読み物あれこれ(読み物エッセイです)
読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
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ハリー・ポッターと死の秘宝 J.K.ローリング 著
しかしまぁ、どれだけ待たされたんでしょうね。 もう前作なんてほとんど忘れかけてる。 前作である「謎のプリンス」はそれまでの話とは違い、唯一ストーリーとして完結していなかった。 この「死の秘宝」は「謎のプリンス」と合わせて完結なのだ。 もちろんハリー・ポッターシリーズの完結であることは言うまでもないですが。 それにしてもこれだけ待たされてもその人気たるや、衰えることをしらない。 発売前から長蛇の行列。 それだけ期待されての完結編だけに上下巻のボリュームたっぷりでなければ誰しも納得しないだろう。 とはいえ、上巻などは途中から、どうにも退屈で読みながらうたたねを繰り返してしまった。 ハリーは目的はわかっていながらも、それを達成するための手段を失い、迷い、苦しむあたりがどうにも長すぎるのだ。 このあたり、ボリュームを膨らせることの方を重視したんじゃないのか、とそのあたりを読んでいる時にはついつい感じてしまうが、下巻にはいると途端にめまぐるしい展開。 おそらく「賢者の石」以来で一番面白いだろう。 上巻のうろうろ状態はその展開のための布石としてはやはり必要だったのだろう。 それにしても、このシリーズ、途中から上下巻二冊がワンセットになってしまった。 それに完結編を出版するまでほぼ10年がかりというのは当初から作者の想定どおりだっただろうか。 最終回の項は賢者の石の頃に書き上げて、金庫にしまってある、とかいう談話があったような気がするが・・・。 「賢者の石」があれだけ大ヒットして、ハリー・ポッターの大ブームがおきなければ、一巻一巻の出版にこれだけ期間がかかったりも途中から上下巻になることもなく、もっとコンパクトに集約されたシリーズになっていたのではないか、などと考えてしまうが、そんな商業主義にのったのでは、などという勘ぐりは余分なことなのだろう。 なんせ発売前に徹夜で行列して待っている人もいるぐらいなのだから、それだけの魅力が満載ということで理解して充分だろう。 発売して間がないので、中身にふれるのはご法度だろうから、中身についての感想は書けない。 ただ、映画化されたものをいくつか見てしまったことで、本来であれば本を読むことでふくらませられるはずの個人個人のイメージというものが映画の登場人物にかなりに影響されてしまう、という感は否めない。 スネイプなどは特に極端に影響を受けてしまった。 賢者の石を読んだころにおそらくイメージしたであろう姿はもう忘れてしまって、映画で出て来たあの登場人物のイメージが被ってしまう。もちろんスネイプ以外の個人個人も多かれ少なかれそうなのだが・・。 上下巻3800円+税。 1100頁をこえるボリューム。 それだけボリュームがなければ、待ったかいがない、というだけでなく、ボリュームに恥じない、充分に楽しませられる本だと思います。 31/Jul.2008 蒲生邸事件 宮部みゆき 著
歴史を遡るだとか、時空を超える話、いわゆるタイムトラベルをしてしまう話はいくらでもある。 望んで行く話、偶然に行ってしまう話。 行った先の歴史を変えてしまう話。 絶対に歴史を変えてはならない、と眺めている様な話。 この「蒲生邸事件」という話もまさにタイムトラルの話。 ただ、他のタイムトラルの話と決定的に違う点がいくつかある。 一つはそのタイムトラベラーの能力を持った人間は一様に皆、暗く、陰気で顔を見たら、ガラスをギーっと擦る音を聞いた時に似た嫌な気分になってしまう。 彼らは友達はもとより、親兄弟の誰からも無視され続ける存在。 また、それだけ存在感が無いのだ。 こんなタイムトラベラーは他の話ではあまりお目にかかれない。 その暗さ、存在感の無さの理由は、他の時代へ行ってもその存在感の無さ故に誰からも気に留められることがないからだという。 それでも彼らはその能力を発揮しようと、歴史を変えようとするのだが、歴史というものの流れは決して変わる事がないのだという。 あの忌まわしい事故、日航ジャンボ旅客機の墜落をなんとか未然に防ごうと、飛行機に爆弾を仕掛けたと電話して無理矢理欠航させ、その飛行機は墜落を免れたとしても、その翌日か翌々日に別のジャンボ機が墜落する。 そうして、歴史はちゃんと帳尻を合わせるのだという。 日航ジャンボ機はあの時期に一機、墜落をしなければならない宿命があったのだという。あの山崎豊子の「沈まぬ太陽」がその後に明らかにした様な、日航そのものの安全管理をないがしろにした会社の姿勢はそういう形で何か事件にならなければ、改まらなかった、ということなのだろう。 だから、どのジャンボ機を救おうと、別のジャンボ機が必ず墜落する。 ということは、歴史は必然、という事なのだろうか。 ということは大化の改新の時、蘇我入鹿に事前に事件の事を告げていてもやはりどこかで蘇我蝦夷・入鹿親子は殺害されたということなのだろう。 現天皇を廃して蘇我天皇が誕生しつつある事態を撲滅させるのが歴史の望んだ結果だということか。 本能寺の変直前にタイムトラベルをして明智光秀を拉致監禁してしまったとしても、他の誰かが織田信長を倒すのだろうか。 自らを王と称し、寺院を焼き討ちにする様な存在は誰かが討つのが歴史の必然だということか。 ただ、本能寺の変の際には織田信長を討てるのは明智光秀しかいなかった。他の武将は皆遠征ではるか遠くまで行っていたはずである。 それでもその明智を拉致しても織田は誰に討たれるのだろう。明智の部下だろうか。 某日本放送協会でやっている「その時歴史が動いた」という番組がある。 まさしくその瞬間の行動が、その瞬間の判断の左右によって歴史はこんなに動いたのだ、という紹介話である。 でも、歴史が必然なら、その瞬間の判断を右から左へ変えてあげたとしても結果は同じだったということになるのだろう。 バック・トゥ・ザ・フューチャーとは対極にあるタイムトラベル話である。 さて、時代は二・二六事変である。 ここに登場するタイムトラベラーは他のどの時代への選択肢もあっただろうにこともあろうか、二・二六事変の直前からを自分の永住の地と定めた。 だんだんと日本全土に暗い影がさして来た頃なのじゃないのか。 それは戦後の人間が勝手にそう思っているだけで存外に今よりも住みやすい時代だったのかもしれない。 それでもその数年後には戦争へと突入して、最後は散々空爆されて、戦後は食うものもない時代へと流れていくわけだから、最終的には住みやすい時代であるはずがない。 作者は蒲生大将(架空)が未来を覗き見てしまったがために変節をし、未来の人からあの時代にそれだけ先を見通していた人がいたのか、と後世に名を残し、子孫を助けようとする様な人には歴史に不誠実な人としてばっさり切り捨てる。 東条英機の様に最後まで悪者で通して、戦犯となったの方が歴史に誠実、正直であったと寧ろ評価が高い。 では、二・二六の時代へ移り住もうとしているこのタイムトラベラーはどうなのだろう。赤紙で戦地へ引っ張られてしまえばどうしようもないが、引っ張られなかったとしたら・・。 東京への大空襲のことも知っているだろうし、長崎、広島へ原爆が投下されることも知っていれば、8月15日に玉音放送がある事も知っている。 戦後に起きること、朝鮮動乱のこともその後にどんな産業が伸びるのかも、ケネディの暗殺もアメリカの有人宇宙船月着陸も、東京オリンピックも大阪万博も・・・この歴史に影響を与えることをやめた人がそれを知ったからといって、先見の明を発揮したり、株でボロ儲けすることもないだろうが、戦争を生き抜いとしたらその先の人生は果たして面白かっただろうか。 未来は自らの手で作るもの、と言うが、彼は決して未来は作れない。 何故なら歴史に縛られているから。 彼はだけではないのかもしれない。 歴史には流れというものがあり、その流れには決して逆らえないのであるというように過去から今日に至る歴史が必然なのだとしたら、未来だって同じではないのか・・・必然。 未来は自らの手で作るものなのではなく未来は定められた必然のルールどおりに進んで行く? この本にはそのような意図はないのはわかっている。 昭和初期の日本でしか存在し得ないような優しい温もりのある女中のふき。 ふきと主人公とのロマンスなどがあれば、随分違う感想をもつのだろうが、二・二六事変に訳もわからず参加した兵士への「原隊へ戻れ」の号令。 「原隊へ戻れ」をふきから復唱され、戻るべきところへ戻る主人公。 それだけでもふきという女性の優しさは伝わってくる。 感想としてはそういう締めが望ましいのだろうが、蛇足は書かずにはいられない。 歴史の落ち着く先が決まっている、という宮部流歴史必然説に沿えば、未来は自らの手で作るものなのではなく未来は定められた必然のルールどおりに進んで行く。 では、未来を、この地球の未来を変えようとする人々の努力はいかに。 地球温暖化は続き、ツバルは沈み、北極から氷がなくなっていくのは歴史の必然? 洞爺湖サミットにても結局、2050年と彼らの次々世代に対しての約束事でさえ、中国、インドからの前向きな発言を日本国首相は得られなかった。 これは宮部流必然説でもなんでもなく、まさに我々の目の間の現実そのものなのだ。 歴史のこの未来の必然の行き先はこのまま推移すればもうほとんど見えていると言っても過言ではないだろう。 最後に、それでも我々には我々の子・孫の世代のためにもその必然の未来を変えるための努力をする義務があるはずだとこころから思う。 17/Jul.2008 骨音 池袋ウエストゲートパークV 石田衣良 著
●骨音 骨音って、こんな発想はどこからきたんだろう。 動物の骨から打楽器を作るなんていうことは古代から行われていたことらしいし、今でも現存しているものもある。 有名どころではキューバの打楽器「キハーダ」。 馬やロバの下顎の骨から作られるということで有名だ。 近頃ではネットでも買えるようになったらしい。 中国の自治区の一つの広西自治区。 そこに住むチワン族には古くから「馬骨胡」という琴のような楽器を奏でる。 これは馬の大腿骨を使っている。 モンゴルみやげで有名な「馬頭琴」。 みやげにしてはかさ張るから結局は買うのをあきらめたりする。 これも少し前までは馬の骨で作られていたと言われる。 現在売られているものは木製しかないだろうが。 やはり骨ならではの音というものがあるのだろうか。 まさに骨の髄までしみ込んで来る、というような音なんだろうか。 モンゴルの「馬頭琴」の場合は音のためというよりも愛馬を偲ぶ意味でその骨を楽器にまでして身近に置きたかったという意味の方が強いらしいが。 全国、至る所で中高生達がホームレス狩りを行っているのだという。 彼らはホームレスの連中なら税金も払ってないし、臭いから狩っても罪にもならないだろう、などと言う刷り込みでもされて来たのだろうか。 近所の河川敷で見かけるのはホームレスというよりこれは立地条件抜群の立派なホームじゃないのか?と思えるようなもの。 自転車が鎖につながれていて洗濯物も干してあって入り口には「入るな!」「覗くな!」の張り紙看板などもあったりして・・・ こういうのは特別なのだろうな。 余談となったが、ホームレスだから骨ぐらい折ったところで構わないだろう、という発想よりも人の骨をバキっとなるぐらいにまで折ってまでして収録した音が人をそんなに熱狂させる音楽に使用される、っていう発想、その思いつきそのものにまず驚いてしまう。 ネタばれのようなことを書いているように思われるかもしれないが、そんなこともないだろう。コンサート会場のシーンあたりで大抵の人はこのタイトルと考え合わせれば、ホームレス骨折り犯人が誰かなんて、想像ついてしまうだろうし、また作者もそのつもりで書いているんだろうから。 ●キミドリの神様 もう一つ、これはなかなかの面白い発想だなぁ、と思ったのが「キミドリの神様」のローカル紙幣。 そもそも貨幣が誕生したのは商の時代で、物々交換の煩わしさを貝がらを貨幣としての物との交換価値のあるものとして普及させたところからはじまる、と中国古代史を描く宮城谷氏が書いていた。 貝がらが貨幣なら海沿いの人々はぼろ儲けじゃないのか、という疑問が湧いてくるなぁ。 宮城谷さんはそこをどう説明していたっけ。 それはこういう出来立ての紙幣だって同じ事が言えるだろう。 物と交換するに値すると誰しもが判断ようになりさえすれば、それは貨幣・紙幣として成立してしまう。 紙幣を流通させる、つまり価値を認めさせるまでがいけば発行元は大勝利。ぼろ儲け間違いなしだ。 国が発行元でない紙幣なんて世界中にあるだろうか。 買い物をした時についてくるポイントなんかは商品に代わる価値はあってもその店限定だろうし。 喫茶店へ行ってそのローカル紙幣でお勘定ができる。 雑貨屋へ行ってそのローカル紙幣で買い物ができる。 もちろん、お金ではないので消費税は無し? 小売店も円貨の収入でも外貨の収入でもないので、所得にはあたらないから所得税もない、ということになるのだろうか。 いやいや、国税当局はそんな甘くはないだろう。 そもそも金券ショップやそこらで円に交換できてしまうのがよろしくない。 果物屋でりんご一個をこの紙と交換した。それだけなら物々交換をした、つまりりんご1個は売上につなげられなかったわけだ。 とはいえ小売店はただで物を配っているわけじゃない。交換した紙はお金としての資産価値のあるもの。 だとしたら売上の代金回収を債券で回収した様な扱いとなるのだろうか。 いずれにしても税金対策には利用できないだろうし、この主催者はそんなことを目的としていたわけではない。 弱者救済などというときれい事の様に聞こえるが、働きたくても仕事がない、お金のない貧しい若者がボランティアへ参加した時の対価(報酬)としてこのローカル紙幣を受け取る。 金はないが、そのローカル紙幣でメシが食える。服が買える。 金なんてなくても豊かな生活がおくれるじゃないか。 そういう主催者の発想、つまりは作者の思いつくところがなかなかにしておもしろい。 他に「西一番街テイクアウト」、「西口ミッドサマー狂乱」など四篇が収められている。 「IWGP」(池袋ウエストゲートパーク)のシリーズものとしては、レイヴと呼ばれる参加者が一晩中踊りまくる音楽イベントとドラッグを扱った「西口ミッドサマー狂乱」なんかが、メインなのかもしれない。 それでも発想のおもしろさから上記二編を取り上げてみた。
ZERO 麻生幾 著
1920年、ソ連の建国を受けての共産主義の台頭に危機感を持った当時の日本政府は内務省に警保局保安課を設置。 更にその内部に組織図に載らない組織、<作業>と命名された機関を設けた。 そこは協力者獲得工作、盗聴、文書開被、家宅侵入・・・いわゆるスパイ活動を行う組織である。 戦後、GHQにより警保局が解体される事で自動的に消滅したはずの組織なのだが、ソ連が脅威を増すとともに再び暗号名<サクラ>として復活。 千代田区に移転した際にも<チヨダ>と暗号名を改称して存続。 そして現在更に改称されて<ZERO>という暗号名で存続し、全国公安警察の頂点に位置する存在なのだという。 警察の中でも、その名前を口にすることすら許されない組織の名前。 それが<ZERO>。 もちろん、これは小説であるから架空のものなのだろう。 だが麻生氏の書いたものには結構実在する組織の名前がそのままの名前で登場したりする。 警察の組織や自衛隊の組織の名前など。 特に警察の内部でだけ使われるような専門用語、符丁、自衛隊内部からの情報が無ければ到底知りえないだろうと思える様な専門知識、などなどを鑑みるにつけ、麻生氏の書き物にはどこまでが作った話でどこまでが事実を引用した話なのか、判断に悩むところがある。 とはいえ、本のタイトルはその「ZERO」なのだが、「ZERO」という機関が活躍する話ではない。 活躍するのは「警視庁公安部外事第2課」というおそらく実在する組織の中の一警察官である。 日本はスパイ天国だとか、他国の諜報機関に国家の機密事項をいとも容易く垂れ流してしまう国だとか、言われ続けて久しい。 自衛隊からの漏洩。企業からの漏洩。 それどころか国のTOPである首相経験者が某国諜報部から女性をあてがわれて無償ODAを約束してしまったりなど。 あまりにも機密漏洩ということに関して無頓着でありすぎる。 逆に外国に対する諜報活動となればCIAもKGBも持たない日本は、その方面では全く機能していないように思われているが、どうもそうも言い切れないらしい。 情報協力者の獲得工作など実際に行われているのかもしれない。 公安部外事第2課の峰岸というベテラン警察官、こういう職人の様な警察官は警察の各部署にちゃんとまだ居るのだろう。 家庭などはなから犠牲にしなければ到底そこまでの任務は行えないだろう。 彼らは一体、誰のためにそこまで、と思えるほどに仕事に献身的なのである。 最近、日本の警察の能力が低下したという類の批判に対しても彼らの様な職人警察官ならいくらでも言い返したいところだろう。 この峰岸という警察官、あろうことか中国への潜入を行うはめになってしまう。 ここでも、一体誰のためにそこまで、なのである。国のため?いやそんな単純じゃない。北による拉致事件、発生から何十年と「そんな事実はない」と相手の言う言葉を鸚鵡返しにしてきたのがこの国である。 峰岸が彼の地で捕まれば、日本は平気で見捨てるだろう。 そんな人間は現職の日本の警官には存在しない、と。 実際に峰岸は行動を起こす前に一旦、辞表まで書いて警察手帳なしの立場で潜入しようとする。 まさに自殺行為そのものだろう。 この物語の壮絶なところは、そういう日本の体質だけを浮き彫りにするのではなく、中国における権力闘争とはいかなるものか、という点を執拗に言及しているところだろうか。 12億〜13億の人民の頂点に君臨する共産党の各勢力の権力へのしのぎ合い、その凄まじいさたるもの世界一ではないだろうか。 この話、麻生幾の前作「宣戦布告」よりもはるかに救いがある。 「宣戦布告」では自衛隊の投入に関しても散々すったもんだをし、結局被害者が出て来て止む無くその決定に至るまでの官邸の姿勢はぶざまとしか言い様がないものがあったが、この物語の中ではまさに国の命令にて死地へ赴き、窮地に立つ警察官を国家は見捨てるのか? の問いに対して、「救出する」を選択するのだ。 日本の自衛隊に課された宿命(決してこちらから発砲してはならない)は陸上自衛隊のみならず海上自衛隊にも適用される。 潜水艦員などに魚雷を発射されるまで何も出来ないなどと言う事は魚雷来たら、潔く死ね、と言っている事に等しい。 この救出の任にあたった潜水艦の館長は「死」を決意して任務に取り組む。 日本の水域内に出没する北の潜水艦を追いかけるのとはわけが違う。 全くその逆で相手の水域へ侵入して来なければならないのだ。 潜水艦の中では何一つのミスも許されない。 命がけの緊迫感、臨場感が伝わって来る。 この国家の危うさ、情けなさに対して警笛を鳴らす書き物をする麻生氏が何故、今回は「救出する」筋書きを選択したのだろうか。 やはり、そうであって欲しいという願いからなのだろう。 07/Jul.2008 ブルータワー 石田衣良 著
脳腫瘍に犯されて、余命2〜3ヶ月、来年の春にはもうこの世に存在しない主人公が景気の悪化を嘆いてみたりする自分の姿を顧みて、おかしなもんだ、などという展開からまさかこの様な展開に発展するとは思ってもみなかった。 意識が無くなった際に何度か見た高い塔からの風景。 ある日、本当にその風景の中へ飛んでしまう。 なんとその世界とは200年後の世界なのだった。 脳の病いなので、脳の中で作られたイメージなのかと主人公も当然思うのだが、それにしては、理路整然としすぎており、話の辻褄も整合性にも矛盾が無い。 200年後の世界での彼は高さ2kmというとてつもなく高い塔の最も上部に近いところに住む。 そこは階級社会そのもので、その上下関係はまさに住む階の上下関係と等しい。 そもそもは東中国と西中国の東西対戦の末にばら撒かれた後に「黄魔」と恐れられるインフルエンザウィルスが原因で世界の大方の人間は死滅してしまう。 残ったのは青の塔をはじめとする7つばかりの高い塔。その中の最上階に住む特権階級としての人、〜二層、三層、四層、五層目まで行くと第一層の人の奴隷扱い。 石田衣良氏は9.11のテロでワールドトレードセンターが崩落していく様子を何度も見て、この作品を書こうと決心された、ということである。 主人公が200年後の世界で見たのものとは、ガース・ニクスという人が書いた『セブンスタワー』と酷似した世界。 『セブンスタワー』は子供向けファンタジーなので知らない人が多いだろう。 そこには7つの塔がある。それぞれ、緑の塔、黄の塔、赤の塔、青の塔・・などと呼ばれているのも似ているし、その塔の中がまさに階級社会で階級が高いほど塔の上に住む。 そういった似ている面はあるが、そういうような物語の舞台背景が似ているものなど、他にもいくらでもあるかもしれない。 現世ではもう死ぬ間際の人間、それが200年後にシフトした途端に30人委員会という最重要ポストの一人で、次の法案を通すか通さないかのまさにキーマンであるかと思えば、200年後からみた過去の吟遊詩人の歌の中に登場する階級社会を打破する救世主だと皆が思い込み、自分に思いを託して死んでいく。そのプレッシャー。 余命いくばくか、という運命を一旦背負った人ならではの勇気、何かを為そうとしようとして湧き上がる力、読みどころは多い。 日本でもこのところパンデミックに対しての措置や対応マニュアルを地方自治体の一部がようやく用意し始めている。 折しも「H5N1型ウイルス」と呼ばれる鳥インフルエンザが東アジア各地で猛威を振るいつつある。 この鳥への感染が人への感染に変異するのも時間の問題ではないか、とも言われ、一旦人へ感染すると、その致死率は50%とも60%とも80%とも言われる。 まさに「黄魔」そのままではないか。 この物語では「H17N1ウイルス」と、もっとはるかに進化したウィルスが登場する。 インフルエンザの恐ろしさは粗悪コピー機のような、遺伝子コピーの不完全さなのだそうだ。それゆえにどう変異していくかわからない。遺伝子が正しくコピーされるなら一度効いたワクチンにて対応出来るはずなのだが、粗悪コピーゆえに一度効いたワクチンもまた効かなくなってしまうのだそうだ。 これはこの物語に登場する、ココという電子頭脳を搭載したパーソナル・ライブラリアンが主人公へ説明している内容である。 この200年後の脅威はさほど先ではない脅威なのかもしれない。 おまけ。 ブルータワーの高さ2km。 東京タワーの高さ330m、世界で最も高いビルでも500m〜600mといったところか。 その約四倍の高さ。それでも最下層だけで人口50万人が住むには、ほぼ山のような形状でなければ無理だろう。 少なくともこの本の表紙の様な形状ではないだろう、などとこれは蛇足でした。 01/Jul.2008
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