読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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新しい人生 オルハン・パムク 著
オルハン・パムクという人、トルコ初のノーベル文学賞受賞者だとか。 刊行時にトルコで史上最速の売上を達成した・・。 そんな宣伝文句につられてしまったが、トルコという国柄を知らない人間にはなんともページの進まない本であった。 これだけページが進まないのは、ひょっとして訳者の問題では?、などと途中で思ったりもしてしまうほどであった。 「朝、一日が私を起こす前に目覚めて、私が一日を迎えるのです」 こんな訳文って有りなの?と思える箇所が度々だったこともある。 「○○がわが国にとってどれほど有害なことかを議論する機会を得た」 これはあることを調査する調査員からの報告書の文体なので余計に硬いのだろうが、「議論する機会を得た」ってどれだけ直訳なんだ?まるで翻訳ソフトが訳したような訳文じゃないか、と読みながら思ってしまう。 考えてみれば、登場人物のキャラ作りなども翻訳ものではかなり訳者に依存されている面があることは確かなんだろう。 第一人称にしたって日本語では「私」「ぼく」「俺」・・・と訳者次第で言葉遣いやら表現の仕方が変わることは否めない。 とは言っても、このページの進まなさは翻訳者より作者によるものなのだろう。 訳者は原文にかなり忠実に翻訳という作業をこなされた、ということなのだろう。 案外、日本の芥川賞受賞作なんかを一回英訳して、それを忠実に邦訳し直したら、文体はこんな感じになるのかもしれない。 それでもストーリーそのものは本来の著者によるものなのだから。 トルコというお国。 シリア、イラク、イランといういつも日本の新聞の紙面のどこかには顔を出す中東の国と接し、最大の都市のイスタンブールは限りなくブルガリアやギリシャに近い。 西洋と中東の狭間にあるこの国は中東の色が非常に濃い文化をかつては持ちながらも常に西洋からの息吹を受け、国としてはスポーツの世界でも、スポーツ以外でもアジアではなくヨーロッパに属しながらも、宗教は、というと国民のほとんどはイスラム教徒のお国柄。 本の中にも「西へ我々がチェスを伝えた。(中略)宰相をクイーン、象をビショップに変えた(中略)チェスを自分たちの理性の・・合理主義の勝利として我々に返してきた・・」というように、自らの文化を西洋色に変えられつつあるこの国の人々は、西洋、アメリカ発の便利で合理的なものを享受したい反面、この本に登場する西洋化反対の組織のように、自らの国の文化を守りたい気持ちとの間で常に心の中は揺れているような、そんな国民性なのではないだろうか。(と勝手な想像) 仏教伝来の頃よりずっと、異文化の吸収、新技術への取り組みや新しいものを受け入れることに関しては世界でも稀なほどに寛容で柔軟な日本という国に住んでいるが故に尚のこと、そういう心を理解するにはその文化への理解が不可欠だろう。 この震災にて、原発事故にて、夜でも明るいのが当たり前だった町が夜は暗くなり、ある一部の人は自然回帰を訴えるが、日本人の寛容性はおそらく変わらないだろう。 「ある日、一冊の本を読んで、ぼくの全人生が変わってしまった。」で始まるこの本。 この一行けでもかなり期待をしてしまうだろう。 が、実際には前段を読み切る苦痛を通り抜ければならない。前段を通り抜けれさえすればその後はなんとかページは進んで行くはずである。 いずれにしろ、トルコという国にもっと馴染みが無ければ、いくら優れた作家の本であっても難解になってしまうことはやむを得ない。 いや、トルコへ留学したというこの訳者そのものがあとがきで述べている。 難解で唐突なストーリーについてゆけず、第一章を読み終えないうちに断念してしまった、と。 訳者が自らが断念した本を翻訳している、というのもかなり珍しいことのように思えるが、それは単に知らないだけだろうか。 あとがきでは、トルコの歴史をかいつまんで紹介してくれているので、それにはかなり助けられる。 1980年代に輸入規制緩和が行われ、大量の外国製品が流入し、・・・そして1993年に経済危機が訪れ、インフレ率が150%を超える、そんな時代が背景にあるのだという。 邦訳こそ2010年であるが、20年近く前のそんな時期に発表され、トルコで大人気となったこの本、もっとトルコという国情やら、歴史やら固有名詞やらが身近になった上で読めばその人気の秘密が明らかになるのだろう。 そうでもない現状ではとりあえず、読む人に新しい人生などを与えてくれるわけではもちろんないが、もっと速読の術でも身につけねば・・なんていう向学心は与えてくれるかもしれない。 27/Apr.2011 錦繍 宮本輝 著
高校生くらいのときに読んで目からうろこが落ちたような気がした本。 久しぶりに読んでみましたが、残念ながら目からうろこは落ちませんでした。 ざっとあらすじ。 物語は手紙のやり取りだけで進んでいきます。 手紙をやり取りする男女は、10年ほど前に夫婦だった二人。 今は全く別の人生を歩んでいます。 偶然旅先のゴンドラで再会した二人は、10年前の様子とはだいぶ違っていました。 二人は決して幸せそうではなかったのです。 再開したことが過去に対する思いを呼び覚まし、最初に女が筆をとります。 高校生のときはただドラマチックな話に惹きつけられたのだと思うのですが、 今読むとぞっとしました。 生きるとか死ぬとか業とか、そういった言葉が散りばめられていて、 きっと深い思想が根底にはあると思うのですが、 物語中の表面上の出来事だけでお腹いっぱいという感じでした。 でもとにかく、過去(恋愛に絞った方が良いかもしれません。)には何も無いんだという感想を持ちました。 過去の想い出は自分ひとりの解釈の下にすくすくと成長して美しくなっていきます。 そして満たされなかった想いや疑問は、膨らんで自分勝手で頑ななものに変化してしまいます。 想い出を一人で大切にしているうちはいいですが、それを想い出の主な登場人物と共有しようと思ってしまうと、大概痛い目に合う気がします。 この物語の男女は過去を振り返り、疑問や憎しみから開放されます。 でも過去に対する思いをすっきりさせてくれたのは、過去の自分や相手ではなくて、 10年別の人生を歩んできた過去とは別の自分や相手です。 どんなに過去に引きずられても過去に生きることはできないのだと感じます。 特に女の人は次の恋をして子供まで生まれていたら、実際そんなに引きずれない生き物ではないでしょうか。 ただ生きてるだけで丸儲けの精神で、 今大切なものをがむしゃらに大切にしてやるんだいと思いました。 22/Apr.2011 ひそやかな花園 角田光代 著
なんともナーバスなテーマなのだろう。 幼い頃の夏休みのほんの一時期を、毎年親子連れで数組が集まり、キャンプをして過ごす。 彼らは親戚同士では無い。 親たちが学校の同級生同士というわけでも、クラブサークルの友達同士というわけでもない。 子供たちが大きくなる前にその毎年の集まりは無くなってしまう。 何故、無くなったのか、子供たちには知らされない。 成長していくうちに、もしくは成人してから、それが何の集まりだったのかを全員が知ることになる。 夫側の問題で子供が出来ない家庭に精子バンクによる不妊治療を施すとあるクリニックで出産した人たちとその子供たちの集まりなのだった。 さて、成長した子供にとって自分の遺伝子がどこから来たものかわからない、という事実は重たいか、どうか。 男の子はその事実そのものはすぐに割り切っている 逆にそれで納得、みたいに。 女の子は人それぞれで思いは違うようだ。 それにしても、父親たちのこの割り切れなさ加減はどうなのだろう。 昨今良く報道される若い親の子供への虐待事件は若い夫と同じく若いが、二度目の結婚なのか妻の連れ子が居るようなケースが多いが、彼らのような親になる覚悟も無しに親になってしまったのとはわけが違うだろう。 子供が欲しくて欲しくてたまらず、いろんな不妊治療の末にたどり着いたのが、この治療方法だったのだ。 この小説のクリニックでは遺伝子を選べることになっている。 スポーツが得意な人の遺伝子。 芸術に秀でた人の遺伝子。 一流大学出身者の遺伝子。 ・・・などなど。 実際には日本ではそういうドナーの学歴や職業についての個人情報が非開示であるのが原則らしいが、欧米では開示されているケースがあるやに聞く。 そりゃ、もし選べるのなた産まれて来る子供には少しでも恵まれたものを与えたいと思うのが親というものだろうから、少しでも優秀だと思えるならそちらを選ぶのは道理だろう。 だが、成長するに従って、子供の遺伝子に嫉妬してしまう父親というのはどうなんだろう。 我が子として育てている以上、芸術に秀でていたら嫉妬する前にそれをさらに伸ばしてあげようと思うだろうし、スポーツに秀でていたらそれを伸ばしてあげようと思うのではないのか。 それで、父親が耐えられないようなことになるのだとしたら、それは実は夫婦間の問題だったのではないのだろうか。 先天的に与えられるものよりも後天的に与えられるものの方がはるかに大きいようにも思えるが当事者ではないのでなんとも言えない。 知り合いで、元来もの凄い内気で根暗なヤツが学生時代にバイクの交通事故で緊急入院し大量の輸血を行ったことがあったのだいう。 彼はその後、無事退院して現在も社会生活を送っているが、輸血後性格が変わってしまったのだとか。 大勢の前で良く話し、ゲラゲラと大声で笑い、人見知りをしなくなった。 大量輸血というものはそういうことも起こしてしまうものなのだなぁ、と初めて知ったが、考えてみれば血というのもそもそもは親から受け継ぐもの。 他人から受け継いだ血液を循環させるのだからそういうことも起こるのかもしれない。 同じように大量に輸血をした老人がそれまで怒りっぽい性格だったのが、なんだかまるくなった、という話も聞いたことがある。 但しそれには後日談があって、ほんの一時期のものだったのだとか。 やはり永年培ってきた性格というものはそう簡単には変わらないのかもしれない。 いずれにしても他人の血を輸血してもらって仮に性格が変わったからと言って、それをとやかく言う人はいないだろう。 逆にドナーの立場になったらどうか。 残念ながらというべきか幸運にもというべきか、そういう場に出くわしたことがないのだが、おそらく困っている人が居るから、と頼まれれば、献血車で献血を拒まないのと同じで差し出すのが人情というものだろう。 それをアルバイトにしたり、自分の子孫をばらまきたい願望者が居るのではないか、と読ませるのは多くの献血者的な人への冒涜になりはしないだろうか。 と、書けばこの本がネガティブな本のようなイメージを与えてしまうが、実はそうではない。 「いかに生まれるか」ではなく、「いかに生きるか」なのだと。 それまでの経緯はどうであれ、生まれて来て良かった。 生きていて良かった。 少し意味は違うかもしれないが「朝はかならず やってきます」と書かれた柴田トヨさんの詩にも通じるような元気づけられる結びに救いがある。 18/Apr.2011 歌うクジラ 村上龍 著
村上龍という人、何年かに一度、途轍もないものを書いてくれる。 「コインロッカー・ベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「五分後の世界」、「半島を出よ」いずれも長編で、あまりの衝撃、あまりのエネルギーに圧倒されてしまうのだ。 他の作家の本で、どれだけ感動するものがあろうと、どれだけ傑作だ、と思えるものがあったってこういう凄まじいエネルギーを放つような作品にはそうそう出会えるものじゃない。 この「歌うクジラ」もそうした一冊だった。正確には上下巻なので二冊なのだが。 一言で言えば未来小説。 一口に未来小説と言っても大半は、いくら木星へ居住していようが、金星に移住していようが、どれだけ優秀なロボットが登場しようが、どこか現在の価値観を延長しているものが大半である。 この本の圧倒的なパワーというのは未来小説というよりジャンルを大きく飛び越え、既存の価値観や概念、全てを破壊しまくってしまうところだろうか。 110数年後の日本。 そこには今で言うところの格差というものがない。 何故なら人民は最上層階級、上層階級、中層階級、下層階級、最下層階級の間で隔離され、下の階級に要るものは上の階級の存在すら知らない。 江戸時代の士農工商の様に共存しているわけではない。隔離されているのだ。 存在を知らないので、妬むことも羨むこともない。そこには格差が無い。 なんとも逆説的に思えるが、実際にそうなのかもしれない。 仕事もしない目の前のエリートが収入を何倍も得ていれば、嫉妬心もわくのだろうが、ビル・ゲイツに格差だのと嫉妬するやつはいない。 ビル・ゲイツはメディアに登場したりするのでその存在を知られているが、存在する知らなければ、もはやその差そのものも彼らには存在しない。 そういう隔離された階級の最下層。最下層というのは性犯罪者やその子孫たちが住み、平均寿命は短く、45年で三世代が入れ替わる。 その最下層の島からから主人公は旅立って行く。 SW遺伝子と呼ばれる、老化に繋がる遺伝子を修復して老化をSTOPさせてしまう遺伝子が発見され、最上層と呼ばれる階級はその恩恵を受け、100歳を超えても尚、若々しさを保つ。 同じ遺伝子を逆用することで、犯罪者にはその逆の老化を一気に早めるという措置が取られる。 この110数年後の世界に至るまでの間に、「文化経済効率化運動」、という一見彼の国の文化大革命を想起させるようなネーミングの改革を経て、日本人は敬語という文化を捨てる。 敬語が通じない世界。 それだけでも日本人の意識はかなり異なるものになるのだろうが、まだまだそんなレベルの話ではない。 恥という概念がもはや無い。 怒りという概念が無い。 人を可哀そうだという概念が無い。 最上層のi一部の人間は理想社会を追い求め、その行きつく先はとことん自然と共存した、ジャングルに住むボノボという類人猿に近いものになって行く。 たった一世紀やそこらで類人猿になるほどの変革が起きてしまうとは考えづらいが、我々小市民にはわからなくても案外「命を守りたい」と演説したあの人なら、最後の演説で「国民がとうとう耳を貸さなくなってしまった」と言い切る人になら、自然と共存しすぎて類人猿になることも理解出来るのかもしれないな。 この理想社会も逆説的ではあるが、何事にも極端にぶれて行けば実現してしまうのかもしれない。 下層階級の中には移民の子孫たちも含まれるのだが、彼らは日本語の助詞を敢えて違えて会話する。 さすがにこの部分がえんえんと続いた箇所はかなり読みづらいものがあった。 はたまた別の場面では、高齢化社会のとことんの行く末を描いた箇所なども読み応えがある。 この本はこれからの100年先という未来から見た歴史書なのかもしれない。 この100年後はかなりいびつに強調された姿ではあるが、ここまで行かずとも似たようなことは起こり得るのかもしれない。 実際の100年後の人たちからすればもう一つの100年後。まさに「5分後の世界」なのかもしれない。 11/Apr.2011 春申君 塚本ヨ史 著
晋と楚の二大国とその狭間にある小国の数々、晋の有力者の韓氏、魏氏、趙氏がそれぞれ独立して韓、魏、趙の三国に分割となり、小国乱立の中、相変わらず強国だった楚、どんどん力をつけて来る秦。 その戦国時代も秦の始皇帝の登場で終焉するわけだが、その終焉する手前の何十年間を背景として据えている。 戦国四君の一人と言われる春申君。 戦国四君とは斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、そして楚の春申君なのだそうだが、何故この四人が戦国四君なのだろうか。 孟嘗君なら理解できるが、以外は単に「君」を号しただけではないのか。 将軍としてなら、この本にも登場する白起などの方が、はるかに名将だろうし、宰相として有能な人というなら、やはりこの4人ではないだろう。 共通点は、食客を何百、何千と集めたところなのだろうから、この「君」の定義は食客の多い人、なのだろうか。 この著者の本、時代背景というか前提無しでいきなり始まるようで、宮城谷本を読破した方ならなんとも無かろうが、そうでも無ければなかなか物語に入って行けなかったのではないだろうか。 登場する人物についても、宮城谷本か何かを読んだ人でなければなかなか、ついていけないのではないか、という気がしてならない。 宮城谷の本はほとんどが楚を脅威とみなす楚の北の国の登場人物が多いので、楚の視点から描かれたこの「春申君」は宮城谷とは別の視点を追い求めた結果なのかもしれない。 さすがに孟嘗君を悪く書いているところはないが、宮城谷が『奇貨居くべし』という長編の主人公に据えた呂不韋などは、まるで武器の商人、悪徳商人のごとき扱いなので、やはり楚から見た眼というものもたまには必要なのかもしれないが、それにしてはどの人物も描き切れていない。 この本の中に白起が趙軍を撃破してその敵兵40万人を生き埋めにした、とある。 実際に何かの史書に書かれているのだろうが出典は書いていない。 中国の古代史、いや古代史どころか現代史でも有りがちであるが、こういう何十万人云々はよく出てくる。 だが、実際に考えてみてどうだろうか。 死んだ人間、40万人を土葬にするだけだって壮大なスケールの土木工事が必要になるだろうに、ましてや相手は生きた敵兵でそれを生き埋め、って一将軍が撃破だ、突破だ、という行為だけで為せる技ではないだろう。 それこそ、魔法使いでも無い限り。 こういう話が残っている、ということは、誰かがそのように喧伝して廻ったという事実があるのみで、40万どころか、100人の生き埋めがあったかどうかさえ疑わしい。 しからば、そのように喧伝して得をしたのは誰か。 秦の横暴を唱えたい側か、秦に逆らうと恐いぞ、脅しに使う秦の側か。 はたまた秦の後の漢の時代にでも白起の凄まじさを表現する誰かが書きあげてしまったのか。 こういうあたりを素通りしてしまうところが、この本の奥行きを無くしているように思える。 いずれにしてもまた一人、中国の古代史を描く人が現れたのは喜ばしいことには違いないが、どうにもまだまだ、時代の風景が見えるところまで行っていないのが少々残念である。 05/Apr.2011
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