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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
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もう一度読む山川世界史 「世界の歴史」編集委員会 編集
萌の朱雀  仙道直美
黙示録 池上永一
モダンタイムス 伊坂幸太郎
物乞う仏陀 石井光太
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もう一度読む山川世界史 「世界の歴史」編集委員会 編集

高校の時好きだった山川世界史の教科書。
それが大人向けになって登場しました。

世界史が好きだったわけではないけれど、
レイアウトのすっきりした感じとか、表紙の手触りのよさとか、地味だけどなんだかいけてる気がしていた山川教科書。
それが大人のために再編集されたという事で、本屋で平積みにされているのを見た瞬間、買わなくてはと思いました。

大学受験で勉強したはずなのに、きれいさっぱり忘れてしまった世界史。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝とか、ダレだか忘れたけど名前だけ忘れられないとか、ホメイニが何したか忘れたけど挿絵の写真を覚えてるとか、そんな状態の脳みそに、『もういちど読む山川世界史』はがつんと響きそうです。

果たして頭から読み始めるべきか・・・。隅々まで読むべきか・・・。
高校生の時はとにかく全体を覚えるために、頭から隅の隅まで読みましたが、今となっては試験があるわけでもなし。
興味のあるところを探して飛ばし飛ばし、目に入ったところを流し読み。
学生の時とは違った読み方が出来る事がかなり新鮮。

あの国にあんなに嫌われているのはなぜだったっけ。
どうしてこんなにこの地域は争う事になってしまったんだっけ。
当たり前だと思われるような世界についての知識が、すこんと抜け落ちていることを実感。
少しは取り戻さなくてはと焦ります。

そして時々登場するコラムがなかなか面白い。
高校教科書にはなかったコーナーが妙にうれしく感じられます。

学生の時とは視点を変えて読む。
でもあくまでも見た目は教科書なので、ガッツリ取り組むと学生時代のしんどさがフラッシュバックするからたしなむ程度にする。
そんな感じで、これからいいお付き合いが出来そうな一冊です。



もう一度読む山川世界史  「世界の歴史」編集委員会  山川出版社


01/Aug.2011
萌の朱雀  仙道直美

過疎化の進む村でのお話。

登場する人たちも、風景もとても静か。

登場人物の感情が澄んでいて、まっすぐ入ってきます。

でもだから、とても悲しい。

ざっとあらすじ。

過疎化の進む「恋尾」に暮らす主人公みちる。
優しく物静かな父孝三と母泰代に大切に育てられた高校生。
兄妹のようにして育ったいとこの栄介に恋をしています。

孝三は、村に待ち望まれてきた鉄道の工事に長年従事していましたが、
その計画が中止となり、失業してしまいます。

それでも家族で協力して生きていこうとみなで頑張りますが、
孝三は現実を受け入れられませんでした。

多くを語らずとも理解し合い、支えあってきた孝三と泰代夫婦。

孝三を柱として暮らしてきた恋尾で
泰代は暮らし続ける事ができませんでした。

そして恋尾に暮らしてきた家族はばらばらになってしまいます。

一番印象に残っているのは、
みちると栄介がまだ子供の頃の夏、家族でピクニックへ行く場面です。
家族でお弁当を食べて、お茶を飲んで、子供たちが遊ぶ。
天気がよくて緑がたくさんあって、暑いけど木陰は涼しい。
その光景が目に浮かぶようでした。

自分の子供時代にも、家族で出かけて、母の作ったお弁当を食べてその周りで遊んだ記憶があります。

父と母の姿がちゃんと見えて、お腹がいっぱいで、完璧な安心感のど真ん中にいました。無くなるわけが無いし、壊れるわけが無いと思っていた幸せでした。

だからみちるが大切な家族を失って、家族がばらばらになっていく姿に心がじんじん痛みました。

無くなったから、ばらばらになったから、幸せだった気持ちがなくなるわけではありません。
でもできる事なら失いたくないし、今ある幸せを十分に大切にしないといけないと思いました。

そしてこの物語では過疎化についても考えさせられます。
生まれ育った土地を大切にしてきた人たちの思いが、
世間の流れにかき消されている現実があります。
過疎化の問題は都会に住んでいると忘れてしまいがちですが、
考え続けていかなければいけない問題だと再認識しました。

この本は、心がちょっと痛むけど、
心がちょっと澄んだように思える一冊です。

萌の朱雀 仙道直美著


01/Sep.2010
黙示録 池上永一

黙示録ってタイトルがものすごいインパクト。
どんな予言の書なのか、と思ってしまう。
最後まで読んでみると、「千年」の意味がやっとわかって来る。

この物語の時代は、江戸時代に遡る。
薩摩藩の侵攻を受け、薩摩藩による実質的な支配下に入った琉球王国。
その薩摩の支配下にありながらも清国への朝貢も行う。

双方の大国の狭間で大国の機嫌を取りながらも首里城の王家を維持する。

そんな立場から一転、琉球を世界のど真ん中に置こうじゃないか、と考える男が現われる。
蔡温という政治家で国師という特殊な地位を与えられる。

世界のど真ん中、と言ったって商業の中心地でも政治の中心地でも軍事の中心地でも有り得ない。
芸の世界で世界の中心たるに相応しい文化国家であろうとする。

登場するのが了泉(りょうせん)と雲胡(くもこ)という若い天才舞踊家。

彼らは楽童子として薩摩経由で大阪へそして江戸へと登り、将軍の前で踊りを披露する。
その時の大阪の描き方、江戸の描き方が面白い。
江戸ではまるで現代の芸能記者に追われる芸能人扱い。

方や清国からは冊封使(清国の皇帝が周辺国の王に爵号を授けるための使節)を迎えてまた新たな踊りを披露する。

主人公は了泉というニンブチャー(ヤマトで言うところの士農工商からもはずれた低い卑しい身分)から舞踊ひとつで這い上がった少年。
方や舞踊のエリートとして育成された雲胡とは何かにつけて比較される。

この了泉の見る天国と地獄のような浮き沈みが物語の柱。

舞踊を見た人みんながうっとりし、また感動し、涙を流し・・・というような民族舞踊は想像できないが、テレビも映画も無かった時代の人たちにとって、は目の前で繰り広げられる美しい踊りは唯一の娯楽であり、贅沢だったのかもしれない。

この話、了泉や雲胡のような個人の話は別だが、江戸幕府への使節の派遣やら、清国からの冊封使を迎えるところなど、大まかな流れとしては実際の歴史に忠実に書かれているのだろう。

ただ、ヤマトと清国の描き方から言えば薩摩は力づくで侵攻した相手なのに対して、清国の冊封使は詩を用いてこの国師を絶賛するなど、清国の方に若干好意的に書かれている気がする。
尖閣問題以降、沖縄まで中国が射程においていると言われるこの時期に出版されているだけに若干不安な気持ちも残る本ではある。



黙示録 池上 永一 著


17/Feb.2014
モダンタイムス 伊坂幸太郎

日常、普通に使っている検索エンジン。それは自分の興味を持った事、知りたい事に辿りつくための道具だ。

それが、逆の使われ方をする。

ある特定のキーワードで検索をした人をシステムの方が特定し、検索する仕掛けが構築されている。
そのキーワードで検索した人は、その人のためにあみだされた手段で大変な目に会う。
ある人は強姦魔として拘留され、またある人はSE、プログラマーという職を遂行する上で最も致命的なことに失明する。
あの男にだけは寿命などないのでは、と思われた男が自殺をし、人を拷問することをプロとして行う男は拷問攻めに遭う。


一体、背後にはどんな組織がいるのか。
どんな目的でそんなシステムを作り上げたのか。

主人公達はその正体を追いかけるわけだが、話はどんどん鵺(ヌエ)のような世界になって行く。

誰も悪いヤツなどいない。新犯人がいる訳でもない。それぞれのパーツ、パーツを受け持った部品のような連中がいるだけで、ものごと、そうなるべくしてなっている。

ヒットラーだって、ムッソリーニだって、それに対抗したチャーチルだって、みんな、歯車の一部なんだと言う。
まるで、チャップリンの映画「モダンタイムス」の中で、産業革命でオートメーション化された工場の中の工員が、これじゃまるで歯車の一部じゃないか、と言っているがごとく。

タイトルに使うだけあって、チャップリンの名言がいくつも引用される。

「ライムライト」から。「独裁者」から。

・人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。

そう言えばこの本では冒頭から「勇気はあるか」というセリフが何度も出て来ていた。

この「モダンタイムズ」同時期に書かれたという「ゴールデンスランバー」とよく比較される。
どちらも巨大権力というものに対峙しているからだろう。
でも私は「ゴールデンスランバー」より、「砂漠」を思い出してしまった。

「砂漠」に登場する西嶋という男は世界平和を願いつつも、することと言えば麻雀をひたすらピンフ(平和)であがろうとし続けることなのだが、彼はそれがどんなに小さなことであっても、目の前にある小さな悪を許さない。
小さな善を実行する。
そのための勇気を持ち続けている。
この「モダンタイムズ」を読みながら、その「砂漠」を思い出してしまった。

ここで何をしたところで、どうせどうにもならない。と諦めるか、目の前だけでも片づけるのか。


この本の舞台は今から半世紀ほど未来だが、さほど未来っぽさは感じない。寧ろ現代もののようにも思える。

いや、それどころかチャップリンの言葉のように時代を超越してしまっているのかもしれない。



モダンタイムス(上・下巻) (講談社文庫) 伊坂 幸太郎 (著)


24/Sep.2012
物乞う仏陀 石井光太

若者が海外旅行をしなくなって来た、と聞く。
海外なんて言葉も通じないし面倒臭い、とか。
いや、寧ろ海外旅行へ行くだけの金銭的余裕が無くなってきたからなのではないか、とか。

今年のゴールデンウィーク、新型インフルエンザ騒ぎが丁度GWに合わせたかの如く表れたので、海外旅行へ行く人には水を差したような格好となった。
それに輪をかけて高速道路どこまで行っても1000円の措置で国内の観光地はさぞかしどこも賑わったことだろう。

このご時世だけに国内が潤うことは多いに結構なのだが、若者が海外へ出なくなったということはなんとも悲しいことである。

海外へ出る好奇心を失ってしまうということは、そこでしか見えないもの。そこでしか感じられないもの。そこでしか体験できないもの、を得ることを放棄してしまっていることになるのではないだろうか。

もちろん、平凡な観光ツアーでありきたりの観光地巡りと土産物屋巡りだけで、「行って来ました」という写真を撮り、「行って来ました」というお土産を買うだけの旅行などしても得るものはあまりないのかもしれないが。
それよりも国内であれ、海外であれ、自分の足でする旅というものの方がはるかに価値がある。

自分の足でする旅、それも特定の目的を持って。
「物乞う仏陀」という本はそんな目的を持って旅をして来た若者のルポルタージュである。
就活を経て入社した会社を辞め、数千ドルの預金を元手に貧しい国での障害者という人達に焦点を合わせて、取材を行う。

時には若者ならではの強引なインタビュー。なんとか答えを引き出そうとする余りに相手の気持ちを慮ることを忘れた時もあっただろう。
それでもこの若者の得たものは余りに大きく、そこから発信される情報のなんと貴重なことか。
何百、いや何千という障害者や物乞いをする人にインタビューを試み、彼らの生活を直接見て、生い立ちを聞いて・・。本来の若者が持つべき猪突猛進的な面もあるが、とにかくそのエネルギーが素晴らしい。

社会福祉の親善大使だとかの名目でアフリカのハンセン病患者の施設へ訪れた某有名人が白い手袋もはずさないまま、彼らに触るどころか近づきもしなかった、というようなことをかつて曽野綾子女史が書いておられたが、そんな偽善的行為のかけらも石井光太氏は持ち合わせていない。

カンボジアでの地雷による被害者。物乞いをする人達への取材。
ここではかつてポルポト政権時代のクメール・ルージュによって大量の人民が殺戮された。クメール・ルージュは知識層と僧侶を殺戮し、次にユートピア建設の足手まといになる障害者も殺戮した。
その時代を生き抜いた障害者にはどんな人に言えない過去を背負って生きて来たことか。

ベトナム戦争時代に大量に投下された爆弾の不発弾が未だにそこらじゅうにあるラオスの少数民族の集落。

タイのバンコクという大都会の中を生き抜く障害者。

ベトナムで仏の様な老産婆と出会い。

ミャンマーではハンセン病患者の集まる集落を何度も訪れ、ついには追放される。
外国人に自らの国の恥部を見せたくない、というのは良くあることだ。

スリランカで民間で自ら障害者施設を立ち上げた人を訪れ、ネパールでは麻薬に溺れるストリートチルドレンを嘆く。

なんと言っても圧巻はインドである。

元々悲惨さに大きい小さいもないのだろうが、それでも尚、悲惨さの桁が違うように思えてしまう。
東南アジアとインド以西というのは貧しいものに対する扱いが元来違うような気がする。
東南アジアとて貧しいものは辛い事も多々あれど、貧しさを楽しむだけの救いの様なものがあるが、インド以西にはその救いが見当たらない。

ここでは石井氏はかなり危険な挑戦をしている。
その上で得た取材結果である。

ムンバイでは路上生活者がマフィアの手先に襲われ、手や足を切断されて、物乞いのに持って来いの姿にされて働かされる。
その現実を目の当たりにし、さらにチェンナイという南西部の町ではレンタチャイルドを取材する。
そこでは子供をさらい、女物乞いに貸し出す、というビジネスが行われている。
そして、その子供達が5歳になったら手や足を切り落として、自ら物乞いとして稼がせる。

子供さらいの話はこういう地域では人づてに噂として聞くことは何度もあったが、その現場、まさに子供達を飼っておくコロニーを生で取材し、手足を切断する場所までも目の当たりににして来た取材者などかつていただろうか。

なんとも凄まじい。

かつて山際素男氏の「不可触民(アンタッチャブル)」という本に出会ったことがある。
カースト制度の最下層よりも下の層はどんな仕打ちを受けようが何をされようが訴えることも出来なければ、抵抗も何も出来ない。そんな層の人達を書いた本だった。

さらわれた子供達が不可触民だったのかどうなのかは知る由もないが、いずれも「救い」というものがない。
どこの貧しさよりも桁違いなどうしようもない世界がそこにはまだあるのだった。
彼らが日本で今騒いでいるインフルエンザの事を知ったらどう思うだろうか。
いや、そんな他人事などどうでもいいに決まっているか。
全くの異世界なのだから。

東南アジアまでの話で終わっていれば、安直な支援などよりも自立する道を・・などと感想も結べたのであろうが、このインドの話はもはやそんなレベルの話を超越してしまっている。

物乞う仏陀 石井光太 著(文芸春秋)


11/May.2009
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