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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
May.2012
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蕩尽王、パリをゆく ― 薩摩治郎八伝 鹿島茂

大富豪が散財の限りをつくし、現在の貨幣価値にして800億とも言われる金を放蕩で使いつくしてしまう。
明治〜昭和のノンフクション。

なんだか途轍もない豪快な逸話の数々を期待してしまう。

タイタニック号を借り切ってみたり、全世界の映画スターと豪遊してみたり、オリンピックの金メダリストを集めて自分だけのオリンピックを開催したり・・・なんて途轍もない逸話が書かれているわけではない。

治郎八氏は芸術を愛する人でありながら、決してコレクターにはならなかった。
コレクターとして収集するのにお金を使うのではなく、寧ろ芸術家のパトロン、良き理解者としての散財をする。

明治から大正という時代、第一次大戦を経て、空前の好景気を甘受した日本人は多かっただろう。

今のお金にして800億というのはとんでもない巨額だが、平成の今でさえ100億という巨額をバクチにつぎ込んでしまう人がいるぐらいだ。
当時の貨幣価値をどういう基準で現在の価値に結びつけたのかは知らないが、その当時の大金持ちなら、もっと桁違いの金遣いをしていた人が居てもおかしくはない。

コレクターとしてもっと金を使った人もいりゃ、本業を維持しながらも豪快に金を使った人もいる。

本の冒頭では、治郎八氏は放蕩で全てを使い切ってしまうところが素晴らしい、とそのあとの展開にかなり期待をさせてくれる。

ところが、寧ろ、豪快な逸話がありながらも極めて記述の仕方は地味なのだ。

それどころか、この筆者はやはり学者なんだなぁ、と思ってしまう。

本人の書いた手記にアラビアのロレンスと会ったことや、コナン・ドイルと会ったこと、フランスの外人部隊に入隊したことなどが、事実だったかどうか、その年号や妥当性の検証やら傍証にかなりの枚数を割いている。

史実探究の推理の過程を楽しむ人にはおもしろいのかもしれないが、初めて薩摩治郎八なる人物にお目にかかった読者がそこまで治郎八オタクになるには、少々関門が高過ぎる。

放蕩で全てを使い切ってしまう、というよりも昭和の戦争で日本人が皆、何もかも失ったのと同様に、金の出どころの実家が傾いてしまった。
日本人が皆一文無しからの出直し。
放蕩で使い切ったというのは、ちょっと意味が違うかもしれない。


それでもまぁ、いずれにしろ、若い頃からとんでもない金を自分のやりたいことのために自由に使いまくったわけだ。

当然、我が人生に悔い無しだろう。

蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝― 鹿島茂/著 金は使うためにある! 大富豪の華麗にして波乱万丈の生涯。 新潮社


30/May.2012
シャンタラム(上) グレゴリー・デイヴィッドロバーツ

上・中・下の三巻からなる大作。

インドを知るには上巻だけでももう充分でしょう。

自国で強盗事件の後、拘留。
そこを脱獄してインドへ。
そしてインドのスラムで暮し・・・

著者の略歴を見る限り、この本限りなくノンフィクションに近いものと思われる。

ボンベイ(現在のムンバイ)へ行くバスの中で知り合ったカナダ人のインド旅行慣れした二人の青年。
彼らは途中に並ぶスラム街を見て汚いでしょう、と口を揃えるが、主人公氏はバスが停止した時にそのスラムの家の中を観察している。
チリ一つ落ちていない。食器は整然と並んでいる。
家の中は極めて清潔なのだ、と。
その時から、主人公氏はスラムに住む資格を持っていた、ということなのかもしれない。

主人公氏は自らを犯罪者、逃亡者と言いながらも、すべからく素直なのである。
バスを降りた途端に群がって来る、ガイド希望者達。
旅慣れた人はさっさと無視してしまうのだが、主人公氏はその笑顔が気に入ったとその中の一人を雇い入れる。
また、自らの名前もそのガイドから「リン」の方が良いと言われ、そのままリンと呼ばせてしまう。

何から何まで、これまでの常識と思っていたことが覆される、目からウロコの小説(自伝か?)なのだ。
スラムの中では一切盗難は起きない。
そう、外からかっぱらって来たとしても内部では絶対に盗んだりしない。
たまに飼っている猿が手くせで人のものを持ってこようものなら、これどなたかのものです、と台の上に並べていて持ち主が現れるのを待っていたりする。
いさかい、けんか、もめごとがあれば、スラムというコミュニティの長が表れて、まさに八方がまるく収まる解決策を呈示し、皆はそれに従う。
ボンベイのスラムにはいろんな地域の人々が集まり、その宗教もヒンズーもあれば、イスラムもある。
そんな宗教上のトラブルなど、血をみない限り解決策はなかろうと思ってしまうのだが、その長は見事にいさかいをストップさせるのだ。
そして、スラムの中で困っている者が居れば皆で助け合う。
なかなかにして、すばらしいコミュニティなのだ。

まさにそのスラムのありようは「貧しいこと即ち不幸とは違う」を見せつける。

その言葉は昭和の貧しかった時代を懐かしむ年代層が言いそうだが、ちょっと意味が違う。
方や高度成長で未来に夢を見る人々だが、スラムの人々は未来に夢を見ているわけではない。

主人公のリンはボンベイから何十キロか何百キロか離れた電気も無い村へ一週間の滞在のつもりで赴くが、そこでも何ヶ月と住んで溶け込んでしまう。
貧しい村だが、ここの人々も未来を夢見てはいない。
それどころか、何百年、ひょっとしたら何千年と同じ暮らしを続けて来て、今後もずっと変わらないと思っている。
つまり未来もまた現在の延長でしかなく、これから変わるなどとこれっぽっちも思ってやしない。

インドをはじめ世界の貧困の凄まじさを書いた本はあまたある。
また、いろいろな旅行記もあるが、インドをこれほど深く知った人の本は無いだろう。
もう、これを読んだら他のインド旅行記など読めたもんじゃない。

インドでの子供の人身売買。
人身売買をするだけではなく、買ってきた子供をかたわにして、足を引きづらせたり、片手の不自由な身体にして、乞食として稼がせ、その上前をはねる商売がある。
そういうものを書いている本、いや書き手だけじゃなく読み手も、到底「人間のすることじゃない」と思ったことだろう。
それがごくごく一般の見かたというものだろう。

だが、この本は違う。
そうやって、買われて行った子供の方がまだ幸せで親も安心しているのだ、などというのだ。
そう買われなかった子供はそのまま飢えて死ぬしかないから、乞食としてでも買われた方がマシで買った大人に皆感謝しているんだ、とその商売をリンに見せるインド人は言う。
まさにこれまでの常識の正反対じゃないか。

主人公のリンはなんでも素直に受け入れる。その性格の良さがインドの人達にまた好かれる。
なんでも素直に受け入れるのは、もうどこへも逃げ場が無くなったから、とも読めるが、実際に素直な性格、そのガイドに言わせると「良い心を持っている」から。
まさにそうなのだろう。

冒頭のインド通のカナダ人旅行客は初っ端の宿泊費、三人で米ドルにして6ドル、これをして4ドルにまでまけさせられたのに・・という。

三人泊まって6ドル。もう充分に安いじゃないか。
これを三人であと2ドルばかり値切ったところで、その金にどんな使い道があるというのか。

リンは値切らない。
その2ドルを値切ることが宿泊施設の人たちの晩メシを削っているかもしれないと思ってしまうからだ。

インドの人は、ヒンディー語やウルドゥー語はもとより、自分のふるさとの言葉、ボンベイに出て来る人にはマラーティー語をふるさとの言葉として持つ人たちが多いが、そんなふるさとの言葉を覚えて話してくれる外国人が居たら、とたんに好きになる。
そして彼らは一旦好きになってしまうと、あふれんばかりの、見返りを要求しない愛で包んでくれるのだ。

「シャンタラム」。これはリンがインドの田舎で暮らしていたときに、そこでもっとも尊敬されている女性から与えられた名前だ。意味は「神の平和のひと」。

一年の間に何度も何度もインドを訪れるインド通と呼ばれる人たちがいる。
彼らの自慢はどれだけ安く旅が出来たか、であり、インドをいかに良く知っているか、なのだろう。

そんなインド通の彼らにさえ、インドの人々は、通り一辺の外国旅行者向けの一面しか見せていないのだ。


シャンタラム〈上〉 (新潮文庫)作者: グレゴリー・デイヴィッドロバーツ Gregory David Roberts 田口俊樹訳


21/May.2012
昼が夜に負うもの ヤスミナ・カドラ

1930年代から始まる北アフリカの物語。
主人公の一家は畑の作物作りにて生計を立てていたのだが、豊作だと思った年に畑が全焼してしまう。
土地を捨て、都会へと一家は出て行くのだが、行きついた先は、ジェナヌ・ジャトと呼ばれる貧民達の住む一帯。
誇り高き一家の父は誰の頼りにもならず、自力で貧困から抜け出すべく働くが、兄の説得にて、主人公のユネスを兄(主人公からすれば伯父)の夫婦に預けて、満足に教育を受けるようにしてやる。その町がオラン。
伯父の家には子供が居らず、伯父もその妻も我が息子のようにユネス=この時には名前がジュネスとフランス読みされるようになる。
父・母・妹を貧困の暮らしに置いたままジュネスは綺麗な衣服を纏い、教育を受け、家でも大切に大切に扱われる。
ある時、伯父をみまったある不幸な事件にて伯父一家はオランを去ることに・・そして向かったのが、リオ・サラド。
少年期から青年期までジュネスはこのリオ・サラドで親友達との親交を深めて行くのだが、アルジェリアの独立運動が始まり、やがて独立戦争になって行くに連れ、ジュネスの立場は複雑である。
イスラム教徒で先祖がアルジェリア出身の彼に対して彼の友人達はユダヤ人であったり、はフランス系をはじめとするユーロッパの白人ばかり。

寧ろ彼らのコミュニティに属するよりも民族的にはアルジェリアの解放戦線側に属する人なのだ。
9.11のテロ後がそうであったように、ヨーロッパ人が殺されると、アルブ系の人は敵視され、アルブ系の死人が出るとヨーロッパ人は敵視される。

ちょうど、その間の立場に居る人達はどちら側からも敵視されかねない微妙な立場となる。
リオ・サラドをはじめ、彼らの周辺にはアラブ系だヨーロッパ系だと簡単に割り切れない人が大勢いる。
アルジェリア人でありながら奥さんはフランス人だったり、夫はイスラム、妻はキリスト教徒などが当たり前に混在していた地域なのだ。

また元はフランス人だったとしても、祖父の代からアルジェリアで暮らし、祖父や父はそこを切り開いき、自らはアルジェリアで生まれ、育ち、日常の生活を営んでいた人たち。
彼らにとってのふるさとはアルジェリアなのだった。
アルジェリアの独立戦争は、アルジェリアが独立を勝ち取るための戦いでありながらも、方やそんな人達が国外脱出を余儀なくされた戦争でもあった。

毎日のようにどこかで人が殺されるのが当たり前のそんな時代の中、主人公のジュネスは孤独でありながらも、結構日和見な立場のまま、命をかけることもなく、この時代を生き抜いてしまう。

彼にとっては、一時も忘れられないエミリーという女性を思うことの方が大事だったのだ。
エミリーという女性はかつて彼に最大限のラブコールを送って来るのだが、彼の方がそれに応えなかった。
エミリーを知る前に彼女の母親である女性に恋心を抱いてしまったがための一時の過ちが原因で彼はエミリーからの求愛に応えなかったのだ。

それが、離れ離れになるに連れ、彼のエミリーへの思いは強くなる。

方や血なまぐさい戦いが繰り広げられる中、彼の中では独立戦争よりも彼女への思いの方が心のウエイトを占め続ける。

ストーリーそのものは、なんとも優柔不断な男の生き様のようにも思えるが、冒頭のジェナヌ・ジャトの貧民街の描写やリオ・サラドの町並みの描写などは、その当時のその場所がまさに目に浮かぶような描写が続く。

北アフリカを舞台にした読み物などは、何故か表現が難しく読みづらいものが多かったりする。
二度翻訳されて・・ということもあったのかもしれない。

それに比べてこの活き活きとした描写はどうだろうか。

作者はもとより翻訳者の功績が大きいのかもしれない。

藤本優子さんという翻訳者、アルジェリアとフランスという二つの国、民族への理解がかなり深い方なのではないだろうか。


昼が夜に負うもの  ヤスミナ カドラ (著) Yasmina Khadra (原著)  藤本 優子 (翻訳)


15/May.2012
あやし うらめし あな かなし 浅田次郎

ホラー、怪談、怪奇談などと、ジャンルではひと括りにされてしまうかもしれないが、所謂ホラー小説などでは決してない。
霊的なものを取り扱った七話のお話。

最初の「赤い絆」と、最後の「お狐様の話」は作者の母方の実家で聞いた話を元にしているのだそうだ。
「赤い絆」は心中事件の顛末。「お狐様の話」は狐に取り憑かれた由緒正しき家のお嬢様を預った作者の母方の実家であった話が元で実際に伯母や母からその顛末を聞いたのだという。

「虫篝」
戦争末期、南方戦線で飢餓しかけになる男の前に現われたのは、まだそんな飢餓状態になる前の自分そのもの。
その現われた自分と魂を入れ替えて生き残る、という不思議なお話。

その話が現代を生きる主人公にどうつながるのか・・・。


「骨の来歴」
ある男の語り。
学生時代に好き合った女友達が居て、共に受験勉強をする。
男は貧乏の苦学生。方や女友達の実家は裕福な家庭。
無事に合格してから付き合えと女友達の親から言われ、男は無事に合格するが、携帯電話の無い時代、彼女が合格したのかどうかは家へ電話する以外にない。
ところが電話に出て来た母親は、
「もうご縁が無くなったはず」
「今さらお行儀が悪いんじゃございませんこと」
などと言われてしまう。
そればかりか、父親も訪ねて来て「身を引け」と言う。

「念ずれば通ず」とは使い道が違うかもしれないが、彼の念力は通じてしまう。


「昔の男」
流行らない病院で居つかない看護婦。
総婦長の跡を継ぐのは現婦長、そしてそのあとを継ぐのは唯一居ついている主人公の看護婦。
そこへ現れるのが先先代の院長。
その院長は志願して軍医となり、南方へ送られた人であった。

この物語については浅田氏がかつて医大の卒業生名簿を見た時の感想を述べている。
その卒業生名簿のある年度のところをみると、戦死、戦死、戦死・・・・と軍医で出征して戦死している。
本来人の命を救う人が、人を傷つけ合い殺し合う戦場へ行って何をしたのか。

霊がどうの・・などという話ではない。
そんな悲劇をさりげなく盛り込みながら書いている。

他に「客人」、「遠別離」。


本のタイトルに「あやし」や「うらめし」などとあるが、うらめしい話などではない。

怪談めいてもいない。

敢えていうなら、浅田次郎の手による「民間伝承」っぽい、現代に作られた物語集といったところだろうか。


あやし うらめし あな かなし (双葉文庫) 浅田次郎著


09/May.2012
キリング・サークル アンドリュー パイパー

かつてのカンボジアでクメール・ルージュによる大量虐殺を描いたような作品を期待される向きには、全くおすすめしない。
「キリング・フィールド」と確かにタイトルは間違えそうであるがジャンルが全く異なる。
なるほど、こういう本を「サイコ・ミステリ」と呼ぶのか。

カナダの作家でカナダが舞台の小説。

主人公は小説家志望のジャーナリスト。
ジャーナリストとはいえ仕事はテレビの紹介だったり、たまに書く小説家の賞の論評では作家達や賞そのものもこき下ろす。

ところが、自分で物語を書けるかというと、これが書けない。
テレビの紹介記事は書けても、自らの創作が出来ない。

そんな彼が小説家を目指す人たちのサークル、創作サークルに入るところがまだこの長編の冒頭部分。

サークルではいかにもシロウトっぽい人たちが自らの体験談を小説にして、朗読して行く。

その中で、一人だけずば抜けた語り手が現れる。

サンドマンと命名された怪人に怯える少女の物語をその語り手である女性は語る。

その朗読を聞いた人は自分の廻りにもサンドマンが居るのではないか、と思ってしまうような独特の語り。

丁度その頃、主人公氏の町の周辺では不審な行方不明や殺人事件が何件か立て続けに起きていたことが、そんな妄想に拍車をかける。


創作サークルは4週間ほどで終わり、それぞれが会う機会も無くなり、不審な事件も忘れつつある頃に、主人公氏は自らの毒舌記事が災いして会社をクビになり、住むところの家賃さえおぼつかなくなったあげく、音声で残していた「サンドマン」の話を自分の作品として出版してしまい、またそれが大ヒット。
賞を受けるほどの売れ行きとなる。


その頃からまた、不審殺人は再開され、今度はかつての創作サークルのメンバが一人一人ターゲットになって行く。

人の創作をパクって、売れてしまう小説家.。
また、その小説に書かれていることが現実とかぶって行く。

疑おうと思えば、その小説家は最も疑われやすい立場にいるとも言える。
書いていることとほぼ似たことが実際に起こっているとしたら、自作自演も疑われるだろう。

とは言え、この本を読んでの感想はそんな殺人やら事件などではない。

カナダが舞台なだけにこの主人公が上司の一存で意図も容易く解雇されてしまうところだろうか。

アメリカ映画などでは良く見かける光景だが、
カナダは労働者にかなり手厚い、という話を聞いたことがある。

しかしながらよくよく内容を聞いてみると
・雇用者は被雇用者に最低月に2回以上給料を払わなければならない。
(回数の問題か?それよりも額の問題じゃないのか?)

・雇用者には5時間ごとに30分の食事時間を設けなければならない・・・だとか。
(8時間超なら1時間の休憩必須の日本と変わらないか。食事時間というのが変わっているだけ?)

そうか。労働者に手厚いは気のせいというやつだった。

なあーんだ、カナダもアメリカ同様じゃないか、などと本編と関係の無いところで感心してしまう。

それだとか、冒頭で親子で映画を観るシーン、ドライブインシアターなのだ。

ドライブインシアターなんかで映画を観たことはないが、殺人だのホラーだのという映画を巨大スクリーンに映し出すってどうなんだ、などと思ってしまった。

本編の感想?・・・・・・・・・そうだなぁ、本編はちょっと長すぎるんじゃない。

こんな長編で書く話だろうか。
半分ぐらいに削れば良かったのに・・・・・。

主人公を真似てちょっとだけこき下ろしてみました。



キリング・サークル (新潮文庫) アンドリュー パイパー (著) Andrew Pyper (原著) 佐藤 耕士 (翻訳)


08/May.2012
    12 >>