読み物あれこれ(読み物エッセイです) 検索エンジン MMI−NAVI

読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
Nov.2017
S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
著者検索
+ ア行
+ カ行
+ サ行
+ タ行
+ ナ行
+ ハ行
+ マ行
+ ヤ行
+ ラ行
+ ワ行
作品検索
+ ア行
+ カ行
- サ行
+
+
-
水深五尋 ロバート・ウェストール
水神(すいじん) 帚木蓬生(ははきぎほうせい)
数学的帰納の殺人 草上仁
数式に憑かれたインドの数学者 デイヴィッド・レヴィット
スクラップ・アンド・ビルド 羽田圭介
スコーレNo.4 宮下奈都
涼宮ハルヒの陰謀 谷川 流
涼宮(すずみや)ハルヒの退屈 谷川 流
スナーク狩り 宮部みゆき
スプートニクの落とし子たち 今野浩
+
+
+ タ行
+ ナ行
+ ハ行
+ マ行
+ ヤ行
+ ラ行
+ ワ行

第二次大戦中の物語。
ドイツのUボートが現われるイギリスの港町が舞台。
主人公の少年は自国の貨物船が撃沈されるにあたって、この港町のどこかにドイツのスパイが居るのでは?と疑い、自ら捜査を始める。

と書くとまるで愛国少年、軍国少年のようだが、やがては自国の権力者達を嫌悪するようになる。

「水深五尋」というタイトルだから潜水艦の中まで冒険する物語かと思ったのだが、そうでは無かった。
舞台は陸上である。
寧ろ、Uボートにまつわる冒険話などではなく、国内の移民や様々な階層の人たちの有りようを描いている。

イギリス国内にもアンタッチャブルとも言えそうな、警察も手が出ない地域があったりする。
そんな中でのスパイ捜しは少年にとって危険でないはずもなく、それが冒険話として語られている。

スパイ捜しはともかくもその舞台となる地域でのことは著者自らが体験した話なのだと著者は書いている。

それにしても何故?
何故この本が本邦初訳なのだろう。
戦後60年以上経過し、既に著者も10数年前に亡くなっている。

日本人を敵視している表現があるから?そんなわけはない。
当時は敵国だったわけだし、戦中ならともかくも。
2009年になって何故今頃初訳なのだろう。

もう一つ、何故?
あのスタジアジブリの宮崎駿氏が表紙を飾り、挿絵を書いている。
もちろん、といえばもちろんながら隣のトトロ風でも無く、風の谷のナウシカ風でもない。
何故今頃挿絵なんて書いているんだろう。

と、物語の本筋とは違うところでどうしても何故?が発生してしまうのである。


水深五尋 ロバート・ウェストール著 宮崎駿 (イラスト)  金原 瑞人 (翻訳)  野沢 佳織 (翻訳)


03/Dec.2009
水神(すいじん) 帚木蓬生(ははきぎほうせい)

九州は久留米有馬藩の江南原と呼ばれる地域一帯。
筑後川と巨勢川という豊かな川水が側を流れながらも、台地であるために、川水は見事に迂回してしまう。

そのために農作物の育ちは常に悪く、お百姓さんは貧しく、常に飢えているような状態。
この本では今では滅多に使われない百姓という言葉が平気で使われている。
農家の人、農業を営む人、農民、確かにどの言葉に当て嵌めても、この時代を描く風景にはフィットしない。もし差別用語だとでもいう理由でこの言葉が消えつつあるのなら、ここではせめて彼らに敬意を込めて「お百姓さん」と記すようにしようか。


水飲み百姓という言葉があるが、この地域の人々は水汲み百姓(いや水汲みお百姓さんか?)と言っても過言ではないほどに、水の供給にかなりの労力を強いられる。

その最も極端なのが、打桶という過酷な労働。

筑後川の土手に二人の男が立ち、四間〜五間という高さから桶を川へ落とし、わずかもこぼさずに川から水を汲み上げ、田畑へと繋がる溝へ流し込む。

1間が180cm程とすれば、7m〜9mの高さから水を汲み上げていることになる。
しかもまだ皆が働き出す前から、働き終えて家へ帰る時間までその作業を続ける。

大雨でも降れば別だが、年がら年中、その作業を朝から晩まで、しかも一旦その成り手になると死ぬまで続けることとなる。

そんな途轍もない過酷な労働をしたところで、田畑に水が行き渡るどころか、ほんのおしめり程度の雨ほどの効果もない。

ただ、彼らが来る日も来る日も自分たちのために水を汲んでくれているその姿と「オイッサ エットナ。オイッサ エットナ」の響き渡る掛け声に励まされて、他のお百姓さん達は労働を続けている。


そんな過酷な状況を打破しようと動いた5人の庄屋。

この江南原に水を引くことはここに住む人たちの永年の夢である。

上流からなんとか水を引き込めないか、と水路を精緻な図面に起こした一人の庄屋。
それに意気投合した残り4人の庄屋。
内一人は美文家で、上流にての堰の構築についての藩への嘆願書をしたためる。

その嘆願書を読んだ普請奉行がとうとう5人の庄屋を城へ呼び、意見陳述をさせる。

藩は藩で財政赤字に苦しんでいることを城へ行く途中で知った彼らは、藩に資金を頼まず、自らの身代を投げ打って工事費にあてる決意を固める。

水飲み百姓は苦しんで田畑から実りをあげ、その実りの大半を庄屋が上前をはね、そこから年貢を納める、庄屋さんいうのは百姓であって百姓でない、いい御身分の様に考えられがちだ。
実際には中にはそういう例も多々あるのだろうが、おそらく大半はここに出て来る庄屋さん達のように、いかにお百姓さん達が飢えずに暮して行けるのか、を考える村長(むらおさ)的な存在ではなかっただろうか。
庄屋という稼業、お百姓さんに尊敬される存在で無ければ、お百姓さん達はその地を逃げ出して行ってしまう。

それにしても身代投げ打って、というのは凄い意気込みだ。

この五人の中でも気持ちは確かにそうだったかもしれないが、中にはまさかそこまで・・という気持ちの人も居たかもしれない。
城へ上がり、訴える内に、一人が言い出したら、皆、後へは引けないみたいな部分もあったのかもしれない。
それでも腹を据えてしまうのだ。

一旦言い出した以上は二言は無い。
武士ではないがその気概は、お役人たる武士をはるかに上回っている。

この工事の着工にあたっての決め手は、自らの命を投げ打つ覚悟、失敗すれば、すってんてんの丸裸になるばかりか、磔になっても構わない、という血判状である。

これを持って藩は工事着手を決める。

なんという意気込みなのだろう。

そして、自ら言い出したこととは言え、堰の工事現場には5本の磔台が高々とそびえ立つのだ。
一体全体何のためにそんなことまでするのだろう、と訝しむのだが、案外別の効果があったりする。
堰の工事に反対した庄屋たちが毎日それを目にするような場所にその磔台にあったのだ。まさか意図したわけでもないだろうが、反対した庄屋たちはそれを目にする度に自責の念と五庄屋に対する自責の念にかられて行くのだ。


筑後川という大きな川への堰工事という当時では途轍もない大工事であったろうに、地域三郡から参加したお百姓さんたちが皆、反対派も賛成派も競って溝工事を進めて行く。
水が来ることを如何に切望していたか、嫌々借り出された賦役とは意味が違うのだ。地元の人ばかりではない。他所からの助っ人組も五庄屋の気概を粋に受け止めたのか、全員志気が落ちない。


この本に書かかれていることは元は史実だったのだろう。
どこからどこまでが史実なのかは定かではない。
口語で語っているところや、応援してくれる老武士などは架空かもしれない。
では嘆願書の文章やらはどうなのだろう。
作者によるあとがきもないし、かなりの文献をあさって書いたのであろうに、参考文献の一覧もないので、わかりかねるが、この地域のお百姓さんの暮らしぶり、食べもの・・至る所、まさに取材でもしてきたかの様な信憑性がある。

現代が先人たちの労苦の遺産の上で成り立っている事は承知している。
その先人たちとは名を為した人たちばかりではない。
この登場人物たちは、幕末や明治維新で活躍したようなお国のために何かを為そうとしたわけではない。

自らの領内のお百姓さんやその子々孫々のためを思って自らを投げ出し、結果周辺三郡の皆を水で潤わせた。

著者はよくぞこの方々を発掘してくださったものだ。
著者の労苦にも感謝!



水神(上・下)卷  帚木蓬生著 新潮社 第29回 新田次郎文学賞


28/Sep.2011
数学的帰納の殺人 草上仁

なんだかものすごい知的な読み物を読んだ気がします。

登場する新興宗教教団の教えは至極まっとうなもので、危険な臭いはしてこない。
・分かち合わなかればならない。
・収奪してはいけない。(収奪には同等の償いが必要)
・助け合わなければならない。
・思い悩んではいけない。
・個として重んじられるべき。
・但し自己を破壊する自由だけは認めない。

とはいえ、どんなカルト教団だって表面的な教義は至極もっともなことを書いているのだろうから、そんなものは信用に値しないのかもしれません。

ところが、この数学的帰納法(果たしてその表現が妥当なのだろうか)によるとこの極めてまっとうに見える教えであっても、一歩地雷を踏んでしまうと果てしもない連続殺人の教義となってしまう、というとんでもないお話なのです。

そのロジックを荒唐無稽と言ってしまえばそれまでなのですが、かつての世の中を騒がせた某オウムにしたって、エリート集団がとんんでもない荒唐無稽な行為に走ってしまったという現実も一方ではありました。


教祖は元財界の大立者で善人そのもの。
信者の誰にも悪意のかけらも無い。

この本では、航空機疑惑で失脚した元総理、その総理の資金源であった昭和の大政商、揉み消された航空機の構造的欠陥・・・などなど実際に有った話を仮名でいくつも登場させている。
それがオウムだけは仮名になっていない。
あの事件はもう歴史の彼方ということだろうか。
まだまだ歴史の彼方にはなっていないと思うのですが・・・。

それにしても大政商になった人の頭の中に世のため人のために資財を投げ打って教団をつくろう、などという発想が出て来るものでしょうか。
税金逃れの目的で宗教法人を作るならまだ納得できるのですが・・。
あの大政商の顔を思い出すと尚更。
航空機事故で亡くなった人の遺族への償いの気持ちで身を焦がす思いになるなどというナイーブな感情が出てくるタイプには到底思えない。

それは、まぁそういう設定の小説なのだ、というところで本来の突っ込みどころではないのでしょうね。

突っ込みどころはやはり数学的帰納法を用いて生まれた奇妙なロジックによる荒唐無稽な行動でしょうか。
どうしても「そんなやつおらんやろう」と突っ込みを入れたくなってしまうのです。

そんなこんなはさておき、この本、いろいろと勉強になります。

ピタゴラス学派の話有り、素数の話有り・・・と数学好きにはたまらないかもしれない。暗号の解説などでは、「カルダン・グリル」という暗号については図解で説明されているので非常にわかり易い。


惜しむらくは、最後の方の再度一からの種明かしをする一連は蛇足としか思えないのですが、必要だったのでしょうか。

種明かしはそれまでのストーリーの中で、過去を舞台に現在を舞台にした話の中で出来ていたでしょう。

まぁ、あらためて、という方にはいいのかもしれませんが。

最後の締め括りの部分に関しては・・・何も申しますまい。
そういう結末もありでしょう。



数学的帰納の殺人 ハヤカワ・ミステリワールド 草上仁 著


08/Dec.2009
数式に憑かれたインドの数学者 デイヴィッド・レヴィット

数学という学問、中学・高校までなら論理的思考を身につけるための学問という大義名分があるが、その先の課程、専門課程として取り組む数学やその先を行く数学者と呼ばれる人達が生涯をかけて成そうとする証明。
その証明が出来たところで、世の中何が変わるわけでもない。
誰が得をするわけでもなく、昨今話題を振りまいた「STAP細胞」のように、存在すれば世の中が大きく変わるといったこともない。まぁ、たいていの場合は。

仮に素数の成り立ちを数式で表し、それが正しい事を証明できたとしても、喜ぶのは世の中のほんの一握りの数学者、もしくは数学者を目指す学生達ぐらいのものか。

インドに生まれた天才数学者、ラマヌジャン。
この本、ラマヌジャンの評伝だということだったが、ラマヌジャンのことより、ラマヌジャンをインドからイギリスへ呼び寄せたケンブリッジ大の数学の教授ハーディの周辺の記述の方がはるかに多い。

ハーディの性癖(同性愛者なのだ)とハーディの周辺、そしてハーディから見たラマヌジャン。
そんなハーディ中心のタイトルの方がフィットする。

こお本ではラマヌジャンの偉業よりも彼がイギリスへ来てからの食事の悩みや体調の悩みの方が文字の分量としてかなりウェイトが高い。
大昔、ガンジー伝を読んだ時に、ガンジーがイギリスで学ぶ時にそんな食事の悩みなどという記述があっただろうか、さっぱり記憶に無い。
まぁ、食事の悩みや体調の方をメインにするのは致し方ないのかもしれない。
彼の思い付く算式をえんえんと書かれたって、読者には何のことやらさっぱり、なのだから。

ラマヌジャンには数式が湧いて出て来る。
数式が舞い降りて来る。
彼曰く、ヒンドゥーの女神ナマギーリが彼に数式を示すのだそうだ。
彼は証明が苦手。
ハーディは彼に証明の大事さを教えようとする。

だが、もし数式が勝手に舞い降りて来るのなら、その証明などどうやって出来ようか。

ラマヌジャンが数式を導き出す課程が本当にそのようなものだったのなら、ラマヌジャンにとって数学とは冒頭に書いた論理的思考を身につけるための学問でさえ無いということになってしまう。

この本はノンフィクションではない。

とはいえ、この時代について作者はかなり念入りに調べたのであろう。
第一次大戦前や、大戦中のイギリスという国の空気、ケンブリッジの周辺の空気などがかなり濃密に伝わって来る。



数式に憑かれたインドの数学者 上・下 デイヴィッド・レヴィット 著  柴田 裕之 訳


27/Jun.2014
スクラップ・アンド・ビルド 羽田圭介

又吉氏の「火花」と同時に芥川賞を受賞した作品。

母親が働きに出て、息子は一旦は就職はしたものの、辞めてしまい現在中途採用の就職活動中の無職。
そんな二人家族のところへ要介護老人の祖父が転がり込んでの三人の生活。
母が実の父である祖父を邪険に扱うのだが、これがなかなかにリアルなのである。

祖父が薬を飲もうと、水を所望したところしたら、
「自分で汲め!」
「そんな薬、飲んでも飲まんでも同じやろうが・・・」
「これみよがしに杖つきやがって」
みたいな。

それに対して祖父の方は、
「自分なんか早よう死んだらええ」
「もう死にたい」
「早ようお迎えが来んかな」

こんなやり取りに対して息子はある時、ふと目が覚めた。
自分は今まで、祖父の魂の叫びを、形骸化した対応で聞き流していたのではないか。
毎日天井や壁だけを見ている毎日など、生きているだけ苦痛だろう。
「死にたい」というぼやきを、言葉通りに理解する真摯な態度が欠けていたのではないか、と。
祖父の「死にたい」という気持ちをかなえてあげられるのは自分しかいないのではないか、と考え始めてしまうところがこの息子の面白いところ。

となると実現に向けて突っ走る。
過度な介護を行うことで、筋力を衰えさせようとか、思考能力を低下させようとか、画策し始める。
これを足し算介護と本人は呼んでいる。

方や、デイサービスなどの介護は歩ける人も車椅子に載せ、同じような足し算介護をやっているのだが、一見優しさに見えるその介護も動機が違う、とデイサービス職員に対しては、批判的なのだ。

介護老人が年々増え続ける、今日だ。
そりゃ早く死なせてあげなきゃ、と考え始める人が出て来てもおかしくはない。
しかしそれを実践しようという人は身内の介護に疲弊しきって、このままじゃ自分もダメになる、と追い込まれた人だろう。

この青年ほどに祖父の事を思いながら実践しようという例は皆無ではないのだろうか。
祖父は予科練から特攻隊へ行くはずだった。だから生への執着などあるはずが無い。
誇り高い特攻隊の生き残りにちゃんとした尊厳死を、と真剣そのものなのだ。


それにしてもこの祖父・母をはじめとする周囲のやり取り、あまりに生々しく実体験してないものにはなかなか」書けないだろう。

こちらの受賞そのものは又吉氏フィーバーでほとんど騒がれることも無かったが、面白さの点ではこっちに軍配かもしれないな。




19/Oct.2015
    12 >>