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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
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COW HOUSE 小路幸也

久しぶりに心暖まる話を読んだ気がする。
こともあろうに会議で上司のさらに上の役員を殴りつけてしまった主人公。

シビアなことで有名な部長は彼にクビを言い渡すのかと思いきや、バブル前に会社が購入し、売り損なったまま残されている会社保有の豪邸の管理人をせよ、という。
豪邸と言ったってそんじょそこらの豪邸じゃない。
部屋がなんと20いくつもある。
家の中で迷子になってしまうほどの豪邸。


この主人公の人柄なのだろう。

この屋敷にはだんだんと住人が増えていってしまう。
それぞれ、大きさの違いこそあれ、家庭に事情を抱えた人たち。

主人公の青年はそんな事情を抱えた人たちを救う起死回生の一手を放つ。

COW HOUSEとは別に牛小屋のことではない。
たまたま集まった人たちが丑年生まれだった、という他愛もない命名なのだが、やり手の部長はCOWに無理やりCenter of Wonder なる造語を嵌めてしまう。「この世の中の素晴らしいものの中心になる家」なのだそうだ。

この部長も暖かい。登場人物が皆暖かい。

文学少女に食べさせたら、あったかくてほんわかした蒸しパンの味わい、とでも言うのだろうか。

COW HOUSE―カウハウス


20/Oct.2009
盤上のアルファ 塩田武士

冒頭で登場するのは兵庫県の地方新聞の社会部の事件記者で、上からも下からも嫌われている、という理由で文化部へ左遷される男。

新聞記者氏は文化部で新聞社が主催する将棋や囲碁のタイトル戦のお膳立てやら、観戦記を書かねばならないが、彼は将棋も囲碁も全くのシロウト。

もう一人の登場人物はこの新聞記者氏と同年代の男で万年タンクトップ一枚の坊主頭、到底格好良いとは言えないおじさんなのだが、こと将棋に関してはアマ王者になるほどの実力の持ち主。
おじさんと言ってもまだ33歳なのだが、一般の若者たちとあい入れる要素はかけらもない。


この人の生い立ちたるや悲惨で、小学生の頃に母親は男を作って家を飛び出し、父親はバクチ好き、酒好きで、借金まみれの毎日。
借金取りから逃げ回っていたもののある日掴まり、それ以来帰って来ない。

一人ぼっちの家に別の借金取りが上がんだはいいが、金めのものなど一切無い。
フライパンならあるけど・・みたいな。
その借金取りのオジサンが将棋を一曲やろうと言う。
賭け将棋だ。
負けても払うものなど一切持たない彼は「命を掛ける」と言ってしまう。
それ以来、毎日借金取りのオジサンは弁当を持って来ては将棋を教えてくれる。

その後も伯父一家に引き取られたはいいが、捨て猫以下と言ってもいいほどの扱いを受けるという過酷な少年時代を送って来た。
そんな生い立ちの男なのである。


冒頭の新聞記者氏とこの丸坊主男が出会い、なんと同居する・・・という話の運びなのだが、そのあたりを読んでいる雰囲気では、ボケとツッコミのやり取りみたいな軽いタッチの読み物だとばかり思っていたが、そうでは無かった。

この丸坊主氏を巡っての感動の物語が繰り広げれられる。

丸坊主氏はなんとプロ棋士を目指すのだ。

プロ棋士になるには年齢制限があるらしいのだが、年齢制限を超えた人にもほんの針の穴を通すような狭い門だが、プロになる方法があるのだという。

かなり高いハードルなどという言葉では足らないだろう。
未だ一人もそのハードルを越えていないというのだから。


それにしても将棋の世界、いや将棋だけではないのかもしれない。
プロ野球にしたってサッカーにしたって、相撲にしたって似たようなものかもしれない。

一旦勝負師の世界を目指した者は、その勝負師の世界で勝ち残れなかった時、大半が勝ち残れないのだろうが、それがそこそこ年を取ってしまってからでは、他の職業に簡単につけるものではないだろう。

野球やサッカーにはまだ、少年向けのチームのコーチみたいな道がもしかしたらあるかもしれない。

将棋や囲碁ならどうなんだろう。

将棋クラブで雇ってくれたりするものだろうか。
囲碁なら碁会所で先生なりの職業があるのだろうか。

いずれにしても中卒33歳の彼にはプロを目指す道は、後の無い厳しい道なのだ。

それと同時に彼の対戦相手になる若手にしたって、年齢制限の26歳までに三段リーグへ登らなければ、プロへの道は断たれる。
彼も必死なら相手相手も必死なのだ。

この本、神戸から大阪までの阪神沿線の良く知っている地名が多々出て来て親しみが湧いてしまったというのも気に入った点ではあるが、それより何より、序盤の出だしはかなり軽い読み物を思わせるながらも、最終的には勝負に生きる男の生き様を存分に楽しませてくれる一冊である。


盤上のアルファ 塩田 武士著 第5回小説現代長編新人賞受賞作


20/May.2011
キノの旅 時雨沢恵一

キノという若者が相棒のエルメスと一緒に旅をするお話。
相棒のエルメスというのはてっきり人間だとばっかり思っていたら、「モトラド」と呼ばれる二輪車:話すことの出来るオートバイみたいなものだった。

キノは一つの国での滞在期間は三日と決めている。

その一つ一つの国の三日間が小編として一話、一話のお話になっている。

国とはいってもその規模は集落といった単位だろうか。

なんだかとても不思議な世界。
新しいグリム童話みたい、ってちょっと表現が違うか。
旅という要素を取ってしまえば、星新一のショート・ショートを彷彿とさせる様な小編もある。

物語それぞれにアイロニーが込められている。

人の痛みが分かるというのは良いことのはずなのだが、人の痛みが、人の気持ちが、分かりすぎるのも考え物といったところなのだろう。「人の痛みが分かる国」

多数決というのは民主主義の基本のような話だが、それがエスカレートしてしまうと・・・と多数決を皮肉った「多数決の国」、ま、でもこの内容は多数決の皮肉というわけでもでもないか。

キノとエルメスの出自はここに有った。「大人の国」

平和、平和とはなんだろう。最も貴重であることの平和。
平和を維持するためにはその代償としての犠牲が不可欠なのだ。「平和な国」

それぞれがなんとも逆説的で面白い。
そこまでの意図など毛頭もないだろうが、エセ平和にエセ民主主義という戦後の日本の姿を皮肉ったと読めないこともない。
一巻目は全く期待もせずに読んだので、思ったより面白かったという評価変じて過剰な評価をこのシリーズ本に与えてしまったのかもしれない。
シリーズ、二巻目、三巻目、四巻目・・・と読み進んではみるうちに、確かにアッと言う間に読めてしまう軽さ、それなりの面白さはあるのだが、毎回「xxxの国」からこちらが勝手に期待してしまうようなアイロニーから言えば、少々物足らない。
◆「差別を許さない国」、これなどはさぞかし痛烈なアイロニーが込められているんだろうな、と言う過剰な期待からは大幅にはずれてしまったし。
まぁそれはこちらが勝手に期待した事なので、作者にも出版社にも責のあることでもなし。

◆「同じ顔の国」・・・これなどはなかなか新鮮かもしれない。と敢えて内容には触れない。
◆「仕事をしなくていい国」・・・これ、現実にこの地球上に存在しますよ。
本の中の仕事をしなくていい国とは少々意味合いが違いますが、中東の石油産油国の中にあるドバイという国がまさにそう。
国民は全く働かなくても構わない。
働くのはインドや東南アジアから出稼ぎに来ている外国人のみ。
税金を払う必要も無し。家までも国から提供される。

そしての中心にあるドバイという都市は砂漠の中に誕生したまさに夢の都市。
この夢の都市でも今や世界規模で拡がりつつある雇用不安の波が押し寄せ、出稼ぎ労働者に解雇の嵐だとか、いったいどうなってしまうんでしょうねって、いつの間にか本の話題から逸れてるし。

第一巻目の中の「レールの上の三人の男」という話、途中からだいたい先が見えてしまうのですが、こういうショート、ショートってなかなか面白い。

人間に与える苦痛の中で一番辛いものは何か、ひたすら穴を掘らせるだけ掘らせ、それを何に利用するでもなく、次にはひたすら埋めさせる、その行為の連続だという。
でもそれは自ら掘った穴を自ら埋めているからこそ感じる虚しさであって、自分はひたすら掘るだけ掘ってそれは誰かの役に立つと信じ、その後で誰かが埋めるだけ埋めていたとしても、それに似たようなことというのは存外に社会の至るところに存在したりして。


キノの旅  時雨沢恵一 著


22/Dec.2008
哀愁的東京 重松清

取材対象となる人達は皆、もの哀しい。
新作の絵本を描けなくなってしまった絵本作家が、文章を切り売りするフリーライターとして取材をする、という事で話としては繋がってはいるが、個々の取材や話はいずれも短編として成立している。

その全てがもの哀しい話なのだ。
かつては人気を欲しいままにして来た人が下降線を辿り、もはや終ってしまっている事に自分でも気が付いている。
「注目を浴びているときって、こっちからは何も見えないんだ。・・・俺の方から見ると自分しか見えない。でも落ち目になると・・だんだん透けて見えるようになるんだ。・・みんなが俺にそっぽを向いているのがわかるんだ・・」

若くして億の年収を手にし、ネット起業家として独立して一時はカリスマ的な存在になったものの業績悪化で破滅寸前の起業家社長。
上の言葉は「学生時代に戻りたい」とつぶやく社長の言葉。

もうすぐ閉園する閑散とした遊園地のピエロ。

デビュー当時はミリオンヒットを連発させたが、もはや人気は下落し、あとは解散を待つのみのかつての人気アイドルグループ。

かつての人気週刊誌の編集長。その週刊誌も廃刊となり編集長も更迭される。

昭和の歌謡曲のヒットチャートを独占して来た往年のヒットメーカー。

テレビでのデビューでマジシャンとしての成功を夢見て東京へ出て来、挫折してカクテルバーで客相手にマジックを披露するマジシャン。

自信を喪失したエリートサラリーマン。

お呼びがかからなくなっても続けているかつての人気NO.1のSMの女王。

そう、どれもこれも皆、もの哀しい話ばかり。

自信を喪失したエリートサラリーマンは言う。
「俺が目の前のこいつでも、隣のあいつが俺でも、その隣のあいつが目の前のこいつでも何も変わらないだろ。誰も困らないだろ。・・・・俺のやっている仕事だって別の誰かがやれる・・・」
痴漢行為をする事で唯一生きている実感を持つとはもはや救いようが無い。

主人公も似たり寄ったりで、自分が消えたとしても他の誰かが書いているだけ、雑誌は何事も無かった様に店頭に並んでいるだろうと・・。
主人公の唯一の救いはいつかは書かれるかもしれない新作の絵本とそれをひたすら待ってくれている編集者のシマちゃんの存在か。
「今日」の哀しさから始まる「明日」の光を描く連作長編と謳い文句にあるが「明日」の光はいったいどこにあるんだろう。新作絵本の構想が明日の光?

「自分は居ても居なくてもいい存在」
「自分は何の役にも立たない存在」

古い映画だが「道」というイタリア映画があった。
大道芸人のお供として旅をする幼い子どものままの頭脳しか持たないジェルソミーナが、
「自分は何の役にも立たない存在」だと言った時に、
「この世で役に立たないものは何ひとつない。この石でさえ何かの役にたっている」
と返されるシーンを思い出した。

居ても居なくてもいい人間などいない。何の役に立っていない人間などいない。
代わりの聞く人間などいない。

少なくとも私の知っている限りにおいては。
私の代わりなど私の会社には居ない。
他の人間も皆そうだ。
きれいごとだろうか。
だが真実だから仕方が無い。
私の所属する会社には代わりのきく人間など一人も居ない。
それでは会社としての危機管理が・・という向きもあるかもしれない。
だから会社は存続はするだろう。
だが、誰かを失ってしまった後は、失った何かを引きずっての存続であって、消して元の状態にでの存続には戻れない。

もとより読者も作者もそんな事は百も承知だろう。
言わずもがなの事を書いている。

俺が目の前のこいつでも、隣のあいつが俺でも何も変わらない誰も困らない、そう言う不安を常に抱えているのが現代人であり、その象徴とも言えるのが哀愁のかたまりの東京なのか。

なんとももの哀しい話である。

哀愁的東京  重松 清 (著)


09/Feb.2007
赤ヘル1975 重松清

往年の広島カープファンには、たまらない一冊だろう。
山本浩二や衣笠などの有名どころは誰しも知っているだろうが、大下だの外木場だの池谷だのという名前は今日メディアに取り上げられることはもちろんないだろうし、人のウワサにのぼることもそうそう無いだろう。
そんな選手の名前が連呼される。

1975年という広島にとって記念すべき1年。
原爆投下から30年。
カープ創設から26年間、下位に低迷していたチームが初めて赤いヘルメットを被って赤ヘル軍団となってセリーグ初優勝を果たした年だ。

直前の3年間は最下位。前年は他の全チームに負け越し。
断トツの最弱チームだったのだ。

とはいえ、この物語、初優勝を飾った広島カープの赤ヘル軍団が主人公なわけではない。

主人公は東京から転校してきた中学生。
彼はもう数えきれないぐらいに転校を繰り返している。
父親が怪しげな商売にはまっては失敗し、借金を抱えては夜逃げ同然で逃げ出して新天地を求めるからで、それぞれの転校先では友達をつくるひまもない。

そんな彼が、広島の中学生と友達になろうとする。
原爆の被害について理解しようとするが、なかなかに話が踏み込めない。
それは自分が「ヨソもん」だからなのか、と自問する。
広島の子は「ヨソもん」に原爆のことを耳学問だけで語られるのを嫌う。
また、地元の広島の子であっても実は30年前のこととなると、やはり耳学問でしかないだが・・・。

友達になった酒屋の子の「ヤス」という少年。口は悪いが友情にあつい。
主人公の父親は、それは誰がどう聞いてもマルチ商法だろう、と思う商売に乗っかって、息子の友人「ヤス」の母親からなけなしの金を引き出させてしまう。
主人公君にはなんとも酷な状況である。
それでも「ヤス」は連れであることをやめようとはしないし、「ヤス」の母親も優しいままなのだ。


1945年の8月6日に投下された原子爆弾。
その後、もはや草木も生えないだろう、と言われた広島の街が30年の間にみるみると復興して行く。

例年8月になると広島には平和運動家なる人たちが集まり、核廃絶を声高に叫ぶ。
平和を愛する人たちは、原爆の被害者たちが生きている間にその話を残そう、絵を描いてもらおう、と呼びかけるのだが、実際に原爆を体験した人たちは極めて寡黙である。

自ら語りたいとも思わないし、描きたいとも思わない。
あまりにも惨い状態だったので、思い出すのが辛くてたまらないのだ。

だからと言って、どんどん復興して行って当時の姿がまるで忘れ去られたかの如くに消え去ってしまうのも、またなんだかくやしい。


この物語、転校して来た中学一年生の男の子と地元広島の少年たちとの友情の話。
戦後30年、復興して来た広島と共に歩んで来た広島カープの存在。
友情と原爆とカープの初優勝、この三つがからみ合って成り立っている。


私はカープファンでも無ければ、今や野球ファンでもないが、この本を読むとカープファンがたまらなく好きになるし、広島という街そのものが大好きになる。
そんな一冊だ。


赤ヘル1975  重松 清 著


04/Mar.2014
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