読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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きつねのつき 北野勇作 著
なんなんだー!いったい何が起きているんだー!と叫びたくなるような本だ。 冒頭では、まだ幼児言葉から抜け出せていない、かわいい盛りの娘が覚えたての言葉を使って話すほのぼのとした風景から始まる。 それがどんどんいびつな世界へと様変わりして行く。 母親が家の天井と一体化している?天井から突き出た乳房から子供が母乳を吸っている? どうやら主人公氏の妻は何かの事故で亡くなっていたようだ。 主人公氏は亡くなった人を再生させる能力を持っているらしいのだ。 再生した妻は天井と一体化し、そしてその子宮から産まれ出たのがその娘。 結果として 「幸せを与えられた」 と主人公氏は語っている。 妻が天井と一体化している以上、どれだけ隣家のドラ息子が騒音を出そうと、ここを離れるわけには行かない。 これは一体全体何を表しているのだ? 「今日寝たら春になる?」 と娘。 「まだまだ」 と答える主人公氏。 これは何を表しているのだ? 保育所でのお楽しみ会という学芸会のような場で、先生がナレーションを語るあたりからこの話が何を表現しようとしているのかがおぼろげながら見えてくる。 劇の中に登場する「哺乳瓶の中に閉じ込められたこの国の未来をになう特別な赤ちゃん」。 途轍もない大音響の爆発音とともに瓶から無理やり出された赤ちゃんはみるみると大きくなり、人工巨大人となる。 「まだ、死んでいません。この国を守るためにまだ生きているんです」 「いつかは起きて立派な働きをするはずです」 ナレーションは続く。 「国は土とかいろんなもので覆い隠しました」 「やがて周りの町ごと高い塀で囲い込みました」 「わが国の秘密を守るために昔話にして忘れようとしました」 そして、「だから今も生きています」 と続いて行く。 これは何を表しているのだ? この赤ちゃんこそ、ウランとかプルトニウムと呼ばれる物質、もしくは原発の炉心そのものなのではないか。 それが、あの事故で格納容器を飛び出した。 その結果の大量の放射性物質が人工巨大人か。 ということはこの物語は人も国も数年後には忘れさろうとするであろう、とした福島第一原発の周辺の未来図ということなのか。 「もちろん今も生きています」 か。 なんというアイロニーなんだろう。 そう読んでみれば、冒頭の方にいくつもの比喩が隠されていることに気が付く。 隣家のトラブルが騒ぎになるか、と心配した時も 「どうせ七十五日ほどのことだろう。この世界に起きる大抵のことがそうであるように」 と意味深な言葉で結ばれているし。 保育所へ入れる際の「お役所相手ならゴネなきゃ損だ」というのも何かの比喩か。 役所の地下にあった浄土と呼ばれる場所で勧められる「最新型追加年金」のプランは何の比喩だろう。 「主人公は国民です」 のパンフレットの文字がやけに印象的だ。 何気なく読み飛ばしてしまいそうな箇所に散りばめられていた比喩。 お天気キャスターのおまけの一言 「風向きにはご注意下さい」 という言葉もそうだろう。 防護服をまとってやってくる放送局の下請けと称する男。 いつの間にか周囲を覆うフェンス。そこに書かれた「廃線予定地帯」というプレート。 「どおんっ」という縦揺れ。 頭上のヘリコプター。 家へ帰りたいと願ったら、妻を中に入れたまま、家が目の前へ転げ落ちて来る。 これは地震のあとの津波によるものだろう。 頭蓋骨にマイクのようなものを突き立ててぐいぐいと射し込んでまでして情報を引き出そうとするレポーター。 なんというすさまじい物語なのだろう。 この本、出版社の河出書房新社の紹介では「全国学校図書館協議会選定図書」なのだという。 それがどれほどの選定基準なのかは知らないが、肉片が飛び散ったり、腐肉を蛆がミチャミチャと咀嚼していたり、そんな描写がいくつもあるにも関わらず学校で読むべしと選定するあたり、選定委員もかなり読みこんだのだろうと思う反面、被災地域の人達にとってこの本はどう映るのだろう。 天井と一体化した妻だとか、腐臭の漂うような描写だとか。 作者は現実を見て来たのかもしれない。 もしくは現実を見た人の生の声を聞き続けたか。 被災地域で、実際に海へ潜って行方不明者の捜索をした人達はまさに地獄を見たと語っていた。 現実の壮絶さを感受しまったからこそ、逆にまるで絵本のような表紙を使い、表現もやさしい子供向けの言葉を使って、時には人工巨大人の肉を食べると直らない病気が治り、死んだ人が生き返る、というようなきつねにつままれたような話を盛り込みつつも、小さな娘を登場させ、ほのぼのとした雰囲気の物語に仕上げたかったのだろう。 やがて埋められてしまう土地でも、やっぱりここに住んでいたい。 そんな死者達の叫びをやさしい物語を使って霊になり代わって語ろうとしたのかもしれない。 そう言えば、この本のタイトルは「きつねのつき」。 きつねの霊に取り憑かれた異常錯乱者は、決して被災した瞬間の被災者達ではないだろう。 あれだけ沈着冷静で秩序正しい人たちは世界中見渡してもいないに違いない。 異常錯乱者は国であるとか、レベルは違うがこの物語で言うところのレポーターにあてたものなのだろう。 26/Dec.2011 現代日本の転機 高原基彰 著
著者は執筆前に韓国、中国に2〜3年ほど滞在し、日本へ帰って来てあまりにも日本人が無力感、閉塞感を持ちすぎていることに驚く。 あまりにも被害者意識が強すぎるのではないか。 団塊世代 VS 若者世代、男性 VS 女性、正社員 VS 非正規雇用、都市 VS 地方・・・と対立の構図と目されているものはあるが、各々が被害者意識をよる他者攻撃を行っている。 日本人は結局何に怒っていて、どうしたいのか。 外から見た日本人に対する疑問と同じ疑問を著者は抱く。 日本はかつて福祉国家では無く、福祉国家である必要がないほどの福祉社会と呼ばれた。 そんなバブル崩壊前の「超安定社会」は二度と来ない、と誰しもわかっているはずである。 しかしながら対立の構図から浮かび上がるのは過去の超安定社会を求めているものに他ならない。 日本型終身雇用制度をはじめとする日本的経営は海外からしてジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる一方で、長期雇用の弊害やエコノミックアニマルと呼ばれるほどのゆとりの無さが問題視された。 自民党型分配システムも公共事業による中央から地方への分配によって地方の雇用を維持させた安定社会を支える反面、腐敗の温床と批判された。 だからゆとりを重視したゆとり教育や、個人の自由、新しい働き方を求めた結果が現在だろう。 またまたそれが蒸し返されて、ゆとり教育は全否定。 自民党型分配システムは構造改革の推進にてその姿を無くした。 個人の自由や新しい働き方もそれまでとは正反対の位置づけで、保護されるべき人たちになってしまっている。 かつて良かれ、と思われて推進したことも一部は確かに良かったが、中にはその根本が否定されてしまうというのは、結局は世の中景気次第ということなんだろう。 とはいえ、リーマンショックの少し前までの数年間は神武以来の好景気と呼ばれていた。 著者は構造改革にもクエスッションマークをつけるのだが、構造改革はもっととことんやり通すべきだったのだろう。 また好景気でも自由で新しい働き方から安定思考への流れが止まらなかったのは、やはりバブル崩壊後の就職氷河期と呼ばれる時代を先輩たちが経験したことも要因の一つだろうし、企業側も一旦味わってしまった雇用の流動性によるメリットをもっと享受していたかったことの影響もあるのかもしれない。 いずれにしろ時計の針は戻らない。 今さら、超安定を求めたところで流動化したものを固形化するなど猛暑日に溶ける氷を扇風機で冷やして氷らそうするに等しい愚である。 この本は最近出版されたばっかりだと思っていたのだが、第一刷出版は鳩山政権が発足してからしばらく後の頃だった。 当然、書いている頃は、まだあの政権ではなかったわけだ。 これを書いている頃よりもずっと今の方が無力感、閉塞感を持つ人は多いだろう。 なんせあの政党による政権がまだ続いているのだから。 とはいえ、この本の内容が陳腐化したわけではない。 日本がGDP世界第二位を中国に明け渡したときに、韓国の人はこう言っていた。 「これまでが良すぎたんでしょ。でも、まだまだ良すぎますよ。」と。 外から見たら、そんなものだろう。 1970年以降というまだ歴史になっていない時代を現代史として洗いなおし、今日に至る経緯がいかなるものだったのか。 現代というものがいかなる時代なのか、をあらためて解説してくれている。 特に若い世代に読まれて欲しい本だと思う。 22/Dec.2011 三国志(二) 宮城谷昌光 著
第二巻では、まだまだ世に言う三国志の時代に突入しない。 真の三国志とはその時代を産む背景となった後漢時代が衰退して行く様を描かねば、という宮城谷氏ならではの筆致で後漢時代の政治・宮廷が腐敗していく様が描かれる。 曹操の祖父である曹騰が仕えた八代目順帝が亡くなり、またまた皇太后による院政の時代に入る。 皇太后である梁太后は徳政を行おうとするのだが、皇太后の兄で大将軍となった梁冀という男。 史上稀に見る大悪人。 后の外戚による政治介入の弊害は多々あれど、これほどひどいものはない。 自分に都合の悪い上書を書いた人間を悉く誅殺し、悪党を客分として囲い、町人からも搾取し、とうとう皇帝をしのぐ存在になってしまう。 順帝の後、帝位は冲帝、質帝、桓帝とどこかの国の総理大臣の如く一年毎に変わって行くのだが、それもそのはず。 梁冀の機嫌を損ねた皇帝までも亡きものにしてしまうのだから。 我慢に我慢を重ねた桓帝がとうとう立ちあがり、宦官を味方につけ、梁冀を誅殺するや、梁冀同様にやりたい放題だったその息子、孫、弟、悉くが観念して自害する。 こうしてようやく外戚政治が幕を下ろしたのだが、今度は急に勢いづいたのが宦官たち。 まともな官吏と帝による親政の時代の到来を民衆は期待するが、桓帝という人、官吏を一切信用しない。 官僚を一切信用しないTOPって、これも日本のどこかで最近聞いたような話と似ているなぁ。 官吏の連中は、なんだかんだと言ったところで、梁冀の悪政、暴政を止められなかったではないか。 梁冀をSTOPさせたのは宦官達だ!と官吏からの助言には一切耳を貸さず、宦官の言うことのみを信用する。 梁冀亡きあとの桓帝の時代とその次の霊帝の時代は、宦官たちのやりたい放題の時代で、帝へ伝わる全ての情報は宦官の口を通して入るため、実質、帝は宦官たちの操り人形。 なんのことはない。 梁冀の存在が宦官に変わっただけのこと。 この二代の間に二回も「党錮の禁(とうこのきん)」と呼ばれる大粛清が行われる。 一度目は宦官による政治をこころよく思わない官吏らを一勢に捕え、終身禁固などに処すまでだったが、霊帝の代の二度目の「党錮の禁」ではその対象は官吏にとどまらず、巷で評判の高い人をことごとく捕えて、その一族もろとも誅殺してしまうもので、罪もない人が何百人と殺されて行く。 中には一切逃げない者も居れば、廻りが放っておかず、逃げ延びた者も居る。 こういう時代がえんえんと続く後漢時代。 民は宮廷に失望し続けるが、えんえんと搾取され続けられたのかどうなのか。 この時代の租税制度が如何なるものなのか、その記述が見当たらないのは少々残念である。 この宮廷政治に失望した人達を引き付けたのが「太平道」という宗教でまたたく間に信者は増え続けて行く。 それを取り締まらねば、と遅まきながら宮廷が思う訳でった時にはもはや何百万人の規模に達しており、しかも武装もされている。 ただの門信徒たちではない。 こうして第二卷の終わりでようやく「黄巾の乱」という三国時代の入り口に到達する。 実はこの第二巻目はだいぶん以前に読んではいたのだが、最近になってようやく、続きを数冊手に入れたので読み進めてみたものの、あまりの登場人物の多さでわけがわからなくなり、再度、第一巻から再読しているのだ。 宮城谷氏はいったいどれだけの歳月をこの連作に費やしているのだろう。 一巻、一巻の出版間隔がだいたい一年置きぐらいか。またまたその前の構想期間が何年間もあるのだろう。 元々はこの時代など書きたくは無かったのではないか。 特にこの第二巻の終わりの部分あたりからの三国志を書いている人はあまりにも多くの人に書かれすぎている。 これまで宮城谷氏ならではだった中国古代も春秋戦国時代もさすがにもう書き尽くしたか。 古代、周の時代、春秋戦国時代、秦の始皇帝、項羽と劉邦の攻防から漢の時代まで来てしまった以上、とうとう後漢と三国志を書かざるを得なくなったということだろうか。 それにしてもこれだけの歳月をかけておられる。 宮城谷氏はその時代の風景に自分が馴染み、とけ込んでその時代の風景が見えるようにならなければ、書き始めない人だと推察する。 おそらく、この時代の風景にはさぞかしとけ込みにくかったのだろうな。 そのあり余る雑音を振り切って、ようやく見えて来たその時代の風景。宮城谷氏ならではの三国志には何が見えてくるのだろうか。 この卷以降が大いに楽しみだ。 19/Dec.2011 獅子頭(シーズトォ) 楊逸 著
むしょうに中華料理が食べたくなってしまう本です。 楊逸さんの芥川受賞作「時が滲む朝」が天安門事件以降だとすれば、この本の出だしはそのもう少し前。 文化大革命の名残りが残っていた時代から、ということになるでしょうか。 地方の農家の次男として生まれた主人公が都会へ出て成長していく過程は極めて順風満帆。 人民軍で手柄をたてた伯父さんのコネで父親が雑技学校の調理師に就職が決まります。 兄弟で雑技学校へ入学を試みるが、兄は成長したぶん身体がかたく落第。弟の主人公は幼くて身体が柔らかかったことが幸いして、入学が出来てしまう。 雑技学校ではメキメキと頭角を表し、上海での舞台にまで立てるようになり、そこの主催者から招待された高級レストランで食した獅子頭(シーズトォ)と呼ばれる肉団子が彼の将来を左右する食材となる。 慰安公演の練習中の事故が彼の人生を変える。 雑技団の一員になることをあきらめた彼には不遇の人生が待っているかというとそうではない。 大連へ出て、中華料理の店で働く事を決意するのだ。 そこでも彼が恵まれていることに、店の娘(後の妻の雲紗)が一緒に料理学校へ行こうと勧めてくれる。 店主への説得は雲紗がしてくれる。 料理学校で調理師免許を取り、卒業するや大連で一番のホテルの調理師見習いで雇われたかと思うと、従業員の賄い作りで、メニューに無かった「獅子頭」を作って出したことが幸いして、20歳をわずかに過ぎた頃には、そのホテルの本格料理人になってしまう。 そして雲紗とも晴れて結婚し、可愛い子供にも恵まれる。 あまりにも順風満帆すぎるのです。 看板料理人となった彼は日本から来た紳士に認められ、日本へ行くことを料理長やら経営者から命令される。 さぁ、ここまではほんの入り口。 物語はここからが本編と言っていいでしょう。 愛する美人妻、産まれたばかりの愛する娘と別れて暮らすことに散々抵抗をこころみるが、中日友好のためだから、と上から散々説得されてしぶしぶ日本へと旅立ちます。 中日友好のためなどと言われて、舞い上がっていたのになんのことはない、日本の中華レストランの料理人の一員に加わっただけのこと。 しかもカビ臭い共同部屋をあてがわれて。 ここから先のこの主人公、あまりに可哀そう過ぎるのです。 彼はそれまで自分は田舎から出て来た田舎者としか呼ばれていなかったので、自分では意識していなかったのでしょう。 なかなか男前らしい。 それに雑技をやっていただけあって、ひきしまった身体もスマート。 つまり、日本の女性からもてるのです。 昼食時に必ず寄り添って中国語を習いたいといい、日本語を教えるという店の看板娘。 実は娘というには少々とうが立っているのですが・・。 そうやって寄り添うのも中日友好なのか、と納得する主人公。 ある日、紅葉を見に行こうと彼女から誘われる。 この男、それがデートの申込だと気が付かないのです。 出国した時の意識のままの彼は国が変わりつつあることを知らない。 以前の中国共産党から「不適切な男女関係」と見られないように、気を配るのですが、それでも「断る」ということを知らない。 彼女の家へ招かれるとそのまま付いて行くことが礼儀だと思っている。 彼女からキスされてほぼ襲われる格好ながら、行きつくところまで行ってしまったのが運の尽きだ。 とうとう彼女に結婚を迫られてしまう。 子供が出来たというのだ。 結婚適齢期、実際にはそんなものはないのでは、と思うのですが、そう思っている女性で且つ自身が適齢期を少し過ぎたあたりと思いこんでいる女性というもの、なんて怖いんでしょう。 同僚の上海から来た先輩料理人も文革時代の人で、「お前は政治犯として死刑になるぞ」と散々脅し、大連の妻とは離縁出来るように取り計らってくれる。 この主人公氏、かつての順風満帆はどこへやら。 それもそのはず。彼が自分で物事を決めたのは、大連の中華料理屋で働く、と決めたことだけなのだ。 その後の料理学校にしろ、一流ホテル勤めにしろ、獅子頭づくりにチャレンジしてみる、などは全て後の妻となる雲紗のアドバイスに従って来ただけ。 流されるままの彼はいつの間にか故国の愛妻とは離縁となり、自分より年上で、化粧を落とせば美しくもなくたるんだ頬の女と結婚させられ、その先には、レストランもやめてその妻(幸子)が計画した食堂の厨房で料理を作るはめになる。 一流の料理人が、町の食堂で一律700円の定食を作り、年間365日働かされて、お金は妻が握っているので事実上賃金無し。 まさに資本主義による搾取じゃないか、とぼやいてみてももはや打つ手なし。 彼は結婚前から幸子とはどうやって離婚出来るのか、結婚後も頭の中はそれしかない。 こうやって早い時期に日本へ来た人というのは時計の針が来日の時から止まってしまっているのかもしれない。 毎日毎日、厨房にいるので、世の中がどう変わったのかなんて知る由もない。 その厨房で働き続けているうちに、本国は発展し、自分よりはるかに恵まれなかったはずの兄ですら、会社を経営し、豊かになって左団扇の状態だというのに、彼だけは文革時代のまま取り残されている。 本の帯には「誰も読んだことにない成長小説」だとか、「中国人青年の波乱万丈の日々を明るく描く新しい成長小説」などと書かれていたのだが、果たしてこれが明るい成長物語なのでしょうか。 悲しい悲しい話のように思えてきます。 はてさてその先、主人公氏に待ちうけているのはどんな展開なのでしょう。 その先は手に取って読んでみることをお勧めします。 それにしても楊逸さん、どんどん作品が活き活きとして来ますね。 楊逸さん、あまりテレビとか出ない方がいいんじゃないでしょうか。 あまりにも騒々しく話されるので、書かれているものそんな騒々しいものだと誤解されてしまいますよ。 この物語の主人公が先輩中国人から教わった日本語習得の仕方に、日本の漢字をそのまま中国読みし、その後に「する」をつける、すると大抵の言葉は通じてしまう、というくだりがあります。 楊逸さんの日本語会話の当初の習得方法はこれだったのではないでしょうか。 14/Dec.2011 プリンセス・トヨトミ 万城目学 著
お好み焼き屋のオヤジだった親父がある日突然スーツを着て、「私が大阪国総理大臣 ○○です」なーんて言うのを横で聞いたら、息子はさぞや唖然とするんだろうな。 普段、酔っぱらってそんなことばかり言っているオヤジならともかく、堅物のオヤジだけになおさら。 この本を読むだいぶ前に映画の宣伝などを見てしまっていたのだが、結局映画は見逃したまま、先に本を読めて良かった。 大阪城というのは大阪冬の陣、夏の陣で焼け落ちた後、徳川は豊臣の痕跡を全てなくしてしまおうと、元の姿を消し去った後に徳川秀忠が新たに大阪城を全く別物として再建し、完成した後は徳川直轄の城とした。 大阪の町民は豊臣びいきで、そもそもの冬の陣の前の方広寺の因縁をつける行為も気に入らなければ、一旦講和した後に外堀を埋め尽くして再度、夏の陣で滅ぼしたやり方も気に入らない。 そんな大阪町民が、豊臣秀頼の遺児を預かり、こともあろうに新たに造営中の大阪城の地下に再建の場所を作ってしまう。 それからえんえんと400年。 大阪の人達はその秘密を守りぬき、豊臣の子孫を守り抜いたのだという。 なんとも痛快な話である。 明治維新の折りに大阪国は明治政府と条約を結ぶ。 それ以降、表には秘密にされているが条約の条項の元、国からの補助金という形で大阪国を維持し続けている。 そういう補助金の使い道に目を付けるのが会計検査員。 この話は会計検査院の調査官が実際の大阪国の議事堂を見て、その生い立ち、歴史を聞いた上でいかなる行動に出るのか、それが話の中心。 それにしてもこれだけ知っている地名ばかりの小説というのはなんと馴染み深いのだろう。 とても他人ごとと思えない気持ちになってくる。 作者は、万城目なんていう「20世紀少年」の登場人物みたいなペンネームjを使っているので、どんなふざけたやつなんだろうと思っていたら、なんとあの「鴨川ホルモー」を書いた人だった。 まぁ、あれはあれで充分にふざけていると言えばふざけちゃいるが。 口の軽い大阪人が400年以上もの間、一つの秘密を話さずにいることそのものが最も有り得ないっちゃ有り得ないが、辰野金吾という実在の明治の建築家、日本銀行本店だの東京駅だの・・・名だたる建築物を日本各地で作った人に、大阪国の議事堂を作らせるあたりやら、その地域の歴史が史実のままだったり、というあたりで若干ながらも信憑性を持たそうとしている。 それよりなにより面白いのは登場人物の名前。 検査するほうの会計検査院が、松平だの鳥居だのと徳川方の名字だとすれば、 方や大阪で登場する人の名字は 真田、橋場、大野、長宗我部、後藤、宇喜多、島、浅野、蜂須賀・・・。 それぞれ真田幸村、橋場は羽柴秀吉からだろう、大野治長に長宗我部盛親、後藤又兵衛、さらには一介の浪人にすぎない塙団右衛門の「塙」という姓の人まで登場する。 冬の陣、夏の陣などで散って行った侍たちの名を町人が名乗っていたわけはないのだが、その時代の本を読みふけった人間にはなにやら懐かしささえ感じてしまう本なのだった。 07/Dec.2011
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