読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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水神(すいじん) 帚木蓬生(ははきぎほうせい) 著
九州は久留米有馬藩の江南原と呼ばれる地域一帯。 筑後川と巨勢川という豊かな川水が側を流れながらも、台地であるために、川水は見事に迂回してしまう。 そのために農作物の育ちは常に悪く、お百姓さんは貧しく、常に飢えているような状態。 この本では今では滅多に使われない百姓という言葉が平気で使われている。 農家の人、農業を営む人、農民、確かにどの言葉に当て嵌めても、この時代を描く風景にはフィットしない。もし差別用語だとでもいう理由でこの言葉が消えつつあるのなら、ここではせめて彼らに敬意を込めて「お百姓さん」と記すようにしようか。 水飲み百姓という言葉があるが、この地域の人々は水汲み百姓(いや水汲みお百姓さんか?)と言っても過言ではないほどに、水の供給にかなりの労力を強いられる。 その最も極端なのが、打桶という過酷な労働。 筑後川の土手に二人の男が立ち、四間〜五間という高さから桶を川へ落とし、わずかもこぼさずに川から水を汲み上げ、田畑へと繋がる溝へ流し込む。 1間が180cm程とすれば、7m〜9mの高さから水を汲み上げていることになる。 しかもまだ皆が働き出す前から、働き終えて家へ帰る時間までその作業を続ける。 大雨でも降れば別だが、年がら年中、その作業を朝から晩まで、しかも一旦その成り手になると死ぬまで続けることとなる。 そんな途轍もない過酷な労働をしたところで、田畑に水が行き渡るどころか、ほんのおしめり程度の雨ほどの効果もない。 ただ、彼らが来る日も来る日も自分たちのために水を汲んでくれているその姿と「オイッサ エットナ。オイッサ エットナ」の響き渡る掛け声に励まされて、他のお百姓さん達は労働を続けている。 そんな過酷な状況を打破しようと動いた5人の庄屋。 この江南原に水を引くことはここに住む人たちの永年の夢である。 上流からなんとか水を引き込めないか、と水路を精緻な図面に起こした一人の庄屋。 それに意気投合した残り4人の庄屋。 内一人は美文家で、上流にての堰の構築についての藩への嘆願書をしたためる。 その嘆願書を読んだ普請奉行がとうとう5人の庄屋を城へ呼び、意見陳述をさせる。 藩は藩で財政赤字に苦しんでいることを城へ行く途中で知った彼らは、藩に資金を頼まず、自らの身代を投げ打って工事費にあてる決意を固める。 水飲み百姓は苦しんで田畑から実りをあげ、その実りの大半を庄屋が上前をはね、そこから年貢を納める、庄屋さんいうのは百姓であって百姓でない、いい御身分の様に考えられがちだ。 実際には中にはそういう例も多々あるのだろうが、おそらく大半はここに出て来る庄屋さん達のように、いかにお百姓さん達が飢えずに暮して行けるのか、を考える村長(むらおさ)的な存在ではなかっただろうか。 庄屋という稼業、お百姓さんに尊敬される存在で無ければ、お百姓さん達はその地を逃げ出して行ってしまう。 それにしても身代投げ打って、というのは凄い意気込みだ。 この五人の中でも気持ちは確かにそうだったかもしれないが、中にはまさかそこまで・・という気持ちの人も居たかもしれない。 城へ上がり、訴える内に、一人が言い出したら、皆、後へは引けないみたいな部分もあったのかもしれない。 それでも腹を据えてしまうのだ。 一旦言い出した以上は二言は無い。 武士ではないがその気概は、お役人たる武士をはるかに上回っている。 この工事の着工にあたっての決め手は、自らの命を投げ打つ覚悟、失敗すれば、すってんてんの丸裸になるばかりか、磔になっても構わない、という血判状である。 これを持って藩は工事着手を決める。 なんという意気込みなのだろう。 そして、自ら言い出したこととは言え、堰の工事現場には5本の磔台が高々とそびえ立つのだ。 一体全体何のためにそんなことまでするのだろう、と訝しむのだが、案外別の効果があったりする。 堰の工事に反対した庄屋たちが毎日それを目にするような場所にその磔台にあったのだ。まさか意図したわけでもないだろうが、反対した庄屋たちはそれを目にする度に自責の念と五庄屋に対する自責の念にかられて行くのだ。 筑後川という大きな川への堰工事という当時では途轍もない大工事であったろうに、地域三郡から参加したお百姓さんたちが皆、反対派も賛成派も競って溝工事を進めて行く。 水が来ることを如何に切望していたか、嫌々借り出された賦役とは意味が違うのだ。地元の人ばかりではない。他所からの助っ人組も五庄屋の気概を粋に受け止めたのか、全員志気が落ちない。 この本に書かかれていることは元は史実だったのだろう。 どこからどこまでが史実なのかは定かではない。 口語で語っているところや、応援してくれる老武士などは架空かもしれない。 では嘆願書の文章やらはどうなのだろう。 作者によるあとがきもないし、かなりの文献をあさって書いたのであろうに、参考文献の一覧もないので、わかりかねるが、この地域のお百姓さんの暮らしぶり、食べもの・・至る所、まさに取材でもしてきたかの様な信憑性がある。 現代が先人たちの労苦の遺産の上で成り立っている事は承知している。 その先人たちとは名を為した人たちばかりではない。 この登場人物たちは、幕末や明治維新で活躍したようなお国のために何かを為そうとしたわけではない。 自らの領内のお百姓さんやその子々孫々のためを思って自らを投げ出し、結果周辺三郡の皆を水で潤わせた。 著者はよくぞこの方々を発掘してくださったものだ。 著者の労苦にも感謝! 28/Sep.2011 なずな 堀江敏幸 著
「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」などとよく言われる。 赤ちゃんから3歳までのあの可愛らしさ。 その可愛い笑顔をみてどれだけの元気をもらえることか。 その笑顔をみただけで親はどれだけ幸せになることか。 だから、そんな幸せな期間を味あわせてもらった親は一生分の孝行をもらったようなものなのだ、ということなのだが、その3年間の中でも幸せでありながらも最も辛い時期というものもある。 産まれてから3カ月までの間というのは、まだ笑顔という表情を作ることも出来ないし、昼間も夜中も、やれおっぱいだ、やれおしっこだ、やれうんちだ、とに何度も何度も起こされ、初めての親には一番しんどい時期である。 この本の主人公、そんな最も大変な時期だけを任されたという感がある。 弟夫婦のところに産まれた赤ちゃん。 産まれた後すぐ、旅行代理店にて海外を飛び回っている弟が海外で交通事故に遭い、重傷でしばらくの間帰国出来ない。 時を同じくして弟の妻は感染性の病に罹ってしまい、こちらも入院。 こちらの入院は弟に比べればさほど遠くの場所でもないのだが、赤ちゃんに感染させるわけにはいかないので、会うこともままならない。 そうして、子育てはおろか、結婚をしたこともない四十男が赤ん坊を預かることになる。 通常の会社勤めならまず不可能なところ、彼の仕事は小さな地方新聞の記者。 タブロイド版の新聞で発行は二日に一回。ともなれば果たしてそれは新聞社と呼べるものなのか、新聞記者と呼べるものなのか、とも思ってしまうがそれはさておき、この本では記者と呼ばれている。 その記者の仕事を在宅勤務でさせてもらうことでなんとか預かってはいるが、夫婦二人でも大変な乳飲み子の時期を男手ひとつでというのはなかなか出来るものではない。 正確な生後何カ月〜何カ月までという記述があったわけではないが、生後2ヶ月と話すところとその後生後3ヶ月と話すところが有ったので、おそらく生後2ヶ月前から3ヶ月すぎの一か月以上の期間は間違いなく手元に居たのだろう。 そこまで入れ込んでしまうとあとあと手放す時が辛いだろうに、と読者が心配してしまうほどに、主人公氏はこの赤ん坊「なずな」の面倒をみ、愛おしく可愛がる。 たかだか一ヶ月強のために愛車シビックを廃車にしてチャイルドシートの取りつけ可能なアコードに買い替えたり。 自分のお気に入りのベビーカーを購入したり。 この本、育児を体験した人には懐かしさを覚えるだろうが、ただ、これだけ長編にする必要があったのだろうか、と思えなくもない。 読んでいて、少々間延びし過ぎじゃないのか、と、少々退屈に思える読者もさぞかし居たのではないだろうか。 こちらも中盤まではそんな気にさせられたが、だんだんとその退屈さにも慣れてしまったのだろうか、中盤以降は面白く読めた。 この本、育児日記であると同時に、地方紙の記者ならではで、このとある地方都市のそのまた限られた一角の地域日記でもあったりする。 赤ちゃんが居ると、その周辺は赤ちゃんを中心に廻るようになる。 赤ちゃんを連れているだけで、これまででは想像もできないほどに人の輪が拡がる。 そりゃ四十男が一人暮らしをして居たってろくすっぽ近所付き合いもないだろうが、赤ちゃんがいると、何かと話しかけられやすくなるだろう。 そんなリアリティがいくつもあるこの話。 この著者はたぶん実体験したんだろうな、と思わずにはいられない。 26/Sep.2011 夜明けの街で 東野圭吾 著
ざっとあらすじ 主人公の渡部には妻と娘がいる。結婚生活は穏やかで、不倫をして家庭を失うような男は馬鹿だと思っていた。 しかし、契約社員として入社してきた秋葉とあるきっかけで親しくなり、深い仲になっていく。 やがて渡部は、秋葉が15年前に起きた殺人事件に関係している事を知る。時効を目前に二人の関係と事件に変化が起ころうとしていた。 不倫とミステリーが混ざったらかなりハラハラドキドキものになるのではないかと思ったのですが、期待はずれでした。 それは不倫相手の秋葉や渡部の妻があまりにも非現実的な女性に思えて、物語に入り込むことができなかったからだと思います。 だからなんとなく秋葉が関わる事件にも興味が持てず、その結末にも驚きや感動を感じられずに終わってしまいました。 でも主人公渡部はすごくリアルに描かれていました。 不倫などしないと思っていた気持ちが秋葉に惹かれるにつれて変わっていく様子や、後半秋葉に対して恐れを抱き始めるところなど、共感はしたくないけれど人間ならありえることなのだろうなと思わされてしまいました。 弱くずるくなっていく様子が本当にリアルで、嫌な気分になるほどでした。 事件の真相がわかり、渡部と秋葉は別れます。 そして渡部は家庭に戻り、妻が不倫に気づいていたことを知ります。 妻が渡部のいない間に握りつぶしていたらしいクリスマスの飾りを見つけることによって。 それに対して渡部がどうしたかわからぬまま物語は終わりますが、この流れだと気づかなかった振りをして平然と暮らすのかなと思いました。 やはりこの結末にはかなり無理がある気がしてしまいます。 握りつぶすくらいならもっと前に何か言いそうなものだし、もう少し人間らしいリアクションが他にもあったほうがおもしろいのにと思いました。 渡部とストーリーに都合よく女性が描かれすぎているのが残念でした。 私としては「夜明けの街で」の番外編、友人新橋の物語のほうがおもしろいと思いました。 本編では渡部の不倫を止めながらも協力してくれる友人として登場する新橋の、かつての不倫物語。 奥さんの気持ちも不倫相手の気持ちも女として理解できて、それに疲れる新橋の気持ちも理解できました。 新橋がどうして不倫に対して助言やアリバイ作りが上手だったのかがわかって笑えます。 そんなこんなで、ミステリー要素が吹っ飛ぶくらい不倫一色の物語。 不倫なんて物語の中だけに存在していてほしいと思ったのでした。 22/Sep.2011 深海魚チルドレン 河合二湖 著
授業時間の50分さえ持たないぐらいにおしっこへ行きたくなる。 一日の授業時間の合い間の休憩時間には必ずトイレに行っているというのに、それでもなお、授業時間が持たない。 別に勉強が嫌いなわけでもなんでもないのに、ギリギリまで我慢して保健室へ行って来ます、と言ってトイレへ駆け込む。 そんな女子中学生のお話。 授業中以外の時間はそんなことにはならない。 一日中家に居る日には数回のトイレで済む。 入ったばかりの学校でそんな状態なので、休み時間に誰と口を聞くわけでもなく、自然と友達は居なくなる。 彼女の母親はおおらかな性格というのか、無頓着というのか、外交的な性格なだけに娘の悩みが理解出来ない。 彼女にすれば重大な悩みなのに、 「気のせいよ」 の一言で片づけられてはあまりにも可哀そうだ。 明らかに心因性の頻尿なので、しかるべき治療を受けるべきところだろうに。 浅い海に棲む魚は、彼女の母親のように明るく外交的で活発に動き、仲間と群れるが、深海に棲む魚は、重い水圧の中でも耐えられるが、あまり群れず、明るいところよりも暗いところで辛抱できる。 作者の河合二湖さん、現在図書館勤務と巻末の略歴にある。 図書館の司書さんって、たまに来た本を貸し出しの子に「はい、どうぞ」とスタンプを押すだけで、日がな本に囲まれて好きなだけ好きな本を読みたいだけ読んで・・・なんて素晴らしい、なんて羨ましい職業なのだろう、と勝手に想像で思っていた頃があった。 そんな職業なら仕事中に読書ところか小説まで書けてしまうのではないかと思っていた頃があった。 が、実際の図書館の司書さんを観ていてるとその素晴らしいは消え去った。 あれほどハードな仕事をしながら業務時間中に本を読むなんて有りえない。 もちろん公立か私立か、図書館の規模や運営方針によって実態は様々なのだろうが、政令指定都市の市立図書館なんてまるで物流センターの如くだ。 オンラインで入った予約を元にX区のXX図書館からの搬送業務の一員みたいに。 業後には一部の心無い人がした落書きを消したり破れてしまった箇所を修復していたり・・・本を愛する人たちならではの作業である。 最も驚いたのが、彼女ら、いや彼らか、の大半は非正規雇用の方々だったことだろうか。 漫画家志望の子なら好きなことをやってんだから低賃金でいいだろ、と同じ感覚で「本が好きなら非正規雇用社員だろうが、本に囲まれているだけで幸せなんだろ」みたいな雇用側の傲慢さを感じてしまう。 それが市立なら雇用しているのは我々市民ということになってしまうのだろうか。 合い間が長くなったが、そんな司書さんが書いた本なら応援したいな、と言う気持ちが大いにある。 この本を河合二湖さんが執筆中にまさにあの震災が起きてしまった。 本人が「あとがき」に書いている。 「多くのものを失い、傷つき、真っ暗な闇の中にしかいるようにしか思えないときも、どうか、しっかり目を開けていてください。底にいたからこそ見つけられる宝物が、必ずありますから」 と被災者と「深海」を結びつけてしまっているが、なんか違うんじゃないかなぁ。 明るいところに棲む魚はそのように生き、暗い深海が好きな魚がは暗い処、人にはそれぞれの道、生き方があって暗い深海から希望の光が見えたりするが、それは被災者にも主人公にも当てはまるのだろうか。 多くのものを失って、傷ついたかもしれないが、真っ暗な闇の中なんかにとどまっているよりも寧ろ、国が動かないなら、と自らの力で出来得る限りの復興をしようとなさっておられる被災者の方々は少なくとも深海ではないだろう。 主人公も暗い処のままいるのか、暗い処から光を見出すのかの選択肢の前に、本当に彼女は暗い処が棲みがなのかが疑問になる。 確かに人にはそれぞれの個性に合った生き方というものが有り、なんでもかんでも外交的で明るくなければならないものでも無いだろう。 勉強好きは勉強好きなりの。音楽好きは音楽好きなりの。スポーツ好きはスポーツ好きなりの。読書好きは読書好きなりの・・・。それぞれの生き方があってしかるべき。 まだ、ほんの中学一年生だ。 何がきっかけで大化けするかどうかもまだまだわからない。 それどころか、心因性のものも放置すれば、もっと大変なことになるかもしれない。 どんな生き方を選ぶのかの前にしかるべき治療をした方がいいのではないか、と思えてならない。 17/Sep.2011 はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか 篠田節子 著
近未来を扱った短編四篇。 ◎「深海のEEL」 駿河湾で突然獲れた巨大ウナギにとんでもない量のレアメタルが含まれていて、という資源問題から、最近話題の尖閣問題までが盛り込まれている小編。 日本近海の深海にはイラク一国の石油埋蔵量をはるかに超えるメタンハイドレートなどの天然資源があるのだ、とどこかで聞いた話を思い出してしまった。 それともう一つ。 ウナギの天然卵を世界で初めて、ハワイ沖だったかグアム沖だったかで採集することに成功した、というニュースを聞いたのは今年ではなかっただろうか。 何かそんな直近の話題を思い起こしながら読んでいると、なんだか半分実話じゃないのか、なんて錯覚を起こさせてくれる話。 ◎「豚と人骨」 遺産相続した土地をマンションに、とマンションを建設しはじめたら、その地下から大量の人骨が出て来て・・・。 すわ、大量殺人事件か!いやいやそんな話じゃない。 縄文時代の人骨なのだが、何故そんなところに大量に・・という謎と奇妙な時代を超える寄生虫の話なのだが、そんなことよりも家を建てようとして、その地下から遺跡が出てきてしまうとどんな目に会うのだろう、とそっちの方に興味を注がれてしまった。 元近鉄バッファローズの梨田選手、現日ハム監督がかつて家を建てようとした時に、その地下から遺跡が出て来てしまったという話を思い出してしまった。 ◎「はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか」 高性能のストーカーロボットに追いかけられる女性。 実はこのロボット、「ボノボ」という熱帯に生息し、生殖行動が人類に近いと言われるサルを姿は全く模していないが思考、行動を限りなく模したロボットだった。 村上龍の近未来小説の「歌うクジラ」の中には、人類がボノボの真似をするというシーンがあったのを思い出した。 ボノボって流行りなのか? ◎「エデン」 この小編がなんと言っても圧巻だ。 本のタイトルになっている「はぐれ猿は・・」よりもはるかにインパクトがある。 日本へ帰国したら、禅宗の雲水になってひたすら修行の道が待っている。 その日本への帰国間近のパーティで、大麻を吸ってしまった青年。 オトリ捜査でパーティ会場に居た連中が次々と警察に引っ張られて行く。 警察に捕まったとしてもアジアのどこかの国のように死刑になったりと、とんでもないことにはならないだろうが、簡単に領事館に連絡を取って釈放というわけにもいかないだろう。 そんな時に救いの手を差し伸べてくれた女性の車に乗ってしまったのが運のつき。 厳寒の雪の平原を何時間もぶっ飛ばして到着した集落で、いきなり彼女の父から彼女との結婚を迫られる。 厳寒の地で逃げ場はどこにも無い。 当たり前の如くに強要された作業。 2050年に完成させるトンネル工事だ。 酒もコーヒーも無ければ、テレビも電話も無い。 外の世界から切り離された世界。 地球の裏側で起こっていることを知って何の意味がある? 大地震があった。干ばつがあった。テロリストが事件を起こした・・・。 どんなニュースも我々に何の希望も与えてこれやしない。 彼女の父でもあり、その集落を率いる存在でもある男が言う。 そうなのだ。一昔前の、情報というものがその村落の中だけで閉じていた世界へとやって来てしまったのだ。 果たして近未来小説なのか。 最後、やはり近未来なのだ、と実感させられるが、何不自由の無いと思っていた世界が果たして幸せだったのか、という大いなる命題を突きつけてくる。 そんな小編でした。 12/Sep.2011
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