読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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グリード 真山 仁 著
これまで安い賃貸住宅にしか住めなかった人が別に収入が増えたわけでもないのに いきなりマイホームを持てるようになる。 しかもこれまで一家5人が同居していたものを一人に一軒ずつの持ち家を持つことが出来る。 そんな夢のような話があるわけないだろ!・・・とあるわけの無い夢のような話を現実にしてしまったのが、サブプライムローンと言われる金融商品。 いずれ破たんするだろうことはこと冷静に考えればわかるものの、当事者はそんなことは露ほども考えない。 当事者が思うのは「これこそがアメリカンドリームなんだ。」 日本のバブル時代、株は先々にわたって上がり続けるもの、土地価格も先々絶対に上がり続けるものと思われていた。 わずかな土地を持っている人はそれを担保に莫大なお金を銀行が貸し付け、その金で買った土地をさらに担保にしてまたまた銀行は金を貸し付け、さらに土地を買う。 ほんの小さな土地を持っているだけで、その何百倍もの土地を手に入れることを当の本人たちは異常だと思わなかっただろうか。 日本のバブルは崩壊し、大量に貸し付けた金は不良債権化し、ほとんどの銀行が経営危機になる。証券会社では山一がつぶれ、銀行では長銀や日債銀が破たん。 生き残ったところも合併に継ぐ合併で、当時の原形をとどめているところは大手ではもはやなくなった。 この物語は、そのサブプライムローンが破たんし、リーマンブラザーズが破たんする世に言うリーマンショックの直前とその直後の期間を描いたもの。 日本のバブルが弾けた際にボロボロになった日本企業たちをアメリカのハゲタカ企業が荒らしまわったことへの意趣返しとばかりにエジソンが創業したというアメリカのシンボルの様な存在の企業を買収しようと日本のハゲタカが画策する。 エジソンの「1%のひらめきと99%の努力」の名言を「1%のひらめきのないヤツはクソだ」と理解してしまうところにこの男の自信が表れている。 そのハゲタカファンドのオーナーである日本人が主人公。その男を取材する新聞記者、潰れつつある投資銀行を守ろうとするアソシエイトの女性、この二人が物語の脇を固める。 自由と民主主義の国であるはずのアメリカでありながら「市場の守り神」と皆から思われている強欲な老投資家の思惑だけでFBIが大統領の賓客として招かれた日本人を拘束したり、この主人公を拘束しようとしたりする。 強欲な思惑が招いたウォール街どころか世界を震撼させるほどの規模の大ショック。 それまで持っていた店を手放し、安い賃貸住宅にすら住めなくなってトレーラー暮しをする人たちが大勢出た一方で、こんな事態を招いた張本人の投資銀行の社員の中に何人、家を追われるほどの人がいただろうか。 せいぜい転職するまでの間、贅沢な暮しを控える程度ではなかったか。 ここからアメリカは学んだのだろうか。 リーマン危機以降、量的金融緩和によってドルを世界中にばら撒き、好況を取り戻したら今度は緩和引き締めに入る。それによって新興国の通貨は暴落。 やっぱりその後もハタ迷惑さは変わってないか。 25/Feb.2014 夢を売る男 百田 尚樹 著
「永遠の0」では読んだ人を涙でボロボロにさせ、「海賊とよばれた男」では読んだ人に感動を与え勇気と元気を与える。 本当に同じ作家なのか?と思えてしまうほどに百田さんは守備範囲が広い。 この「夢を売る男」は出版業界の話。 出版業界と言ってもかなりいかがわしい。 ○○大賞と銘打って作品を募集し、募集して来た作品の中で箸にも棒にもかからないもの以外は、全てお客様。 編集部としては一押しだったんですけどねぇ。なんとしても出版したいところなんですけどねぇ。大賞を取っていない作品となると、販売の方がなかなかうんと言わなくて、・・・と言葉たくみに誘導し、どうしても出版したい、という気持ちまで客の気持ちを高めた上で、ジョイントプレスなる出版方法(筆者にもお金を出してもらう。実際には筆者しか出さないのだが)を提案し、自費出版なら20万や30万で済むものを100数十万〜200万のお金を引き出して行く。 かつて、新聞の取材のようにアポを取って、一通り取材した後に記事にするには実はお金がかかる、記事形式の広告だった、なんて営業手法があったが、出たがり屋の気持ちをくすぐる、誉めて誉めて誉め倒してその気にさせる、なーんてところはちょっと似ているかもしれない。 この出版社、元は印刷屋だったのが、この形式の出版をはじめて、出版不況をものともせず、急成長。ビルまで建てたのだとか。 こんな手法でなかなかビルを建てるところまではいかないだろうが、確かに目の付けどころは面白い。 それに実際に客には夢を売っている。 この会社の編集者の前職は全く畑違いだったりするのだが、営業バリバリの編集長の前職は本当のまともな出版社の編集長だった。 彼の今の出版業界に対する失望の思いが真逆の出版に走らせたのかもしれない。 とにかく売れない作家に対して、ボロクソ。 自らはミリオンセラーを連発しているだけに売れている作家が売れない作家のメシを食わせてやっているのに・・・みたいな受け取られ方をしないようにしっかりと百田某はすぐに消える作家だ、と自らに駄目だしをするのも忘れない。 ユーモアたっぷりに詐欺まがいの出版商法を書きながら、現実の出版というものへの辛辣な批判でもあり、偉い作家先生への批判でもあり、なかなかに読ませてくれる一冊。 さすがはベストセラー作家だ。 19/Feb.2014 黙示録 池上永一 著
黙示録ってタイトルがものすごいインパクト。 どんな予言の書なのか、と思ってしまう。 最後まで読んでみると、「千年」の意味がやっとわかって来る。 この物語の時代は、江戸時代に遡る。 薩摩藩の侵攻を受け、薩摩藩による実質的な支配下に入った琉球王国。 その薩摩の支配下にありながらも清国への朝貢も行う。 双方の大国の狭間で大国の機嫌を取りながらも首里城の王家を維持する。 そんな立場から一転、琉球を世界のど真ん中に置こうじゃないか、と考える男が現われる。 蔡温という政治家で国師という特殊な地位を与えられる。 世界のど真ん中、と言ったって商業の中心地でも政治の中心地でも軍事の中心地でも有り得ない。 芸の世界で世界の中心たるに相応しい文化国家であろうとする。 登場するのが了泉(りょうせん)と雲胡(くもこ)という若い天才舞踊家。 彼らは楽童子として薩摩経由で大阪へそして江戸へと登り、将軍の前で踊りを披露する。 その時の大阪の描き方、江戸の描き方が面白い。 江戸ではまるで現代の芸能記者に追われる芸能人扱い。 方や清国からは冊封使(清国の皇帝が周辺国の王に爵号を授けるための使節)を迎えてまた新たな踊りを披露する。 主人公は了泉というニンブチャー(ヤマトで言うところの士農工商からもはずれた低い卑しい身分)から舞踊ひとつで這い上がった少年。 方や舞踊のエリートとして育成された雲胡とは何かにつけて比較される。 この了泉の見る天国と地獄のような浮き沈みが物語の柱。 舞踊を見た人みんながうっとりし、また感動し、涙を流し・・・というような民族舞踊は想像できないが、テレビも映画も無かった時代の人たちにとって、は目の前で繰り広げられる美しい踊りは唯一の娯楽であり、贅沢だったのかもしれない。 この話、了泉や雲胡のような個人の話は別だが、江戸幕府への使節の派遣やら、清国からの冊封使を迎えるところなど、大まかな流れとしては実際の歴史に忠実に書かれているのだろう。 ただ、ヤマトと清国の描き方から言えば薩摩は力づくで侵攻した相手なのに対して、清国の冊封使は詩を用いてこの国師を絶賛するなど、清国の方に若干好意的に書かれている気がする。 尖閣問題以降、沖縄まで中国が射程においていると言われるこの時期に出版されているだけに若干不安な気持ちも残る本ではある。 17/Feb.2014 いにしえの光 ジョン・バンヴィル 著
初老の男がひたすら50年以上昔を回想する。 15歳の少年だった彼は親友の35歳の母親から誘惑され、欲望の赴くまま彼女と結ばれ、そしてその関係を続けていく。 しかも大都会ではない。 ほんのちょっとしたことでもすぐに噂が広まってしまうような田舎町だ。 15歳の少年は時に友人の母に拗ねてみせたり、わざと周りに気づかれそうにさせて困らせたり、それでも彼女は彼を許してしまう。 記憶はところどころが断片化されていて、はっきり思い出せない場面もある。 してはならない恋に落ちた少年時代。 その語り手は少年時代の彼ではなく、初老の男だ。 エロティックに思えるようなシーンにいやらしさがないのは初老の彼が振り返っているからかもしれない。 主人公の男は役者をなりわいとする。 役者というにはあまりに文学的な人なのだ。 こんな文学的な表現をする役者がいるだろうか 本の帯を見る限り、娘を亡くした老俳優と父親を亡くした女優の物語のように見えてしまうが、そんな話ではなかった。 現実の話は確かに進行して行くのだが、常に主人公の頭は追憶の中の彼女にある。 この本の感想は本当に表現しづらい。 これまで読んだいずれのタイプにも属さない、そんなタイプの本だった。 13/Feb.2014 黎明に起つ 伊東潤 著
なんだか、歴史の教科書の副読本を読んでいるような気持ちだ。 北条早雲の生き様を描いた本なのだが、応仁の乱の前後の描写は教科書副読本のように日野富子だの細川勝元だの山名宗全だのとかつて詰め込みで覚えたような懐かしい名前がいくつも登場する。 そういや、東京都知事選を賑わせている細川さんの家柄はこんな時代から世の中を賑わせていたのだなぁ、とあらためてあの家の家柄のすごさを思い知らされる。 この本の主人公はもちろん北条早雲なのだが、その名前では登場しない。伊勢新九郎や伊勢盛時や宗瑞と言った名前で登場する。 その若き日の早雲である伊勢新九郎は足利義視に半ば人質をとして仕えるのだが、人質とは言え主従関係。 上洛し、義視を捕縛する側に実の兄達が居るのだが、親兄弟よりも主従関係の方に重きを置き、実の兄を斬り殺してしまう。 また、「明応地震」のことも興味深い。 この地震がどれほどの大地震で大津波をもたらしたか。 その途轍もない大きさは、本来純粋な湖だった浜名湖を海とつなげてしまうほどで、現在の浜名湖も海につながったままである。 その津波の混乱に乗じて早雲(宗瑞)は敵を打ち取ってしまう。 そういう話はなかなか楽しめるのだが、名を伊勢宗瑞としたあたりからだろうか。 武士の為でも公家の為でも朝廷の為でも幕府の為でも無く、「民のために生きる、戦う」という話になって来る。 大抵の歴史上の人物に「民のため」と言う大義名分のを持ちだすことは可能だろう。 「民のため」という大義を大上段にかざした途端、せっかくの歴史ものの値打ちが下がってしまう気がする。 税負担を「五公五民」から「四公六民」にしたことなどはさすがに何かの史実として残っていたのかもしれないが、他の行いについてはどうなんだろう。 何らかの出典を文中にでも出しながら話を進めてくれれば、同じ「民のため」の行いを書くにしても、読み手からは全く違ったイメージのものになっただろうに。 それにしてもこの作者、ご自身では歴史上の人物を良く覚えているから気がつかないのかもしれないが、主人公周辺はともかく、他のちょこっとした登場人物は皆、毎回フルネームで書いて欲しいものだ。 初回登場時はフルネームでも次には姓を省いて下の名だけで書かれてしまうと、これは何氏の人だっけ、とページをめくり戻さねばならなくなる。 信長、秀吉級になればフルネームの方が煩わしいが、下の名前だけで、すぐに何氏と思い浮かぶほどには、この時代の人物を覚えちゃいない。 北条氏と言えば、大ヒット映画「永遠のゼロ」の主人公の岡田君が大河ドラマで演じている黒田官兵衛に滅ぼされるわけだが、この創業者が健在だったなら、うまく関東で所領を安堵し、生き延びたかもしれない。 なかなかに調略上手なのだ。 北条早雲という人は。 03/Feb.2014
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