後者の方だろう。 あの温和な顔で温和な話し口調の手嶋をして、そんなタイトルをつけたくなるほどにあの民主党政権は有り得ない存在だった、ということだろう。 二つの時代を貫く一本の柱は「インテリジェンス」。 インテリジェンスといっても知性や知能のことではなく、情報。 しかも単なる情報ではなく、国家指導者の最終決断の拠り所となる選り抜かれた情報のことなのだと手嶋氏は書いている。 この本で書かれていることの大半はもう既知の事実ばかりである。 それでもその既知の事実を「インテリジェンス」という切り口から再度徹底的に掘り下げているのだ。 9.11が起こることへのアラームを鳴らす貴重なインテリジェンスがあったにも関わらず、それは取り上げられなかった。 そして、9.11後、アフガン、イラクへと突き進んで行く、ブッシュ当時大統領とその側近たちの持つインテリジェンス。 大量破壊兵器があり、生物兵器があることによる脅威がイラク戦の大義名分だったはずなのだが、サダムフセインを処刑した後もとうとう見つからなかった。 誤ったインテリジェンスにリードされてしまったから、と言えるかもしれないが、上の通り、アメリカは初の本土攻撃を受けたのだ。 これに対する報復攻撃をどこへも起こさずに収まるわけがない。 ましてやブッシュのブレーンはネオコンと呼ばれる強硬政策の人達で固められている。 アフガンとイラクへ突き進む、まずこれありきから始まっている。大量破壊兵器の有無などは最初から協調各国への口実に過ぎない。 いずれにしろ、あの事件があってから、飛行機に乗りにくくなったことは言うまでもない。 手荷物はおろかポケットの中身、時には肌につけているものまでをはずしてチェックを受けてからで無ければゲートはくぐれない。 まぁ、安全さには代えられないだろぅ、と言われればそれまでだが・・。 新幹線でテロがあったら新幹線に乗る時も同じことをするようになるのだろうか。 いずれにしろ、どんどん住みづらい世界へとなって来ているのは9.11のせいかもしれないが、その根源は何か。 ブッシュパパの時代の第一次湾岸戦争を境に、アメリカがそれまでの中東のミリタリーバランスを一手に握ってしまったことで、イスラムの原理主義者達からの共通の敵と看做されるようになったことが要素としては一番大きいのではないだろうか。 もっと遡れば当然、この問題の根っこはイスラエルとパレスチナに帰結するのだろうが・・。 それでも対アメリカのテロが本格化していくのは、第一次湾岸戦争後からだ。 この本はビン・ラディンの隠れ家を襲撃するところから始まっているが、ビン・ラディンが倒れたとて、根っこの部分はなんら変わらないのだから、飛行機の不便さどころか、いつでもテロに脅えつつ、という世界から変わることはもはやないだろう。 この本のもう一つの話題であるところの鳩山・菅の史上まれにみるひどさ加減は、もはや手嶋氏の言を借りるまでもなく、日本人なら誰しも「有り得ない」と嘆いていることだろう。 どうしようもないブラック・スワン二羽、とにかく一刻も早く消えて欲しいものだ。 17/Jul.2012 MW-ムウ- 手塚治虫 著
これは「読み物あれこれ」に載せるべきものなのかどうか。 本屋では平積み状態。 バンバン売れているのだろう。 手にとってみるとなんと手塚治虫原作の漫画であった。 漫画ではあるが充分に読み物に値するのではないだろうか。 何故、今頃手塚治虫だったんだろう。 没後20年。生誕80年。 今年この「ムウ」が映画化されるのだという。 ある時はエリート銀行マン、ある時は誘拐犯、ある時は神父に懺悔をする男。いや誘拐どころか強盗・殺人も平然と行ってしまう。 あまりに美形なので、女性に変装しても誰も疑わない。 そんな主人公、結城美知夫と教会の賀来(がらい)神父が二人だけで共有する過去のある秘密。 某国の軍事基地のあった沖ノ真船島という島に隠されていた「MW」という名の毒ガス兵器。それはほんの微量が漏れただけでも大量の死者を出し、いや、人間だけではなく、生けるもの悉くを死にいたらしめてしまうというまるで核兵器の様な生物兵器。 沖ノ真船島で事故によってそのガスが漏れ、島民全てが全滅してしまう。その惨劇のあった島でたまたま風上の洞窟に隠れていたために助かったのがこの二人。 事故は某国の意向を受けた日本政府によって揉み消され、全く無かったものとして扱われる。 事故以来、美知夫は凶悪な人間と化し、揉み消しを行った連中への復讐心に燃える。 この物語の中でもベトナム戦争時に米軍がある村へ散布した生物化学兵器にふれ、非人道的兵器の使用について問われた米軍のスポークスマンをして、苦しまないで死ぬのだから、寧ろ人道的兵器だと言わしめている。 化学兵器の恐ろしさは掲げればいくらでもあるだろうが、オウムのサリンをひくまでも無く、無差別殺人という行為に繋がる。 それは化学兵器に限らず、核にしても同じであろうが、戦闘員、非戦闘員を問わない無差別大量殺戮兵器。 ソ連がアフガンへ侵攻した際に至るところに地雷をばら撒いて行ったが、その地雷の近くには子供用のおもちゃが置いてあったそうだ。 子供を吹っ飛ばすのが目的だったとしか思えない。 未来ある子供達を吹っ飛ばすということは民族根絶やしでも考えていたのだろうか。 第二次大戦での東京大空襲だって同じだろう。 女・子供問わずに全員の虐殺をカーチス・ルメイは考えていたとしか思えない。 ちなみにその後広島、長崎への原爆投下を指揮したのもカーチス・ルメイである。 大戦後の日本は復帰一筋で復讐の鬼とはならなかったが、非戦闘員への無差別殺人によってもたらされるのが復讐の鬼達なのではないだろうか。 折りしも、イスラエルによるガザの人口密集地への空爆は現在も続く。 ここでも白リン爆弾という兵器が使われている。 白リン爆弾は摂氏5000度を超える熱で街で焼き尽くし、その後には猛毒ガスも発生するのだという。 非人道兵器が使用されるたびに、何十人もの結城美知夫が生まれて来るような気がしてならないのだが、どうだろう。 13/Jan.2009 ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 ディヴィッド・ハルバースタム 著
2010年11月23日の祝日の午後のニュースで 北朝鮮が韓国に砲撃をしている映像のニュースが飛び込んで来た。 軍事境界線での小競り合いでも無ければ、領海侵犯して来た船との撃ち合いでもない。 見れば、砲弾はあろうことか民家へ次々と襲いかかり、民家は燃えさかり、人々は逃げ惑う。 これはただではすまない。すわっ朝鮮戦争勃発か!と頭をよぎる。 この攻撃を受けたのがアメリカだったとしたら、アメリカは必ずや報復行動に打って出ただろう。 アメリカという国、独立以来、自国を直接攻撃されたのは2回だけ。 一度目は日本軍による真珠湾攻撃。二度目があの9.11のマンハッタンのWTCをはじめとする同時多発テロ。 どちらも相手を完膚無きまでに叩きのめした。 9.11の時など直接攻撃すべき敵国が見当たらなかったので、テロリストをかくまったとの名目でアフガニスタンを葬り去った。 本書、『ザ・コールデスト・ウインター』は、現在のこの緊迫した東アジア情勢の背景を知るにはまさにうってつけの本であった。 あの『ベスト・アンド・ブライテスト』を執筆したハルバースタムの渾身の一作である。 当時の新聞を漁り、当時の生き残りの人達への取材を行い、重たい口を開かせ、山ほどの伝記ものからの引用、もしくはその作者への直接取材を経て10年の歳月をかけて書き上げたのだという。 本書を仕上げるた一週間後にハルバースタムは交通事故で亡くなってしまうのだが、その偉業はその数年後に起こるこの事態をまるで予期していたかの如くである。 朝鮮戦争は、世界の近代史を考える上で非常に重要な戦争であったにも関わらず、アメリカ人にとっては「忘れられた戦争」と呼ばれるのだという。 太平洋戦争やベトナム戦争は本になり、映画になり、またある時は何かの象徴みたいに取り上げられたりする。 ところが朝鮮戦争のその取り上げられることの少なさと言ったらどうだろう。 それは朝鮮戦争があまりに誰も語りたがらない戦争だったことにも起因しているのだ、とハルバースタムは着眼する。 この戦争、冒頭から各国指導者の敵国に対する過小評価や、思い込み、誤算が錯綜する。 元々の一番の読み間違いは金日成。 「アメリカは絶対に介入して来ない。中国の国民党軍が共産軍に駆逐されるのでさえ、手出しをしなかったほどだから・・」 と、ソ連のスターリンへ南への侵攻の許可を求めに何度も足を運び、ようやくソ連は軍事的には関与しないという前提付きで許可を与える。 介入したアメリカの読みの甘さも相当なものである。 その最たる人物として取り上げられるのがあのダグラス・マッカーサーである。 というよりもこの上下巻のかなりの部分をマッカーサーのために割いている。 「中共軍は絶対に介入して来ない」 と断言していたにも関わらず、介入してきたこと。 仮りに介入して来たとしたら、コテンパンにしてしまうはずがコテンパンにされてしまうわけでし。 「敵を知る」という基本をまるで忘れたかのように、この最高司令官は朝鮮半島に一泊することすらせず、空調のきいた東京の第一生命ビルから指令を発していたのだから。 その当時の日本(敗戦直後の日本)というのはアメリカ兵にとってはかなり居心地のいい場所だったらしい。もっともそれは日本人にとってみればうれしい話でもなんでもないが・・・。 現地妻も持てれば、召使いも雇える。 ちょっと物資を横流しすれば、かなりのおこずかいが稼げる。 日本への駐留は危険も無ければ、軍事演習の厳しさもない、ちょっと長めの観光気分。 そんなものを味わっていた米兵達が朝鮮半島へ楽勝のつもりで乗り込んで痛い目に合う。 当初釜山のギリギリまで追いつめられるが、その後、マッカッサーの考え出した奇策、仁川上陸作戦が見事にあたり、それゆえにただでさえ本国が遠慮をしていたマッカーサーに誰も盾つけなくなってしまう。 当時の米大統領であるトルーマンなどは核を使うかどうかの判断さえ、マッカーサーに委ねる発言をしている。 仁川上陸後、南からの部隊と北朝鮮軍を挟み撃ちにすることが出来たにも関わらず、勝利のイメージに拘るマッカーサーはひたすらソウルを目指す。 ソウルに到着するや否やの勝利宣言。 なんだかバクダッドでフセイン像を引き倒す姿を大々的に報じて勝利宣言をした姿に似ていなくもない。 マッカーサーはソウルへ入ったことで満足したわけではなく、鴨緑江(中国と北朝鮮の国境)を目指せと一路北進へと兵を急がせる。 鴨緑江どころかマッカーサーは旧満州まで攻め入ろうとしていた。 中共軍(毛沢東はあくまで義勇軍だと言う。それは正規軍が介入したという事実によっての全面戦争は避けたかった)との戦い方は、かつてのロシアがナポレオンを叩いた作戦のようにどんどん敵を進軍させるだけ進軍させ、その兵站の伸びきったところを集中的に攻め、米軍の各隊を孤立させる。 攻撃をしかけるのは夜中になってから。そかも四方八方から集中攻撃で、米兵に恐怖心を植え付ける。 そして昼間になると、見事にその軍隊は消え失せてしまうのだ。 マッカーサーやその腹心達が所詮「洗濯屋」だと思っていた中共軍は、この朝鮮戦争のほんの少し前に弱小兵器でアメリカから支援された強力武器を持つ国民党との内戦を戦いぬいた、言わば弱小兵器での戦い方を熟知していた軍隊なのだった。 マッカーサーはあまりに神格化されてしまっていたので、彼を信奉する取り巻き達は彼の耳に痛い事は、耳に入らないようにする。 そしてマッカーサーが任命した彼の腹心の将軍などは、中京軍が何十万と居るにも関わらず、中共軍はいない、聞く耳さえ持たない。 もうすでにこの戦争は北と南ではなく、アメリカと中共の戦争になっていたにも関わらず。 部下の進言を無視するばかりか、部下が零下30度という極寒の中で苦戦をしている中、風呂付のトレーラーの中で自分専用のコックの作った料理を平らげ、ワイングラスを傾ける。 そんな無能な上官のためにはるばる朝鮮半島まで来て命を落とした兵達はさぞや口惜しかったことだろう。 最もひどかったのが、ついに北進をあきらめ、南へ退却する時だ。 もはや、戦いでは無かった。一方的な殺戮に近い。 生き残った兵達はその道を処刑場に例える。 だから、帰還した米兵達はこの戦争を語ろうとしなかった。 命からがら逃げて来たことを恥じているわけではない。 助けられたかもしれない同胞を見捨て無ければならなかった、その事実を語りたくなかったのだという。 アメリカ軍はその後、リッジウェイ司令官の登場でようやく立て直しを図るわけだが、なんとも悲惨な戦いをしたものだ。 それでも死者の数では圧倒的に中共軍の方が多かっただろう。 スターリン、毛沢東、金日成というこの時代の3人の共産国家の独裁者の中では断トツにスターリンの存在が大きかった。 毛沢東は何度もスターリンとの面会を申しかけてもなかなか会談してもらえない。 まるでこの秋の日本の首相が中国首脳への会談を持ちかけてもなかなか実現しなかったその姿を思い出してしまう。 毛沢東にしてみれば、何がなんでも米軍を釜山まで追いつめて、そんな弱い国から早く脱却したかったということだろうか。 そのためなら人命などどれだけ落としたって痛くも痒くもないといったところか。 いくらアメリカ軍が処刑場のような攻撃を浴びたとはいえ、死者の数では圧倒的に中共軍の方が多かっただろう。 中国も北朝鮮も公にしていないので、実際にどれだけだったのかは不明なのだが・・。 圧倒的に死者の数では上回ったとしても、やはりこの戦争は米中の関係で言えば、中共軍はアメリカ軍を、国連軍を押し戻したことによる自信を持った分、中国側に分がある。 アメリカは最終的に中途半端な形ではあるが終わることに漕ぎつけられた格好だが、結局その中途半端さゆえに次のベトナムへの道へ、つまり『ベスト・アンド・ブライテスト』が描く世界へと突入してしまう。 スターリンも毛沢東も亡き今、金日成体制だけは世襲三代目に入ろうとし、最も忠実にスターリンの恐怖政治を踏襲し続けている。 はてさて、今度の緊張の先には何が待っているのだろう。 06/Dec.2010 数式に憑かれたインドの数学者 デイヴィッド・レヴィット 著
数学という学問、中学・高校までなら論理的思考を身につけるための学問という大義名分があるが、その先の課程、専門課程として取り組む数学やその先を行く数学者と呼ばれる人達が生涯をかけて成そうとする証明。 その証明が出来たところで、世の中何が変わるわけでもない。 誰が得をするわけでもなく、昨今話題を振りまいた「STAP細胞」のように、存在すれば世の中が大きく変わるといったこともない。まぁ、たいていの場合は。 仮に素数の成り立ちを数式で表し、それが正しい事を証明できたとしても、喜ぶのは世の中のほんの一握りの数学者、もしくは数学者を目指す学生達ぐらいのものか。 インドに生まれた天才数学者、ラマヌジャン。 この本、ラマヌジャンの評伝だということだったが、ラマヌジャンのことより、ラマヌジャンをインドからイギリスへ呼び寄せたケンブリッジ大の数学の教授ハーディの周辺の記述の方がはるかに多い。 ハーディの性癖(同性愛者なのだ)とハーディの周辺、そしてハーディから見たラマヌジャン。 そんなハーディ中心のタイトルの方がフィットする。 こお本ではラマヌジャンの偉業よりも彼がイギリスへ来てからの食事の悩みや体調の悩みの方が文字の分量としてかなりウェイトが高い。 大昔、ガンジー伝を読んだ時に、ガンジーがイギリスで学ぶ時にそんな食事の悩みなどという記述があっただろうか、さっぱり記憶に無い。 まぁ、食事の悩みや体調の方をメインにするのは致し方ないのかもしれない。 彼の思い付く算式をえんえんと書かれたって、読者には何のことやらさっぱり、なのだから。 ラマヌジャンには数式が湧いて出て来る。 数式が舞い降りて来る。 彼曰く、ヒンドゥーの女神ナマギーリが彼に数式を示すのだそうだ。 彼は証明が苦手。 ハーディは彼に証明の大事さを教えようとする。 だが、もし数式が勝手に舞い降りて来るのなら、その証明などどうやって出来ようか。 ラマヌジャンが数式を導き出す課程が本当にそのようなものだったのなら、ラマヌジャンにとって数学とは冒頭に書いた論理的思考を身につけるための学問でさえ無いということになってしまう。 この本はノンフィクションではない。 とはいえ、この時代について作者はかなり念入りに調べたのであろう。 第一次大戦前や、大戦中のイギリスという国の空気、ケンブリッジの周辺の空気などがかなり濃密に伝わって来る。 27/Jun.2014
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