読み物あれこれ(読み物エッセイです) 検索エンジン MMI−NAVI

読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
Oct.2017
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
著者検索
+ ア行
+ カ行
+ サ行
+ タ行
+ ナ行
+ ハ行
+ マ行
+ ヤ行
- ラ行
-
ラジ・パテル
-
リチャード・スターク
-
 
-
レイモンド・チャンドラー
レスリー・T. チャン
連城三紀彦
-
ロバート・ウェストール
ロバート・ガルブレイス
ロバート・ケネディ
+ ワ行
作品検索
+ ア行
+ カ行
+ サ行
+ タ行
+ ナ行
+ ハ行
+ マ行
+ ヤ行
+ ラ行
+ ワ行
肥満と飢餓 ラジ・パテル

世界では10億人が飢餓に苦しみ、10億人が肥満に悩む。

貧困に苦しむ世界の農民。その元凶は世界のフード業界の1/4のシェアを上位数社で抱え込むと言われる巨大なフードビジネスコングロマリットの存在。

原産地でキロ当たり十数セントで売られるコーヒー豆、地元の加工業者や流通業者の手を経てもなお、キロ当たり何十セントとドル未満のものが、一旦ネスレへ納入されるとその価格は一挙にキロ当たり16ドルと20倍以上に跳ね上がる。

それは一例。

各国の農民は、フード・ビジネスやら、国やら、銀行やらから借金漬けになっており、それが貧しさから抜け出せない要因なのだという。
まさにプランテーションの頃そのままのことが現在も続いているということなのか。

アメリカの農民にしてもまるで、スタインベックの「怒りの葡萄」の頃のままだと言う。
巨大フード産業も足腰は案外もろい、と筆者は書く。
例えば、原油の値上げなどで足元をすくわれる可能性もあると。

では、今年の1月よりチュニジアから始まった、反体制派デモによる中東地域のデモの頻発により、エジプトも政権崩壊。リビアでは未だに政府対反体制派の抗争が続き、まだまだ、他の中東の国への波及も想定される今現在はどうなのだろう。
原油価格は既に上がり始めている。


昨年あたりより、コーヒー豆などは新興国での需要が増えたことも有り、品薄状態。
オーストラリアの自然災害により小麦の品薄。
それに原油高は他のいろんなものの価格高に繋がることは必須だ。

これらは巨大フード産業にどんな影響を与えているのだろう。
ネスレは早々とコーヒー価格の値上げを発表したが、これはぼったくりをさらにぼったくる、ということなのだろうか。



日本でもこの春からコーヒー、小麦、ガソリンに限らず、かなりいろいろな品が値上げになりそうな気配である。
日本は長期間デフレ脱却を目指していたはずなのだから、少々のインフレに過剰反応する必要はないだろう。
このところのメディアは過剰反応しすぎの感がある。

筆者は従来の途上国の農業水準を大幅に上げたであろう「緑の革命」にも懐疑的である。
「緑の革命」によって化学肥料に頼らざるを得なくなった極貧農家はさらなる借金漬けにされてしまったのだろうか。
その後の遺伝子組み換え技術の話などでは、その生態が何十何百億年かかって築き上げた遺伝子情報をいうものに、ほんのちょっと手を加えただけで、まるで遺伝子情報そのものの特許までを組み換え技術会社が持っているかの如くの態度に憤慨されておられる。


この筆者の主張では「関税自由化が即ち悪なのだ」とも取れる発言が至るところで登場する。

韓国で農業貿易自由化に反対し、抗議の自殺を遂げた農民活動家、イギョンヘ氏の話を持ち出し、それが各国の農民に共通するような記述。
これはどうなんだろうか。
韓国は自由化への道を選択し、そしてその選択の後にちゃくちゃくと勝利をものにして来ている。
農業自由化の際に反対意見があったのはもちろんだろうが、規制緩和・自由化によって、農民に餓死者が出たなどと言う話は聞かない。

規制がある=官の支配強化=官を抱き込んだ巨大企業に有利。
最貧国の官などでは巨大企業の袖の下など、ごく当たり前のことだろうし。
という図式を考えれば、規制が緩和されること即ち、巨大企業以外にも参入の余地有り、ということは考えられないのだろうか。


フード産業についての歴史を読み解く本としては分かりやすく素晴らしいと思うのだが、その主張せんとするところについては、やや個人的思いが強すぎる感が有り、かなり割り引いて読む必要がありそうな本である。




肥満と飢餓  世界フード・ビジネスの不幸のシステム  ラジ・パテル (著), 佐久間 智子 (翻訳)


07/Mar.2011
悪党パーカーシリーズ リチャード・スターク
「悪党パーカー/人狩り」そもそもこれが始まりの一冊。
一匹狼の強盗男のパーカー。
アメリカの全国組織であるマフィアが相手だろうが全く怯まない。
マフィアに逆らうこと、すなわち、アメリカ中を敵に廻すことなのらしい。
なんでもマフィアの連中というのは郵便局員並みにそこら中に居るのだとか。
たぶん警察官よりも多い、ということなのだろう。

ボスクラスのところへ単身乗り込んで親分を脅す。
そのボスクラスで話にならないとさらにその上のボスクラスを脅す。

元はと言えば、その子分に強奪した金を奪われたからで、脅すというより、
「俺の金を返せ」という取り立てをやっているわけなのだが。

そこで伊坂の陽気なギャングだったら、
「だから、それはもともとあんたのお金じゃないって」
って突っ込みが入るところなのだが、パーカーの世界ではそんな突っ込みを入れる人物は登場しない。

訳者があとがきで書いているが、本来「悪党パーカー/人狩り」、これで完結する話だったそうだ。
パーカーが最後には死んでしまうストーリーだったとか。
連載の要望強く、ストーリーを曲げて、パーカーシリーズは続いて行った。

マフィアのボスをも恐れない男。
その先どんな話が続いて行くのか。
「悪党パーカー/殺人遊園地」これなども現金輸送の装甲車から金を強奪する。
仲間と言ったって元々一匹狼の集まりだからどんな連中が揃うかわかったもんじゃない。運転手役の男が逃走中に焦ってカーブで車を横転してしまう。

逃げる先は休園中の遊園地。

遊園地各テーマパークにいろんなしかけを使って追っ手を退けて行く。
遊園地ならではのしかけでなかなかに面白い。

さらには「悪党パーカー/殺戮の月 」
「殺人遊園地」では隠した金をいつか取り戻しに行こうと追っ手から逃げるのがせいいっぱい。
で、取り戻しに来るのがこの話。
金を取り戻しに行った先の遊園地の隠し場所に金がない。

そこを取り仕切るマフィアの親分に脅しをかけてまたしても「俺の金を返せ」なのだ。
「だから、それはもともと銀行のお金だって」とは誰も突っ込まない。
マフィアの親分に揺さぶりをかけるうちに、結局そのマフィアの内紛状態に首を突っ込むことになる・・というような展開。

それにしても、もう少しマシなタイトルが付けられなかったのだろうか。
タイトルだけ見るともの凄い残虐なシーンの小説をイメージしてしまうが、中身に残虐性などはない。
タイトルから言えば「イン・ザ・ミソスープ」の真逆だ、と言えばわかりやすいか。

邦訳タイトルは各々、人狩り:The Hunter、殺人遊園地:Slayground、殺戮の月:Butcher's Moon とまぁほぼ原題に忠実だったという事か。

チェルシー・テラスへの道(As the Crow Flies) 悪党パーカー(Parker) シリーズ リチャード・スターク(Richard Stark)井淳訳


14/Nov.2008
さよなら、愛しい人 レイモンド・チャンドラー

刑務所から出所したばかりの大男に引っ張られるように黒人専用の店へ連れて来られた私立探偵のフィリップ・マーロウ。
その店で大男はその店のオーナーを殺害し、ゆうゆうと出て行ってしまう。

警察の依頼も有り、マーロウは一旦この大男の行方を追う捜査をするが、その時に別の依頼が舞い込む。

強奪された宝石を強奪犯から買い戻す交渉をしたので、同行して欲しいというのが依頼。マーロウは男に成り変わって運転席に座り、同行することにするが、取引の場所で席を離れた一瞬に依頼者の男は殺され、マーロウ自身も殴られ失神する。

まったく無関係に思える双方の事件を追いかけて追いかけて、最後の最後に全て一本の線でつながる。

そもそも私立探偵とは依頼主からの依頼に基づいて調査やら内偵をすることで生計を立てている職業だろう。

ところがこのマーロウという男、依頼主があるわけでもないのに、次から次へと命がけで調査に乗り出すのだ。

さすがにそこへ単身で乗り込んでは、殺されても仕方がないだろう、みたいなところへ、何度も出向いては何度も後頭部を殴られるだけで撃たれずに済み、またある時は薬漬けにまでされて、それでも生きてのびてまた同じことを繰り返そうとしている。

無論、声援は送るが、そこまで無防備だと、その学習能力の無さに呆れてしまう。

冒頭の殺人のあたりで気になる表現がある。
その街では黒人が殺害されても新聞記事にもならない、だとか、黒人が被害者なら懸命に捜査などやってられるか、みたいな表現。

いったい、いつの話なんだろ、と思っていたら、なんと原作が書かれたのは1940年だった。

それを村上春樹氏が翻訳。
それにしては妙な表現が多々あったが、1940年代ならではのアメリカンユーモアなのか、レイモンド・チャンドラーならではの凝った表現というのか、そういうものを原作に忠実に意訳をせずに訳したということなんだろうか。



完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 フランク ブレイディー (著), Frank Brady (原著), 佐藤 耕士 (訳)


08/Nov.2013
現代中国女工哀史 レスリー・T. チャン

このタイトルを見れば誰しも中国の過酷な労働事情、労働環境が描かれているものと思うだろう。
だが、実際にはそういう内容の本では無い。

現代の中国の出稼ぎ労働者、その中でも特に若い女性のたくましさを描いた本である。

複数の出稼ぎの女性労働者に密着取材をし、なかなか語りたがらないその生い立ちや生活を聞き出し、その生き様を著したドキュメンタリーである。

彼女たちの大半は、一般の電話線すらまともに引かれていないような地方から出て来て、何ヶ月かの給料を貯めて携帯電話を手にする。
彼らとの連絡手段は携帯電話が無ければ成り立たない。
一カ所に留まらないからである。

この本が翻訳されて出版されたのが2010年2月。ちょうど1年前。
原著の出版日は記述がなかったが取材は2004年から2007年。
日に日に変わる中国。
賃金も、ほんの数年でも経てば参考程度の情報かもしれない。
それでも敢えて紹介しておくと、取材された女性たちの賃金は大抵、日本円にして月に5000円ほど。
もちろんそれで満足をせず、8000円の仕事に転職し、やがては1万円の仕事に転職する。
今や年収何千万の億万長者が百万人レベルと言われるかの国だ。

巷言われるように賃金格差が日本の比にならないほど高いのも事実だろう。

日本で経営者と新入社員の給与格差はあったとしても、よほどの有名人経営者や特殊な例でない限りは、せいぜい数倍という一桁内範囲だろうし、中小企業なら倍すらも行かないかもしれないが、かの国の賃金格差たるや、二桁どころか三桁ほども違うのではないだろうか。

かの国から言わせれば、日本が賃金格差が無さ過ぎるのだ、ということになるのだろう。
日本だって、明治、大正時代に伸し上がって行った人たちの収入の上がり方なんて今から考えればとんでもないレベルだったのだから。
棒給:何十銭から始まって、何円に何十円に何百円にそして何万円に・・と。


それにしても
「貧しいまま死ぬのは罪悪だ」
「頼れるのは自分だけ」
「悲しくなる暇などない。しなければならないことがこんなにたくさんある」
「時は人生なり」
なんというエネルギーだろう。
稼いだお金を学びに投資することを厭わない。

パソコンを学び、語学を学び、ホワイトカラー講座に学び、そしてホワイトカラーに転身して行く。

中国の出稼ぎ労働者の数は日本の人口よりはるかに多い。
その凄まじい人口がこれだけのエネルギーとたくましさを持っているとしたら・・・。
それこそいつかは彼らと競争することになるかもしれない日本の若い衆達、いや日本の就職戦線の一部ではすでに競争は始まっているか。
そしてすでに太刀打ち出来ていなかったか。

著者は、両親が中国から台湾へそして台湾から飛び出したアメリカ人で、その祖父も元々は中国からアメリカへの出稼ぎ労働者であった。

著者のルーツもまた中国にある。

かなりのページを著者の祖父の世代の記述に割いている。
著者の祖父の時代というのは、十代で清朝が崩壊。代わりに共和国が出来、丁度その頃も孤立主義から世界の仲間入りをしようとした時代だ。

祖父はアメリカへ出稼ぎに出るが、その心意気が立派なのである。

祖国の現状を憂え、如何に立て直すのか、将来には何が必要なのか、と鉱山について学習したりする。
その後、帰国の後、ロシア兵か中共軍かのいずれかの犯人に殺害されてしまうのだが・・・。

これだけページを割かれてしまうと、どうしても現代の出稼ぎの彼女たちと比較してみてしまいそうになるが、それは時代背景が違いすぎてほとんど意味のないことだろう。

その試みは「平成の開国だ」と叫ぶ誰かさんと実際に明治維新を成し遂げ、欧米列強に比肩するほどの大改革を成し遂げた人たちを比較するほどに等しいではないか。
いや後者の方がはるかに虚しいか。

話を戻そう。

彼女たちは国家を背負うつもりなど毛頭ない。
自らがリッチになること、向上することを考えるが、その向上心には共通するものがあるのかもしれない。

中国のある新興の都市では、市役所の発表する住民数は170万人なのだが、毎年、出稼ぎ労働者で100万人規模で増え続けていて、実際の人口は1000万人は居るだろうと言われている。

そんな新興都市はそこだけではあるまい。

毎年、毎年、大阪をしのぐ、いや大阪どころか東京をもしのぐ規模の都市が生まれて行くということか。

中国そのものの人口にしたって13億と言われているが、実際にはもっとはるかに多いかもしれない。
15億以上いると言われても驚かない。
住む場所も一定で無く、所在のつかめない人口があまりに多いのだ。
それにこれだけ人が流動すれば、その確かな数字など誰にわかろうか。

現代中国女工哀史 レスリー・T. チャン 著  Leslie T. Chang  栗原 泉 訳


11/Feb.2011
造花の蜜 連城三紀彦

なかなか期待させる出だし、予想を裏切る展開。
誘拐・身代金奪取ということを試みながらも結局一銭も奪い取らず、・・どころか奪い取れるはずのお金を返上しながらの人質解放。
犯人には別の目的があったのか・・・・・と本来ならば、ぐいぐい読まされるはずの展開。

非常に発想の面白い作品なのだが、何ともリアリティが無いという印象が残ってしまうのである。
小説なんてそんなもの、と言ってしまえばそれまでなのだが・・・。
もっとリアリティの無い世界を舞台に描いている作家でさえ、バックボーンにリアリティが無い分、ディテールにおいてのリアリティさにかけては細心の注意を払っているはずである。


細かいことを言い出せば、被害者宅へ来た刑事が「ご主人が金持ちだという事を云々」
「金持ち」って・・・そんな表現。
ちょっとした言葉遣いだけでも、それまで積み上げて来た、エリート刑事のキャラクターを台無しにしてしまいかねない。


それにしても日本の警察もずいぶんとなめられただ。
いくら昔に比べて未解決事件が多くなったとはいえ・・・。

渋谷のど真ん中でいくら人通りが多いからと言って、犯人が指定した場所へ車を乗り付けての人質解放。
それで、共犯も誰一人逮捕者が出来ない?
周囲一体、私服の警官が取り巻いているというのに。
遠隔地から指定場所への監視体制も整っているのに。

その前にも指定の交差点に目印の赤いペンキのようなもの。結局血だっただが、それをどうどうと撒き散らかした車も追跡出来ない?
そこまでひどい?

ミステリーものというのは謎になった部分について最後には全て、あーそうだったの、という納得させる答えを読者に提供するものとだと思っていたが、いくつもの「?」はそのまま放置されたままである。

人質の母香奈子と刑事が渋谷で共に見た、目つきの鋭いいかにも人相の悪い犯人っぽい男。
それって結局何者だったの?
何故、刑事にあれが犯人なんですか?と聞かれて「犯人です」って香奈子は答えたのは何故なんだ?
渋谷の交差点に撒かれた血は結局なんだったの?。
などなど・・。
あえてグレーにする部分とグレーを明らかにすべきところについて、少し極め細やかさに欠けていやしないか。


刑事が質問している事に「そんなことどうでもいいじゃないですか」などという香奈子の口調ってどうなんだ。
一般人がいくら誘拐事件の最中だからと言って刑事という人種を前にしてそんな言葉を吐けるか?

相手が刑事だから、だけでなく、誘拐された被害者宅は刑事を呼んで来てもらっている。助けを請うている。そういう立場である。
彼女は偉そうな言葉を吐ける立場にはいない。

納税者の立場から言わせてもらうなら、この女性は国民の血税を使って、誘拐された子供の救出に来てもらっているのである。
この被害者側の態度は許しがたい。

後にもっと許しがたい存在である事があきらかになるのだが、その前に反感を持たれてどうする。

共犯者でもあり被害者でもある青年の話のくだりなど、なかなかに面白い筋立てだろう。

それでもいくらなんでも最後の事件のくだりは、もうほとんどアルセーヌ・ルパンじゃないか。
平成日本に現れた女アルセーヌ・ルパンといったところか。

物語の要所要所に必ず蜂が登場する。
蜂が所謂キーワードなのだろうか。蜂という存在に何かを暗示させているのだろうか。

そんな一見極め細かいようなつくりに見えながら、実はかなり荒っぽい作品なのである。


閑話休題。
蜂と言えばこの本が出版された2008年、日本から大量に蜜蜂が減少した。農家は授粉作業を蜜蜂に頼って来ただけに、今後が大変なのだとか。
閑話休題終わり。


この本、新聞の書評欄でのベタ褒め記事を読んで読む気になったのだが、その書評といい、ずっしりとしたこの本の重量感といい、いかにも面白い本ですぞ、と言わんばかりの装丁といい、読む前にかなり大きな期待を持ちすぎてしまったのがいけなかったのだろう。宮部みゆきばりの事件的描写を期待してしまった。

少々辛辣な感想になってしまった。

この辛辣さは、あくまでもそういう過度な期待度が事前にあった上で読んだためのものであって、予備知識なしに読み始めれば、間違いなく面白い作品の範疇に入るのではないだろうか。


「造花の蜜」 そうまさに造花なのだ。本物の胡蝶蘭では無く、あくまで造花の蜜。
なかなかにして相応しいタイトルではないだろうか。

造花の蜜 連城三紀彦 著(角川春樹事務所)


15/Apr.2009
    12 >>