読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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横道世之介 吉田 修一 著
何のことはない、大学一年生の1年間の生活を描いたお話。 まったく何のことはない、話なのだが、不思議と心に残るお話である。 滅多に合わないがたまに昔の同級生と会ったりして、「あぁ、そんなやつ居たよなぁ」みたいな、取り立てて目立つ存在でもない代わりに、皆の中である種の存在感を残しているやつ。そんなやつって案外いたりするものだ。 世代は少し違えど、今から16〜7年前が舞台になっているだけに、いろんな出来事が懐かしく被っているせいもあるのかもしれない。 話の途中に大韓航空機爆破事件のニュースが出て来たり、ペレストロイカの話題しかり、クルーザーを乗り回すバブル時代ならではの若者が出て来たり、地上げ屋が出て来たり、ボートピープルが長崎の大村海岸に漂着したり、雑誌のタイトルや映画館で上映している映画のタイトルが妙に懐かしかったり。 大学へ入学したての1回生。これから自分が何を目指しているのか、まだまだこれからそれを見つけようという時代。 これは案外著者の回顧物語なのかもしれない。 舞台となる大学、著者の略歴の大学ではないのだろうか。 この一見懐かしいと思われる風景こそ、著者の学生時代をなぞっているのではないだろうか。 この本が出版されたの2009年の9月。 バブルはもうとうの昔に破裂し、登場人物たちは皆それぞれに歳を経て、ラジオのDJになった女性は、六本木ヒルズにあるスタジオから、「リーマン・ブラザーズ」の看板をがまだはずされていない、云々を話題にしている。 そう、リーマンショック後の時代に生きる人たちが、16〜7年前の一時期に出会った横道世之介というどこにでもいそうな若者を懐かしく思い出す。 世之介と青春時代に出会わなかった人と比べて、出会った自分達は何か得をした、という表現は少々大袈裟かもしれないが、何か安心出来る、ホッとする、今どきの言葉で言えば「癒される」なにかをこの横道世之介という若者は持っていたのかもしれない。 何人かの友人たちや先輩や恋人?が登場し、世之介はともかく、彼らはそれぞれに後の人生を生きて行く。 その中の話にはいくつか置いてけぼりになったままのような話もあるのだが、まぁそれはそれで、読者で勝手に想像しろ、ということなのだろう。 それにしても印象に残るのは与謝野祥子という同じ世代の女性。 友達との待ち合わせに運転手つきの黒塗りの高級車で現れ、話し言葉も貴族か華族というほどにお上品。 そうかと思うととんでもなく行動力があったり、世之介の帰省に先駆けて世之介の実家へ赴き、世之介の母の手伝いをして、と甲斐甲斐しく料理上手だったり、といろんな意味で常識をぶっこえた存在。 彼女のどこをどうしたら、アフリカの難民キャンプで日焼けしながらたくましくワイルドに働く女性に変貌するのだろう。 人間は、変われるものなのだ。 特に大学1年生の頃がどうたったとしたって、15年も20年もすれば、驚くほどに変貌を遂げる、ということなのだろう。 今や新聞を手に取ると最悪の就職氷河期を超える、だとか、就活をする学生をインタビューするニュースではもう100社も落っこちてとか、大学生にとっては暗い話題ばかりが目に飛び込んで来る。 なんとか彼らに勝負をするチャンスぐらいはあげる社会で有りたいものだ、とつくづく思う。 学歴一つ、履歴書一つ、面接一つで彼らの何がわかるのか。 与謝野祥子のようにどんな大化けするかもしれないのである。 ちょっと蛇足脱線気味だったか。 27/Nov.2010 ライラの冒険シリーズ フィリップ・プルマン 著
ハリーポッターやナルニア国物語など、有名なファンタジー文学はイギリスで生まれています。 現実離れした世界で魔法が使えたり空を飛べたり。いろいろなピンチはあるけれど、 最後にはハッピーエンドが待っています。 ところが、このライラの冒険シリーズ、ちょっとほかのファンタジーと違うのです。 ライラの冒険シリーズは「黄金の羅針盤 上・下」「神秘の短剣 上・下」「琥珀の望遠鏡 上・下」の6冊で完結します。 ライラというおてんばな女の子が主人公。 現実に近いような、でも何かが少し違うライラの世界。 明らかに現実と違うのは、ライラの世界ではダイモンという守護精霊を全ての人が持っていること。 守護精霊は動物で、子供のうちは姿を変化させますが大人になるとその人を最もよくあらわす動物の姿に定まります。 ライラはジョーダン学寮とよばれるところで孤児と一緒に育てられていますが、 周りの大人たちはライラが特別な子供であることを知っています。 友達とやんちゃばかりをして過ごしていたライラは、ある美しい女性が尋ねてきたことがきっかけで、学寮を飛び出し冒険へ出かけます。 物語の始まりの「黄金の羅針盤」は冒険の始まりでファンタジーらしい要素が詰まっています。魔女が出てきたりくまに乗ったり。 でも物語が進むにつれ、ライラは人の人生や命を左右することまで選択しなければならない状況へと追いやられていきます。 この物語を読んだきっかけは映画「ライラの冒険 黄金の羅針盤」をDVDで観たこと。 「ライラの冒険 黄金の羅針盤」は小説「黄金の羅針盤 上・下」を映画化したもので、続編も製作予定と聞いていたので本を読んでしまってから続きの映画も見ようと思っていたのですが、本を読み終えて、「コレを映画化できるのだろうか」と頭にはてなが浮かびました。 次回作の公開予定を調べてみるとやっぱり。 北米カトリック連盟が、無神論をといているようなこの作品を観ないようボイコットをしたようで、アメリカでの興行収入が伸びず続編の製作を断念したそうです。 この物語がちょっとほかのファンタジーと違うと言ったのは、ライラの状況から自分の思想について考えさせられること。そして物語の終わり方がハッピーエンドなのかどうかも読んだ人の考え方次第ということ 作者フィリップ・プルマンは「無神論をすすめているなんてばかげている」と話していますが、そう感じる人がいてもしょうがないかなというのが正直な感想です。 だからといって映画にしてはいけないとも、子供が読んではいけないとも思いませんが。当たり前のように何かを信じる怖さもあるし、信じる事で救われることもあるし。 生まれたときから何かをただ信じてきた子供が、ファンタジーの物語を通して、 自分が何をどう信じていくかを考えるチャンスになるかもしれません。 ただ楽しもうと思って読むと、ちょっとしんどいファンタジーかもしれませんが、大人にも子供にもオススメしたい作品です。 22/Nov.2010 スプートニクの落とし子たち 今野浩 著
1957年、ソ連の打ち上げた「スプートニク」は世界初の人工衛星として、地球周回軌道にのることに成功。 ソ連に一歩も二歩も遅れをとってしまったアメリカは科学技術の発展に力を入れ、宇宙開発での競争でなんとかソ連に追いつき追い抜こうと躍起になる。 そしてその余波は日本にも訪れ、理工系の学生を増やそうと各大学が理工系の定員を大きく増やして行く。 そんな中でこの著者の世代も理工系の枠が拡大する中、東大の工学部へ進学。 その東大工学部へ進学した同期生達のその後を描いているのだが、著者がこれを書いた目的とはいったい何だったのだろう。 プロローグで書いているような現在の理工系離れを食い止めようという試みが為されているとは到底思えない。 自らを「ベストアンドブライテスト」だと名乗って恥ずかしくないというのはいったいどんな神経の持ち主なのだろう。 サブタイトルは「理系エリートの栄光と挫折」。 いったい彼の言いたい「栄光」とは何なのか? 何を持って「挫折」と呼んでいるのか。 「後藤」という友人をして「挫折」と言いたいのだろうか。 この人から見て挫折であったとしてもご本人は最後まで学生に人気の教授だったというではないか。 人生の途中で少々横道を歩んだことが挫折という範疇に入るのだろうか。 まぁ、ハナから価値観の違う人?人達?みたいなので、挫折の概念も当然違ってしかるべきだろうか。 まぁ、それにしても同期で何人教授になったとか、何番目に教授になったとか、よくそんなくだらないたわごとをつらつらと書いているものか。 高校時代の成績一番が誰で学年十位以内に入って云々などということを何十年も引きずっている、そんな人達の存在そのものが信じられない。 教授になって何をする、ではなく教授になることそのものが目的のように見える。 政治家になって何をする、という信念も無く、政治家になることそのものが目的の人達と良く似ている。 総理大臣になって何をする、という信念も無く総理大臣になることそのものが目的だったとしか思えない誰かさんみたい。 この方、金融工学をご専門にされて来られた方なら、サブプライムローンの破たんに警笛を鳴らすなりのことはかつてお考えにならなかったのだろうか。 ならなかったのだろうな。なんと言っても「ベストアンドブライテスト」の方々なのだから。 この本、おそらく多くの読者に読んでもらうことが目的で書かれたのではなく、同級生に読んでもらう事を第一義において書かれた本なのだろう。 最後まで読んだが、残念ながら本書から学ぶべき点を何ら見つける事は出来なかった。 それにしても「スプートニクの落とし子たち」だなんて大仰なタイトルをつけたものだ。 小惑星イトカワの観測結果を持ち帰った探査機はやぶさを飛ばせた科学者達の話だとか、そういう類の夢のある話かとばかり思ってしまった。 せいぜい、「東大工学部何○期生の皆さまへ」ぐらいのタイトルにすればよろしかったのに。 タイトルに騙されてしまった。 18/Nov.2010 光媒の花 道尾 秀介 著
なんとも多才な方だ。ミステリものやホラーっぽいものから、純文学っぽいものまで、と守備範囲が広い。 この本、「隠れ鬼」「虫送り」「冬の蝶」「春の蝶」「風媒花」「遠い光」と六篇の短篇からなる本だが、それぞれの中でちょこっと顔を出した人が次の篇の主人公になる。 リレー式の短篇とでもいうのだろうか。 「隠れ鬼」 印章店を営む主人が中学生の頃を振り返る。 30年に一度花を咲かせるという笹の花。 笹の花が咲いた後、笹はどうなると思う? そう聞いて来たのはその当時の彼のあこがれの女性で来年には30歳になる。 笹の花が咲いた後、笹は枯れてしまうのだった。 あこがれの彼女は30歳になり・・・。 そしてそれから30年の歳月が流れ・・・主人公は事の真相を・・。 「虫送り」 幼い兄弟が虫取りに、そこで出会ったホームレスの男が教えてくれる田舎での「虫送り」という行事。そしてその幼い兄弟にふりかかった災難。 そのホームレスの知り合いだというホームレスが主人公となるのが、「冬の蝶」。 彼が中学生の頃、好きになった貧乏で汚いと同級生から蔑まれる女の子。 そのあまりにも悲しい思い出。 ここではキタテハという立羽蝶の一種が登場。 「春の蝶」 とある出来事から耳が聞こえなくなった少女とその祖父。 どうしようもなくわがままに育ててしまったとその祖父が嘆くのは自分の娘で少女の母。 ここでのキーワードはシロツメグサか。 「風媒花」 茎の断面が正三角形になっているというカヤツリグサ。 そのカヤツリグサに爪を差し込んで左右に引くと茎は真っ直ぐに裂けて、きれいな四角形の枠が出来るのだという。 花は咲くが地味な花なので誰の目にも留まらない。 風で花粉を運ぶ「風媒花」は綺麗な外見をしている必要がないのだという。 姉ののどに出来たポリープ。 入院は長引き、姉は日々衰えて行くように見える。 そんな姉を「風媒花」に例える弟。 「遠い光」 その姉が女性教師として、小学生の指導にあたる。 苗字が変わる小学生の女の子が問題を起こす。 最初の方の短篇とは全く違って、これなどはかなり希望の光の見える話である。 この話には冒頭の「隠れ鬼」に出て来る認知症の母と二人暮らしの印章店の主人が出て来る。 こうしてこのリレー六篇を読んで行くとミステリっぽい話もあれば、救いのない話、ほのぼのとした話、と話の作りはまちまちである。 それぞれに一本柱があるとしたら、それぞれの物語の中で何かを示唆するかの如く登場する植物や昆虫だろうか。 では「遠い光」は?となってしまうが、ちゃんと登場している。 夕焼け小焼けの「赤とんぼ」だ。 負われて見たのはいつの日か。 十五でねえやは嫁に行き。 ねえやが嫁に行ったのはねえやが十五の時なのか、それとも負われていた子が十五だったのか。 自分に弟が出来たなら十五はあと5年しかないが、弟が十五ならあと15年以上あるんだ。 これでやっと繋がった。 11/Nov.2010 ルポ最底辺−不安定就労と野宿 生田武志 著
ドキュメンタリーです。 この著者は取材者なのではない。 実際に20年間、大阪釜ヶ崎に通いつめたのも凄いことだが、そこで単に取材作業を行うのではなく、自らが手配師に口を聞いてもらい、自らが日雇い労働者としての現場作業を体験して来ているのだ。 並の人間にはなかなか出来る事ではない。 著者は大学2年生の時に初めて釜ヶ崎へ行くのだが、冒頭に初めて釜ヶ崎近辺へ行った時の驚きの様子が記されている。 大阪在住の我々でさえ、しょっちゅう天王寺界隈をうろうろしていたにも関わらず、JR新今宮駅の階段を下りて行った時のすえた様なにおいにまず驚き、そこから動物園前駅までのわずかな距離を昼間の時間に歩く間だけだって、素手の手で熱いだろうにお粥さんをすすっている男性に出くわしたり。 「兄ちゃん、タバコ頂戴や」というオジさんに出くわしたり、と驚くこと多々であったし、昼間でそうなのだから、暗くなってから歩こうものなら、何やらずた袋があると思ってひょいと跨ぐとそれは人だったり、人を踏んづけないように気を付けて歩かなければならないところだった。 高校の頃、西成の萩ノ茶屋というところから通っている友人が居り、そいつななどは自らの出身地域を笑いのネタにかえてたっけ。 三角公園の近所ではなぁ、車に乗ってる連中は誰ひとり、信号でも止まれへんねんど! 信号で止まったら最後、あっと言う間に囲まれて進まれへんようになるからな。 とか。 俺の家の近所では雀は一羽も居らん。 雀どころかきらわもんのカラスも居らん、フンが公害やと不人気の鳩も居らん。 のら犬、のら猫、一匹も居らん。 わかるか? 連中もここへ来たら食われてまうのんがわかってるから近づけへんねん。 と彼独特の地元自虐ネタを披露していたのを思い出す。 そういう彼も別に野宿生活を送っているわけでもドヤに住んでいるわけでもなく、満足な暮らしをしていたわけなので、この著者に言わせれば、彼もまた釜ヶ崎への偏見を持った人間ということになってしまうのかもしれない。 生田というこの著者の体験談から言えば、釜ヶ崎を怖いと思うどころかその周辺に野宿をする人々はあまりにも優しく、あまりにも正直で不器用なくらいに正直な人達だったという。 正直者が馬鹿を見るならぬ「正直者は野宿をする」のが現実だった、と語っている。 また日雇いの仕事でも一旦仕事をし始めると、彼らはプロ中のプロだったということも著者の驚きの一つだった。 まさに彼らは不当な扱いを受けていた。 少年達からは襲撃される。 警察はそんなところに寝ているからだ、と取り合わない。 地域住民はどこへ行っても彼らを嫌い、蔑む。 著者は現場仕事もしながら、野宿者への支援活動を行い、やがては支援活動が主になって行く。 「大変でしょう。生活保護を受けたら」とホームレスの人に勧める場面で、「なんとか廃品回収でメシが食えるから」とそれを拒む人に何度も出会う。 原宏一という人が書いた「ヤッさん」という小説にはホームレスでありながら、食材の情報提供者として生きる男の矜持が描かれていたが、もちろん小説と同一視するわけではないが、ホームレスでと言ったって、定住する家を持たないという以外は何が人と違うのか。 今のご時世、国やら行政に助けてもらえるなら、いくらでも助けてもらおうという人がいくらでもいるさなか、人様の世話になりたくないという矜持を持っているその人達はまさに冒頭で著者が述べた如くに不器用なくらいに真面目な人たちなのだろうと思う。 なんとか廃品回収でメシが食えると言ったって、一日10時間働きづめに働いても1000円になるかどうか。 それでもメシが食えるからいい、というのだ。 なんだかなぁ。 ひたすら、貧しくとも自ら働いた金でメシを食う人は極貧の生活で、片や子供が居て生活保護を受ける人は住宅扶助なんかも入れれば10万〜20万の収入を得、さらに現政権の作った子供手当・・か。 先日も中国から40数名が入国直後に生活保護申請で問題になったっけ。 いやそれはちょっと論点が違うか。 支援者の人はくりかえし繰り返し、生活保護を受ける様に説得してまわっている。 彼らの仕事は崇高なものなのだろう。 でもそれだけではどうしたって抜本的解決には繋がらない。 上述した、地域住民の偏見、行政担当者の偏見、少年達のゲーム感覚の襲撃の根絶などは言うまでもないだろうし、いわゆる貧困ビジネスと言われる、ホームレスの人達をを食い物にするビジネスの根絶ももちろんだろう。 だが、それでも解決とは言えない。 著者自身、バブル期直線からバブル後の今日まで釜ヶ崎を見て来て思うはずである。 単に生活保護を受給してもらうことだけが解決の道ではないと。 昨年(2009年)末の全国の生活保護受給者が130万世帯を超え、その中でも断トツなのが大阪市。 このまま受給者を増やすことがまさか解決策であるはずがない。 バブル前でさえ、野宿をしながら日雇い労働をする人の中には半年もたたずに50〜60万を貯めては、一ヶ月間の海外旅行へ行く人、3年間で5〜6回海外旅行を楽しむ人なども居たのだ。 こういうひと達は好きでその仕事とその生活を送っていた。 なんだかんだと言って結局は景気じゃないか。 景気が上向きになることが、最終的な解決策ってか。 なんだか絞まらない結びになってしまった。 08/Nov.2010
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