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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
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MW-ムウ- 手塚治虫
無罪と無実の間 ジェフリー・アーチャー
無人島に生きる十六人 須川 邦彦
霧笛荘夜話 浅田次郎
村上海賊の娘 和田竜
村上龍映画小説集 村上龍
村上龍映画小説集 村上龍
無理 奥田英朗
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MW-ムウ- 手塚治虫

これは「読み物あれこれ」に載せるべきものなのかどうか。
本屋では平積み状態。
バンバン売れているのだろう。
手にとってみるとなんと手塚治虫原作の漫画であった。
漫画ではあるが充分に読み物に値するのではないだろうか。
何故、今頃手塚治虫だったんだろう。
没後20年。生誕80年。
今年この「ムウ」が映画化されるのだという。


ある時はエリート銀行マン、ある時は誘拐犯、ある時は神父に懺悔をする男。いや誘拐どころか強盗・殺人も平然と行ってしまう。
あまりに美形なので、女性に変装しても誰も疑わない。
そんな主人公、結城美知夫と教会の賀来(がらい)神父が二人だけで共有する過去のある秘密。

某国の軍事基地のあった沖ノ真船島という島に隠されていた「MW」という名の毒ガス兵器。それはほんの微量が漏れただけでも大量の死者を出し、いや、人間だけではなく、生けるもの悉くを死にいたらしめてしまうというまるで核兵器の様な生物兵器。
沖ノ真船島で事故によってそのガスが漏れ、島民全てが全滅してしまう。その惨劇のあった島でたまたま風上の洞窟に隠れていたために助かったのがこの二人。
事故は某国の意向を受けた日本政府によって揉み消され、全く無かったものとして扱われる。

事故以来、美知夫は凶悪な人間と化し、揉み消しを行った連中への復讐心に燃える。

この物語の中でもベトナム戦争時に米軍がある村へ散布した生物化学兵器にふれ、非人道的兵器の使用について問われた米軍のスポークスマンをして、苦しまないで死ぬのだから、寧ろ人道的兵器だと言わしめている。

化学兵器の恐ろしさは掲げればいくらでもあるだろうが、オウムのサリンをひくまでも無く、無差別殺人という行為に繋がる。
それは化学兵器に限らず、核にしても同じであろうが、戦闘員、非戦闘員を問わない無差別大量殺戮兵器。

ソ連がアフガンへ侵攻した際に至るところに地雷をばら撒いて行ったが、その地雷の近くには子供用のおもちゃが置いてあったそうだ。
子供を吹っ飛ばすのが目的だったとしか思えない。
未来ある子供達を吹っ飛ばすということは民族根絶やしでも考えていたのだろうか。

第二次大戦での東京大空襲だって同じだろう。
女・子供問わずに全員の虐殺をカーチス・ルメイは考えていたとしか思えない。
ちなみにその後広島、長崎への原爆投下を指揮したのもカーチス・ルメイである。
大戦後の日本は復帰一筋で復讐の鬼とはならなかったが、非戦闘員への無差別殺人によってもたらされるのが復讐の鬼達なのではないだろうか。

折りしも、イスラエルによるガザの人口密集地への空爆は現在も続く。
ここでも白リン爆弾という兵器が使われている。
白リン爆弾は摂氏5000度を超える熱で街で焼き尽くし、その後には猛毒ガスも発生するのだという。

非人道兵器が使用されるたびに、何十人もの結城美知夫が生まれて来るような気がしてならないのだが、どうだろう。

MW-ムウ-  手塚治虫 作


13/Jan.2009
無罪と無実の間 ジェフリー・アーチャー

「無実」と「無罪」一見、同義語のように感じてしまったりしがちな言葉です。
少なくとも司法の世界では同義語ではないでしょう。]
「被告は無実を叫び・・・」、「被告は無実を訴え・・・」などと言うような報道のされ方が多いのでついつい勘違いをしてしまいます。

裁判の結果「無罪」を勝ち取ることはあってもそれがすなわち「無実」の証明を勝ち取ったことではないでしょう。
限りなく黒に近いが証拠不十分ならば「無罪」。決して「無実」ではない。
「被告の心神喪失による責任能力の欠落の結果の無罪」という場合ももちろん「無実」ではないでしょう。

「無罪と無実の間」の主人公はイギリスの勅撰弁護士デーヴィッド・メトカーフ。
エリート弁護士で数々の訴訟で勝訴し名を残した人で英国弁護士会の会長。
その弁護士があろうことか、妻殺害の容疑で起訴され法廷に立つ。
弁護人は付けずに自分自身で弁護を行なう。

検察側の証人からはデーヴィッドとって不利な証言が次から次へと出て来る。
なんと言っても犯行を見たという家政婦の証言。
一番身近な存在だけにそのインパクトは大きい。
家政婦は言う。毎晩のように酒を飲んで遅くに帰って来ては妻に暴力をふるうと。
妻は週に一回しか飲んではいけないという劇薬を処方されている。
妻がその劇薬を既に飲んでいるのを知りながら、さらにもう一錠、紅茶に溶かして彼女に与えたのだという爆弾発言。
さらに、株式投資の失敗による多額の借金をデーヴィッドが負っていた事も判明する。
妻が亡くなる事で、その遺産により借金を清算することが出来る事も。
もちろん、デーヴィッドも有能な弁護士なので黙っているわけではない。
家政婦がどれだけデーヴィッドという主人を嫌っていたか、暴力を奮っていたなどとは家政婦の妄想に等しい事。家政婦が見たという距離からは錠剤の色が識別出来なかったであろうこと・・・などなど。

判事は陪臣員に言います。
裁く(ジャッジする)のはあなた方です。
評決は陪臣員の責任です。
さぁ、デーヴィッド・メトカーフは有罪ですか?無罪ですか?

日本にも陪臣員制度が導入されます。
2009年(平成21年)5月までに開始予定ですので、あと1年と少し。
さて、選ばれた人達は有罪か無罪かなどという大それたジャッジが出来るのでしょうか。ジャッジ次第で弁護士会会長という社会的立場のある人を永久にその立場から葬るばかりか、法廷にも二度と立てないでしょうし。過去の栄光も信用も全てを失わせてしまうことになるのです。

もっとも、この法律、正確には「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」と言うらしいのですが、今年に起こるかもしれない政変次第では本当に来年に施行されるかどうか、雲行きは怪しくなって来ましたが・・。

日本のこの陪臣員(裁判員)の制度と英国の制度との大きな違いは英国の場合は陪臣員の責任のもと陪臣員が判断しジャッジを行なうのに比べて、日本の場合は一般の市民が、裁判官と一緒に(原則一般の市民6名、裁判官3名)なっての評議・評決を行なう、という点でしょう。
そうなると、どうしても裁判官の方が主導権を握ってしまうのでは?などと思えてきたりもします。

いずれにしろ、この様な「Guilty? or Not guilty?」(有罪か無罪か)などというシロかクロかの二者択一を迫られる場面などかなりレアなケースの様な気がします。
どちらかと言えば量刑の軽重を問われるケースが大半なのではないでしょうか?
15年が相応しいのか25年が相応しいのか・・・。
などとなるとますますシロウトの出る幕では無さそうな気もして来ます。
極端な凶悪犯罪で死刑が相応しいのか無期懲役が相応しいのかと問われた方がまだ意見は言えるでしょう。但しそのジャッジに参加する個々人は非常に辛い気持ちになるのでしょうね。

と、いうような事はこの本の主題とは全く関係ありません。

関係が無い事のついでに英国の司法制度について、興味ある記述がこの文庫本の解説にありましたので、簡単にふれておきましょう。

冒頭に勅撰弁護士という言葉を使っていますが、今一「勅撰弁護士」と言われてもピンと来ないのではないでしょうか。
勅撰弁護士とは「Queen's Counsel」の訳で、功績のあった弁護士に与えられる称号なのだそうです。

英国の法廷弁護士はバリシターと呼ばれる。そのバリシターは被告側の弁護に立つことも検察側に立つ事も出来るのだといいます。双方が弁護士なわけです。
また判事もバリシターから転じる人がほとんどなのだといいます。

日本でも裁判官、検察官、弁護士、皆司法試験に受からなければなれないのは同じですが、その後は官になる人、民になる人で各々立場が異なります。その後に官から民へはあっても民から官へは無い。裁判員の制度で裁判官に民をという事であれば、バリシターの様な制度も一考かもしれません。

と、全く本題からずれまくりました。この本は陪臣員制度を問うものでもバリシター制度を問うものでもありません。

病気の苦痛をこらえて夫に尽す妻。
妻の苦痛を知り妻を愛する男の愛するが故の苦悩。またその社会的立場としてのジレンマの行く末。
そういうものを描いた戯曲なのです。

有罪として裁かれればもちろん社会的生命は終りを告げるが、無罪となったとしても愛する妻の亡き人生。法廷へ立つ気力は失せてしまう。法廷へ立つ事だけが生きがいのデーヴィッドにすれば、いずれの道も社会的生命が絶たれてしまう事になる。

短い読み物ですがそれなりに読みごたえがあります。
1980年代後半に書かれたものでありながら、いまだにロンドンっ子の間では売れ続けているのもうなずけるような気がします。

尚、文庫本解説の辻川一徳さんの記述ではバリシターの説明だけで無く、ソリシター(事務弁護士)の事。英国の司法制度を丁寧に説明しておられますので、そのあたりも興味深く読めます。

21/Jan.2008
無人島に生きる十六人 須川 邦彦

船が難破し、16人の乗組員は無人島へと辿り着き、無人島での生活をはじめるが、無人島漂流を予期していたかの如く、全くうろたえない。

明治時代にあった実話なのだそうだ。

船長が立派だった。
商船学校の教官だからというわけでもないだろうが、その指示たるや、なんと漂流一日目にしてかなり計画立っているのだ。
備蓄米の消費の仕方にしてもおもゆにして1日に二杯まで、と来年の何月までは長持ちする様に、という計算。

即日で井戸ほりの役割りを指示し、方や井戸が出来るまでのつなぎに蒸溜水作りを指示する。
そして、総員に対してこれからの生活についての約束事を指示する。
・島で手に入るもので暮らす
・出来ない相談は言わない
・規律正しい生活をする
・愉快な生活を心がける
無人島へ漂着して「規律正しい生活」をせよ、と言う。
否、船長に言わせれば無人島へ漂着してからこそ「規律正しい生活」をせねば維持出来ない、ということなのだろう。
それに「出来ない相談は言わない」、これはなんでもおねだりの平成日本人には最も出来ないことではないだろうか。
それでいて「愉快な生活を心がける」というのが素晴らしい。

少し前のテレビ番組に電波少年だったか雷波少年だったかの中で「十五少女漂流記」という15人の国籍も違う少女を無人島で暮らさせる、という企画を行っていたことがあった。
テレビの企画なのであたり前なのだが、彼らの生命は保障されているし、GIVE-UPを申請すればリタイアすることも出来る。
それでも、いやそれだからなのか、同じ島で暮らす仲間のはずが、いざこざが絶えず、次々にリタイアしてしまっていた。

そんなテレビ企画では無く実話に基いたドキュメンタリーの読み物、映画もこれまでにもいくつもあったと思う。
現実は「十五少年漂流記」などの冒険物語のようにお互い助け合って、どころか、いがみ合い、対立し合い、中には仲間の人肉を喰らうような凄惨な話までもがある。

この明治の漂流16人話にしても備蓄米は満足に食えない、飲み水でさえまともな飲み水ではない、船長から総員に対して腹は八分目に食べるように指示されたところで、何日か経てば「なんであんたに指示されなきゃならないんだ」という人間が現れても一向におかしくないのにも関わらず、一人として秩序を乱す人間は現れない。

それどころか、帆布をほぐして網を作り魚を獲る。
七カイリ先までも見通せ、通る船を見逃すまいと高い砂山を作る。
海鳥の卵を集めて卵焼きを作る。
海がめの牧場を作り、三十数頭の海がめを備蓄する。
海水より塩を製造する。
それぞれ料理当番、魚を獲る当番、海がめ牧場の当番、整理整頓の当番、砂山での見張り当番、塩製造の当番・・と16人皆がそれぞれに責任を持って、規律正しく行動する。
何でも自前で調達してしまう自給力、アイデア。海の男は物知りで器用である。
そして何より精神力が強い。

またベテランも新人もそれぞれに自分一人のすることが、残りのじゅう15人の命に関わることを十二分に理解し、その責務を全うしようとする。
船長曰く「十六人は一人であり、一人は十六人である」

こんなことが可能なのも元々船長以下、漁業長、水夫長、運転士、と元々統率の取れた規律正しい航海を続けて来たことも要素としてはあるのだろうが、元来の育ちが、質素で清貧であったためでもあるだろう。

そして何より素晴らしいのがこの16名が1人の命も失わずに生還したことだろう。

海洋国日本を何より誇りに思い、如何なる逆境にあっても明るさと創意工夫と明日への希望を捨てなかったこの明治の男たちの生き様はなんと美しいのだろう。

100年に一度の未曾有の不況の到来とも言われるこの2009年の年が明けたわけだが、厭世感に浸る前に、一度この十六人の話を読む事を是非ともお勧めする。
我々の世代の言う苦境など彼ら十六人にしてみれば苦境どころか、笑い飛ばされてしまうのではないだろうか。

無人島に生きる十六人  須川 邦彦 著


04/Jan.2009
霧笛荘夜話 浅田次郎

波止場の運河のほとりにその建物はある。
別にそこを訪ねるつもりは無くても人目を避け闇を求めて歩けば自然とそこにたどり着く。
そんな立地だからこそ集って来たのではないかと思える住人が住む。

石段を五六段降りた半地下と中二階の建物。中の空気は湿気っている。それが霧笛荘と呼ばれる建物で、纏足の婆さんが大家として部屋を紹介してくれる。

「港の見える部屋」
 の千秋はひたすら死に場所だけを求めて霧笛荘にたどり着く。


「瑠璃色の部屋」
ギターリストをめざして上京した四郎。
実際にはその一歩目さえも踏み出せないでいる。
親に内緒で送り出してくれた姉への想いがせつない話です。


「朝日のあたる部屋」
やくざといえるのかどうなのかわからないぐらいにくすぶったやくざの鉄夫。
兄貴分の言い分を素直に信じて人の罪を被って何度も塀の中へ入っている。
塀の中のお勤めを終えても出世が待っているわけでも無く、全くの疫病神扱い。
そんな鉄夫が誇れるのは「カンカン虫」と呼ばれる船の汚れ落としの作業。
船に張り付いての作業で相当に体力を消耗する。
金が入り用になった時に鉄夫は得意の「カンカン虫」で金を稼ぐ。
くすぶり野郎でありながら、優しさは人一倍。
この短編の最期には泣かせられる。
ちょっとキャラクターは違うが「プリズンホテル」なんかにもそんな優しい、そして時代にそぐわないやくざが登場したように思う。


過去を全て断ち切って、捨て去ってそこで全く別人格として生きている人達の部屋。

「鏡のある部屋」
全く満たされないことなどこれっぽっちもない生活をおくりながらもあるきっかけで過去をすっぱりと捨て去り、名前さえ捨て去った眉子という女性。
自分探しの旅に出たものの・・と言ったところでしょうか。
他の部屋の住人もそうだが、一見投げやりな態度を取りながらも人への面倒見がいい。


「花の咲く部屋」 「マドロスの部屋」
花の咲く部屋のオナベことカオルとマドロスの部屋のキャプテン、この二人の物語が一番心に残ります。
オナベといえばオカマの反対でしょうか。女性でありながら男装をし、男には興味が無く、ホストのように女性から愛される職業?そういう役回りか。
カオルという人も眉子と同じように過去を捨て去ったのですが、それは眉子のような動機ではありません。
ほとんど最終的にはそうするしかなかったのではないか、と思えるほどに悲しくも辛い過去を背負った人なのでした。

マドロスの部屋のキャプテンはもっと凄まじい。
特攻で死んでいるはずの命。
神風特攻隊ではない。ボートなのです。両側に爆弾を搭載していなければ普通のボート。突撃命令を受けた時に手紙さえ出さなければ、と生涯悔やんでも悔やみきれない過去を背負います。
軍服を捨て去り、過去も捨て去り、自らの過去はマドロスだったのだ振る舞い、自らにもそう言い聞かせて生きる人。


「ぬくもりの部屋」
この霧笛荘に住む人は皆、辛い過去を抱えていますが男気といいますか、人への優しさは並大抵のものじゃない。
ましてやちょっとやそこらの金で釣られたりはしない。
大家さんである太太への優しい心配り。
人間として大切なものは何なのか、元銀行マンの地上げ屋は知ります。

霧笛荘夜話 浅田次郎著


26/Apr.2008
村上海賊の娘 和田竜

この本、2014年の本屋大賞。
全国の本屋さん達が一番売りたいと思った本。
本の目利きが最もおすすめする本なのだ。
こういう時代ものって一般受けするのかなぁ、と思いつつ読み進めていくうち、途中からもう面白さ爆発。
下巻になるともう止められない。一気読みしてしまった。

結構ハチャメチャに書いているようで、実はかなり歴史に忠実に書かれていることがうかがえる。
本文の中にも「信長公記」の中では、とか「石山軍記」の中では・・ルイスフロイスはその著書の中で・・・とか、至る所に引用文献が記載されているが、巻末の主要参考文献を見ると、その文献を羅列するだけでなんと4ページも。

この作者、この本の一つ一つの描写の裏付けにかなりの歳月をかけたのではないかと、思わせられた。

方や史実に忠実でありながら、その史実に無い行間を思う存分、好き勝手に書いちゃった感が満載。

織田信長が大坂の石山本願寺を攻める際に、攻めあぐねて兵糧攻めにしようとする。
石山本願寺は毛利家へ海路での兵糧補給を依頼する。
単に兵糧を運ぶだけなら毛利家だけでも充分なのだが、兵糧を運ぶにはそれを守る部隊が必要となる。
そこで登場するのが村上海賊。

村上海賊は来島村上と因島村上、能島村上の三家からなるが、最も力があるのが村上武吉が率いる能島村上で、ここだけは他家と違ってどの大名傘下にも属さない。

その村上武吉の娘が主人公の景(きょう)。

この主人公の活躍が最も史実から遠く、作者が好き勝手に書いちゃった感が最も出ているのがそこ。

毛利の助っ人が村上海賊なら、織田方の助っ人は泉州の地侍達で、中でも突出しているのが眞鍋七五三兵衛率いる眞鍋海賊。

この泉州侍たちの書かれ方がまたすさまじい。
この本では「俳味」という言葉で何度も書かれているが、要は「洒落っけ」を何より重視する。自らの命よりも俳味に重きをおく。

全国区ではちょっと受け入れられるのか、ちょっと心配になるのが、すさまじいまでに登場する泉州弁。
この本の泉州弁は今の和歌山弁に近いように思える。
目上への敬語が無いのは今でも紀州の特徴だ。

泉州侍達は元より織田の家臣では無いし、戦況次第ではどちらにでもすぐに寝返るのが泉州の特徴の様に書かれているが、この時代、そんなのは泉州に限らずどこでも当たり前かもしれない。

毛利側が兵糧船と戦船合わせて千艘。傍から見れば、千艘の大軍団だ。
でも実際に戦えるのは300ばかり。
方や泉州側も海賊150と陸の泉州侍が載る船が150。

村上海賊の娘が泉州の怪物、眞鍋七五三(しめの)に対して掛け合いに行く(もう戦うのんやめとこや、と交渉に行く)シーンがあるのだが、そこで物語上では七五三はまんまと千艘まるごと戦船と信じさせられるのだが、そこで七五三が出した答は、「そんなん面白ないわ」の一言。
仮に99%負けるのがわかっていても面白いか面白ないかが判断基準となる。

方や自家存続のためなら何でもするはずが、大将のたった「面白ない」だけのことでどれだけの命が失われる事か。自家はもとより味方の軍勢の命。もちろん敵の命も。

ここらあたりも史実の行間というやつなのかもしれない。

おかげで話は俄然面白くなってしまった。

本屋さんがおすすめするのむ無理無いな。これは。




村上海賊の娘 和田竜 著


06/May.2015
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