読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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オールドテロリスト 村上龍 著
とんでもない爺さんたちだ。 低迷する日本経済をして、戦後、焼野原から立ち直ったんだから、その気になりゃいつでも復活できますよ。などと言う連中が居るが、焼野原を体験したことの無い人間がその気になどなれるわけがないだろ。 ならばどうするか。もう一度、日本を焼野原にするしかない。 なんともダイナミックで斬新な爺さんたち。 地方再生なんていうチマチマした話じゃない。 全てリセットしようかって。 そんなことを頭の中で考えている分には、なかなか楽しいだろうが、事件は起きる。 まず、NHKの玄関で起きた爆破テロ。 全身が焼けただれるような死体が出るほどのひどいもの。 異臭のする液体を撒いて、それに火をつけた犯人はその場で焼死。 次が、自転車が通ってはいけない商店街を自転車で横切ろうとした人の首を草刈り機で切り落とすという凄惨なテロ。これも犯人はその場で自殺。 その次が歌舞伎町の映画館でのイペリットという毒ガスによるテロ。 これが最も規模も大きく、最も陰惨なもの。 でもこれはほんの序の口。 老人たちは旧満州から持ち帰った対戦車砲を浜岡原発近所にぶっ放し、日本国相手に戦争するとまで言い放つ。 この老人たちの大胆さ、豪胆さ、潔くもある姿に比べてなんと主人公のセキグチというジャーナリストのふがいないことか。次元が違いすぎて比べることそのものがおかしいと言えばおかしいが・・・。 当初の2件の事件以外は記事をスクープするどころか、書く行為すら行わない。 肝心なネタ取りの場所では震え上がり、嘔吐し、しょんべんを漏らし、その時もその後も安定剤と酒に浸って、ひたすら書くことから逃避する。 ジャーナリスト魂のかけらでもあれば、少なくとも書くだけは書くだろうに。 この話、ほんの数年後(2018年か?)の未来の話で、直近までの実際に起こった事件のことも書かれているので、10年後、20年後の読者はどこまでが事実なのか、少々混乱するのではないだろうか。 なんか読んでて龍さんそのものも年をとったのかなぁ、とも感じさせられる。 立派な戦士を前にいくらビビる主人公を描いたって、加齢だとかという言葉はこれまで使わなかっただろうし。 至るところに過去に村上龍が書いた小説のエキス満載。 学校を放棄した中学生たち独立国を作ろうとする「希望の国のエクソダス」の若者たちはダメダメ日本の例外として描かれ、この老人たちの武闘意識は「愛と幻想のファシズム」を想起させられ、日本が降伏せずに地上戦で戦っていたら、という老人たちの言葉は「五分後の世界」を想起させられる。 まさか、龍さん、これを集大成としようとして、こういう長編ものからの引退を考えているんじゃないでしょうね。 まだまだ早いですよ。龍さんにはこういう豪快なものをもっともっと書いて欲しいですから。 01/Mar.2016 歌うクジラ 村上龍 著
村上龍という人、何年かに一度、途轍もないものを書いてくれる。 「コインロッカー・ベイビーズ」、「愛と幻想のファシズム」、「五分後の世界」、「半島を出よ」いずれも長編で、あまりの衝撃、あまりのエネルギーに圧倒されてしまうのだ。 他の作家の本で、どれだけ感動するものがあろうと、どれだけ傑作だ、と思えるものがあったってこういう凄まじいエネルギーを放つような作品にはそうそう出会えるものじゃない。 この「歌うクジラ」もそうした一冊だった。正確には上下巻なので二冊なのだが。 一言で言えば未来小説。 一口に未来小説と言っても大半は、いくら木星へ居住していようが、金星に移住していようが、どれだけ優秀なロボットが登場しようが、どこか現在の価値観を延長しているものが大半である。 この本の圧倒的なパワーというのは未来小説というよりジャンルを大きく飛び越え、既存の価値観や概念、全てを破壊しまくってしまうところだろうか。 110数年後の日本。 そこには今で言うところの格差というものがない。 何故なら人民は最上層階級、上層階級、中層階級、下層階級、最下層階級の間で隔離され、下の階級に要るものは上の階級の存在すら知らない。 江戸時代の士農工商の様に共存しているわけではない。隔離されているのだ。 存在を知らないので、妬むことも羨むこともない。そこには格差が無い。 なんとも逆説的に思えるが、実際にそうなのかもしれない。 仕事もしない目の前のエリートが収入を何倍も得ていれば、嫉妬心もわくのだろうが、ビル・ゲイツに格差だのと嫉妬するやつはいない。 ビル・ゲイツはメディアに登場したりするのでその存在を知られているが、存在する知らなければ、もはやその差そのものも彼らには存在しない。 そういう隔離された階級の最下層。最下層というのは性犯罪者やその子孫たちが住み、平均寿命は短く、45年で三世代が入れ替わる。 その最下層の島からから主人公は旅立って行く。 SW遺伝子と呼ばれる、老化に繋がる遺伝子を修復して老化をSTOPさせてしまう遺伝子が発見され、最上層と呼ばれる階級はその恩恵を受け、100歳を超えても尚、若々しさを保つ。 同じ遺伝子を逆用することで、犯罪者にはその逆の老化を一気に早めるという措置が取られる。 この110数年後の世界に至るまでの間に、「文化経済効率化運動」、という一見彼の国の文化大革命を想起させるようなネーミングの改革を経て、日本人は敬語という文化を捨てる。 敬語が通じない世界。 それだけでも日本人の意識はかなり異なるものになるのだろうが、まだまだそんなレベルの話ではない。 恥という概念がもはや無い。 怒りという概念が無い。 人を可哀そうだという概念が無い。 最上層のi一部の人間は理想社会を追い求め、その行きつく先はとことん自然と共存した、ジャングルに住むボノボという類人猿に近いものになって行く。 たった一世紀やそこらで類人猿になるほどの変革が起きてしまうとは考えづらいが、我々小市民にはわからなくても案外「命を守りたい」と演説したあの人なら、最後の演説で「国民がとうとう耳を貸さなくなってしまった」と言い切る人になら、自然と共存しすぎて類人猿になることも理解出来るのかもしれないな。 この理想社会も逆説的ではあるが、何事にも極端にぶれて行けば実現してしまうのかもしれない。 下層階級の中には移民の子孫たちも含まれるのだが、彼らは日本語の助詞を敢えて違えて会話する。 さすがにこの部分がえんえんと続いた箇所はかなり読みづらいものがあった。 はたまた別の場面では、高齢化社会のとことんの行く末を描いた箇所なども読み応えがある。 この本はこれからの100年先という未来から見た歴史書なのかもしれない。 この100年後はかなりいびつに強調された姿ではあるが、ここまで行かずとも似たようなことは起こり得るのかもしれない。 実際の100年後の人たちからすればもう一つの100年後。まさに「5分後の世界」なのかもしれない。 11/Apr.2011 半島を出よ 村上龍 著
村上龍さんと言えば「愛と幻想のファシズム」が以前、このコーナーにて取り上げられているが、そこからいきなり「半島を出よ」までとんでしまうのは惜しい気がする。 あの名作「五分後の世界」までも飛ばしてしまうなんて。だが、同じ感想を書くにしても新しいものから書くのが新鮮というものだろう。 とは言え、「愛と幻想のファシズム」に関しても何らまともな感想が述べられている訳では無い。手っ取り早く言えば、「読めばわかる」という事をたらたらと述べているにすぎない。 「半島を出よ」は近未来小説である。 近未来も近未来、ほんの5〜6年後の世界なのだ。しかもかなりリアルなシロモノだ。 本編の描く未来は2011年。しかもわずか10日間あまりの出来事である。 北朝鮮の反乱軍と日本政府、マスコミ、そして社会からドロップアウトした若者達が話の主役なのではあるが、そこまでに至る経緯、時代背景の描き方、その演出には恐れ入る。 冒頭に出て来る、リョッコウと呼ばれる元公園のホームレス居住区の風景描写なぞはその典型。 「東大・京大・一橋大卒業証明書有りで三万円」と書かれた精子バンクのパンフレット。 穴を掘ってダンボールで囲っただけの便所。ダンボールの下から女の尻が見えていても誰も気にもとめない。 ヤクザがNPOとなってホームレスエリアの利権を漁る。 日本や各国の動きについても見逃せない。 2006年には団塊の世代の公務員退職金未払がはじまり、地方債と財投債が暴落。 金利が暴騰し、インフレと不況が日本を襲い、2007年にATMストップ。 政府は財政破綻し、預金封鎖に踏みったのだ。 消費税は上がり続け17.5%に。 日本はアメリカからもヨーロッパ、ロシア、中国、韓国からも孤立し、日米安保も解消寸前に。失業者の増加。増え続けるホームレス。 国民は導入された住基ネットの住民票コードで管理され、個人情報の全てはこの住民票コードにぶら下がっている。 アメリカも世界の警察である事を止め、イスラエルはパレスチナの独立を認め・・・。 近未来でありながら、直近の歴史を読んでいるかの如くである。 北朝鮮のこの作戦のヒントは、第二次世界大戦時のヒットラーの作戦だった。 亡命ユダヤ人に紛れた特殊戦部隊の一個中隊が客船でニューヨークに上陸し、マンハッタンを占拠する。 その部隊は、ナチスから逃れて来た反乱軍だと主張し、ヒットラーもそれを認める。 その反乱軍と名乗る一隊に市民は人質に取られ、アメリカはパニックに・・。 まさか、なのである。 そのまさかを北朝鮮が福岡を舞台として繰り広げる。 北朝鮮は日本にたった9人の北朝鮮のコマンドを乗り込ませ、福岡ドームを乗っ取る。 政府が全く無策のまま、後続部隊が到着し、たった500人の北朝鮮部隊は、無抵抗の国に乗り込み全く無傷のままで人口100万都市を手に入れ統治する。 駐留部隊は北朝鮮の反乱軍と名乗っているので、北朝鮮による侵攻とはならず、アメリカ、中国、韓国、国連は静観。 500人のみならず、後続の12万人の反乱軍が北朝鮮を出航しようとしている中、日本政府のやった事と言えば、九州の封鎖と北朝鮮への非難。 ほんの5〜6年後の日本を描き、金日成、金正日、北朝鮮・・と実名をあげて書いている。 内容が内容である。しかもそのリアルさとあまりの生々しさ故に、私は村上龍さんの身辺に何か起こりはしないか、と読みながら心配をしてしまった。 だが、もう出版されて広く読まれているのである。毎日出版文化賞も受賞した。 寧ろ書き上げている時の方が遥かに恐ろしい。よほどの緊張感の中で書き上げたのでは無いだろうか。 下巻の巻末に参考文献が記されているが、その膨大な量も去ることながらその分野のなんと幅広い事か。 北朝鮮関連が最も多い。北鮮関連では、脱北者の関連文献から金正日回顧録の類、北朝鮮の童話本に至るまで、北朝鮮と名の付く本は全て漁ったのではないかと思えるほどだ。 他には、国際法関連、安保関連、特殊部隊、兵器、武器、火薬、爆薬関連、住基ネット関連、預金封鎖の関連、エシュロン関連、建築設備関連、虫、爬虫類関連、医学関連書籍・・・そして膨大な映像資料。 村上龍さんの書いている事で一貫しているのは、二者択一しか選択肢が無いのにそれを曖昧なものにしてしまう者達への批判、非難、軽蔑である。 それが、プライドという四文字に表現される事もあれば、裏返しに自信喪失という形でも表現される。 政府しかりマスコミしかり、何より日本人そのものしかりなのである。 そしてその曖昧模糊に対峙するのは、以前は若い女性が主役だった様に思う。 応えの出せない男共に対して、失うものの無い若い女性の方が考え方がシンプルで、迷い無く応えを出して行く。 社会からドロップアウトした少年達がその役割を果たし始めるのは、「希望の国のエクソダス」の前後からだろうか。 この本の中のもう一つの主役達である少年達も「共生虫」あたりから登場し始める、世の中、社会、大人・・というものに溶け込めない少年達に類似したものを感じる。 未読の方の為にも、最後は書かないが、この本の中では社会から、大人から不要とされた少年達が活躍する。 この本に書かれている事は荒唐無稽と読む人も入れば、近未来小説というカテゴリの一つに納めてしまう向きもあろう。 確かに近未来の架空の話ではあるが、ここに登場する人々が陥った様な「これまでに実感の無い現実」を目の前にした時の日本政府、マスコミ、日本人の姿は現実そのものなのである。 25/Jan.2006 愛と幻想のファシズム 村上龍 著
以前にこの本を読んだのは何年前だっただろうか。 10年、いや15年前かもしれない。 どちらかと言うと村上龍が芥川賞を受賞したあたりから、だんだんと芥川賞の受賞作品というものも嫌いになりはじめ、そのあたりから芥川賞の受賞作家の書いたものから遠ざかっていたと思う。 三田誠広の「僕って何」などを読んだ時は思わず、むかついてきてしまい、読後には捨て去った覚えがある。 「限りなく透明に近いブルー」も当然の如く読んだ。 何故こんな退廃的で堕落的な作品が大騒ぎされるのか、当時流行りの若者の退廃的思考への迎合ではないのか、などと書くとよほど年寄りの様であるが、村上龍氏よりははるかに若年の私は当時そう思えてならなかったものである。 実は「限りなく透明に近いブルー」にはもっと違う意味での、例えば第三者的な視点で「私」そのものを描写するという意味においてこれまでに無い作品、という様な、画期的な側面があったらしいのだが、当時の私にはそんな事は気が付かなかった。 再読すれば、また違った見方が出来るかもしれない。 10数年前、そんな村上龍への評価を100%変えたのがこの「愛と幻想のファシズム」だった。当時読み始めた時の衝撃は未だに忘れられない。 鈴原冬二や「狩猟社」はどこまでやってくれるのか・・・ 今回、たまたま本棚にこの「愛と幻想のファシズム」を見つけ、久しぶりに読み始めた。読み始めたのはいいが、上下巻の内の下巻が見つからない。 そういえば、10数年前に読んだ時に最後の終り方に何かしっくりしないものを感じていた事を思い出し、そのまま下巻を読まない方がいいのではないか、などと考えつつ読み出してみるともうたまらない。 即座に下巻を購入して読みつづけた。 何故今回、「愛と幻想のファシズム」だったのだろう。 先日の選挙にて小泉圧勝を目の当たりにし、小泉のある種のカリスマ性が連想させたのかもしれない。 「ファシズム=悪」というのがこれまでのある意味、常識的な考えだった。 いやそういう教育を受けて来たのではないだろうか。 「農耕民族は隷属を好む」 「人から指示されて生きるほうが楽だ」 こういう考えを100%否定出来るだろうか。 あらためて歴史というものを考えた時、この永い人類の歴史の中で現代の様な民主主義、(それはエセ民主主義と呼ぶ人もいるだろうが、それは話題が逸れるのでここではふれない)と呼ばれる体制に変わってからの時代というのはほんの一握りでしかない。 日本も中国も西洋も王侯貴族や殿様という絶対権力の元でそれぞれの文明・文化が築かれて来ており、民衆は常に圧制に苦しんでいたのだろうか。 飢きんや疫病、圧制に苦しんだ時代もあれば、善政をしく王を戴いて栄えた時代もあっただろう。 現代の制度の中でも指導者が無能であればそのとばっちりは民衆へ跳ね返る。 何も全体主義やファシズムを肯定している訳でも中世の絶対君主制度が正しいなどとも言っている訳では無い。 ただ、国家がなんらかの危機に直面した時ほど、民衆は強い指導者を求め、よりカリスマ性の高い人物を指導者に求める。 だからこそ、この「愛と幻想のファシズム」内の日本においては鈴原冬二に皆惹かれて行く。 この本にはあまり余分な感想文など不要であろう。 人の感想などに興味を示すよりも読めば、それで事足りる。 いずれにしても、ファシズム=悪 という短絡的を打破し、真っ向から既存常識を打ち破った村上氏に拍手、である。 もう一点拍手を送りたいのは、 「米国という強い男にいいように蹂躙(じゅうりん)されている弱々しい女。それが、戦後から現在までの日本の姿だ」 「そんな国で日本人はプライドを持って生きていけるのか」 というプライド無き日本、プライド無き日本人への作者へからの強いメッセージである。 まさに村上兵衛では無いが、「国家無き日本」に対する強いメッセージ。 これをあのまだまだ左派勢力がマスコミの大半を牛耳っていた当時に書いている事は驚嘆に値する。 最後に下巻の最後まで再読してみて、10数年前に感じたあの「尻切れトンボ」の様な感想は今回は抱かなかった。あの当時はもっと過激な最後を期待していたのかもしれない。 もう一点。文庫本のあとがきにて著者そのものがふれているが、 冬二とゼロとフルーツは「コインロッカーズベイビー」のキクとハシとアネモネに相当すると言うが、私にはそうは読めなかった。 やはり、もう少し読み込みが必要なのかもしれない。 20/Oct.2005 村上龍映画小説集 村上龍 著
前回村上龍映画小説集について書くはずの人間が途中で放り出してしまっているので、代わりに書いてみようと思う。 映画小説集の登場人物は18歳〜22、23歳といったところだろうか。 丁度、その年ぐらい時、私は居を転々とする生活を送っていた。 10数箇所引越しをしたと思う。元来、引越しが好きでもある。 環境変化を非常に好むのである。 一度は吉野屋の店長と親しくなり、吉野家の店の近所のアパートを二人で借りた。 家賃・保証金は折半である。 そのアパート、不動産屋が紹介する時には部屋に電灯がついてなかったので、わからなかったが、いざ借りてみると、壁紙がはがれまくっており、その中を見ると壁が真っ黒けになるぐらい、うじゃうじゃと黒い虫がいた。 同居人が吉野家の店長だった事もあり、毎日三食全て吉野屋の牛丼だった。 来る日も来る日も吉野屋の牛丼を食べたが、これがまた飽きないのだ。 逆に食べない日などを作ると牛丼が恋しくてなくなってしまう。 吉野屋の牛丼にはひょっとしたら中毒症状を起こさせる何かが入っていたのかもしれない。 余談であった。 当初、その店長と二人で住み始めたのだが、友人がまず泊りに来る様になり、しばらくするとその友人の友人が泊りに来る様になり、またまたしばらくすると、友人の友人の知り合いが泊りに来る様になり、しまいには知り合いの知り合いだか、ひょっとしたら誰も知らないのかもわからない様な連中の溜まり場になってしまった。 泊りに来た当初は壁の虫を見て、一旦は気持ち悪いと言い出すのだが、皆しばらくすると忘れてしまうらしい。これも誰も退治しようとはしない。放置したまま。 そんな状態がどのぐらい続いたのだろう。 私はある日、そこを出る事にした。 特に深い理由は無い。単に飽きただけなのである。 店長に保証金の返金分は放棄する旨だけを伝えて、そこを出る事にした。出ると言ったって引越し荷物などは無い。 単車一台の荷台に積めるバッグが一つあるだけだ。 そこから何ヶ所か引っ越しを繰り返し、三畳一間の小部屋を借りた。 普通の家であれば入り口を開けると玄関がある。 その玄関だけが住まいだと考えてもらうとわかりやすい。 引っ越しを繰り返したアパートは皆共同便所で風呂などもちろん無い。 だが何故か、水道とガスだけはどの部屋にも有った。 その三畳一間にも水道とガスは有った。 水道の前に窓があり、その窓を開けるとわずか30cmばかりの隙間を隔てて隣りのアパートがある。私の部屋は丁度窓を開けるとそこは隣りのアパートの便所の窓と向かい合っていた。もう臭いのなんの。 そこの住所をどうやって見つけたのか、ある日、吉野家の店長が小型の冷蔵庫を送って来た。 元々、二人で住む時に私が持ち込んだものらしい。 三畳一間に冷蔵庫、置く場所を作ると寝る場所が無い。 私はいい考えを思いつき、冷蔵庫の扉を開けてその中に頭を突っ込んで寝る事にしたのだ。 ただでさえ蒸し暑い部屋でしかも窓を開けると異臭がする。 クーラー代わりに冷蔵庫を使ったのだ。 だが、それも長続きはしなかった。酔っ払った時やがむしゃらに眠たい時はなんでも良かったのかもしれないが、通常であれば眠れる態勢では無かった。 当時は何もかもが無茶苦茶であった。 知り合いの車のメンテナンスの用事で行った車屋で魚屋さんのトラックを改造したヘンテコなキャンピングカーが置いてあり、二日酔いの勢いで返済の目途も無いのにそのキャンピングカーをローンで購入していた。 それを見た人は「派手な霊柩車」と呼んだ。 私はその派手な霊柩車で毎晩寝る事とし、三畳一間へは一切帰らなかった。 そんな日々なのだ。 もちろん、映画小説集に登場するヤザキの様にヘロインやらドラッグをやるわけでも無い。 無茶苦茶の次元が違うだろうと言われればそれまでだが、その先には何かがあるはずだ、と思いながらも無用に消費した若き日々だった。 03/Aug.2005
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