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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
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猫を抱いて象と泳ぐ 小川洋子
猫の水につかるカエル  川崎 徹
猫物語(黒・白) 西尾 維新
鼠 (故城山三郎氏を偲んで) 城山三郎
ねむり 村上春樹
眠る魚 坂東眞砂子
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猫を抱いて象と泳ぐ 小川洋子

子供なら誰しも背が高くなりたい、もっと大きくなりたいと思うのが普通だろう。
だが、この主人公は大きくなることを恐れる。
大人になることを恐れるのではなくからだが大きくなることを恐れる。

デパートの屋上に連れて来られた小象が大きくなってしまったために、本来なら屋上から去るべき時にエレベーターにも乗れず、階段も通れず、そのまま37年もの生涯をデパートの屋上で鎖に繋がれたまま過ごした。
この主人公が目にするのはインディラという名ののことが書いてある屋上の立て札だけである。
それでも主人公はインディラに話しかけ、インディラのことを思い、自ら大きくなることを恐れ、太った人がそれ以上太ってしまうことを懸念する。

小川洋子という名前に覚えがあって、中身もわからずに手にしたこの本だったが、その覚えは正しかった。果たして「博士の愛した数式」を書いた小川洋子氏だった。

この本、チェス好きならおそらくたまらない一冊だろうな、と読みながら思ったが、チェスを全く知らなくても十二分に楽しめる。

この本には主人公の名前が一度も出て来ない。

それはあってはいけなかったのかもしれない。

この主人公を作り上げたのは作者かもしれないが、主人公と同じように生きたかもしれないはずの人形の中の無名を望んだ天才チェスは確かに存在したのだろう。

リトル・アリョーヒンは実在したのかもしれない。そんなベールを被せておくためにも主人公に名前などはなかった方が良かったのだろう。

かつて実在したアリョーヒンというチェスの世界チャンピオンの残した棋譜はまるで一篇の詩のようであったと記述されている。

リトル・アリョーヒンもまた、美しい棋譜を残すことだけを考えてチェスを指す。
最強の一手は必ずしも最善の一手ではではない、と言ったみずからのチェスの師マスターの残した言葉どおりに。

チェスの指し方でその人がどのような人なのかがわかるのだという。
実際のその人の行動を見ているよりもチェスを指している時のほうが、人間が良くわかるのだと盤下の詩人は言う。

今やコンピューターチェスもコンピューターが人間チャンピオンに勝ってしまうようなところまで来てしまった。

盤下の詩人はコンピューターチェスチャンピオンの棋譜にどんな性格を見るのだろうか。


猫を抱いて象と泳ぐ  小川洋子 著


24/Nov.2009
猫の水につかるカエル  川崎 徹

川崎徹と聞いてもすぐに思い浮かばなかった。
作者略歴を見てCMディレクターとある。

そうか。あの糸井重里なんかと共にコピーライター職業を一時世の花形職業として知らしめた人たちの中の一人だった。


かつてはテレビにも良く出ていたよね。

「ハエハエカカカ キンチョール」・・・なんか他のコピーライターとは一味も二味も違う、一風変ったライターさんだったような覚えがある。

あの花形コピーライターがこういう小説を書いていたのだとは・・。


猫がしゃべる。
あたり前の如くしゃべる。

ソフトバンクのコマーシャルで犬のお父さんがしゃべるのを散々見せ付けられてしまっている。ソフトバンクの犬のお父さんが今更、ワン!と吠えた方が違和感があるかもしれない。
そういうこともあってか、猫がしゃべってもなんか違和感が無い。

まぁ、猫がしゃべること云々よりも寧ろ、あの団塊の世代のエネルギッシュな人たちも、もうそろそろ自分の老いというものと死というものを見つめる時代になったのだなぁ、というなんとも当たり前のことながら、妙に寂しい気分になる。

「まだ、できると思っていても無くなるのよ、仕事は」
「ぼろぼろになるまで働かせてもらえないのよ」
猫の言葉は辛辣である。

良くも悪くも、日本の戦後というものはこの世代無しには成り立たない。

高度成長期に青春時代を向かえ、バブル全盛期には壮年としてバブルを謳歌し、そして今、この世代はどんどん世の第一線から退いて行く時代。

それと相前後するかのように、日本全体の活力が団塊の世代の後退と共に失われて行くような。

なんかそんなことを感じさせる本なのでした。

猫の水につかるカエル  川崎徹 著(講談社)


01/Mar.2010
猫物語(黒・白) 西尾 維新

猫物語(黒)と猫物語(白)(上・下巻)ではないのだから、どちらを先に読んでも問題ないのです、って著者はどこかで書いてなかったっけ。
大間違いをしてしまった。
(白)→(黒)と読んでしまった。
オンラインショップで(白)(黒)の順に並んでいたこともあるし、普通、黒白じゃなく白黒だろうって勝手に決め付けていた感がある。
西尾維新に普通を求めてはいけない、ということを失念していたのか?
(黒)は(白)のあくまで前段に過ぎず、あくまでも読み方としては(黒)→(白)であった。
そんなことは出版日がそれぞれ(黒)2010年7月、(白)2010年10月を見れば自明のことであったのに。

「猫物語」は「化物語」の第二シリーズ。
(白)では、ツバサキャットの羽川翼が語り部となる。

(白)を読みながら、時たま章が飛んでいる箇所があり、本来の主人公である阿良々木暦君の出番は少なく、その間に何か別のバトルをしているらしく、珍しい登場人物も出ては来たものの本来のストーリーにはほとんど噛んでこなかったり・・・で、その穴の空章を埋める裏の物語が(黒)なのではないか、と思っていたのだが、そうではなかった。

時系列で言っても(黒)は化物語を復習しているかの如く、5月のゴールデンウィークの出来事をなぞっていて、時間的なかぶりは無い。
(白)はまさにこれまでの化物語の続編だった。

それにしても一冊にしたらどうよ。と言いたくなるよな。
(黒)の前段の大半のページは朝起こしに来た妹とのじゃれ合いに費やしている。

それにしましても西尾さん、「化物語」がアニメ化されたのをかなり意識しておられるような書き方が目立つわりに、本当にこれもアニメ化を考えているのかなぁ。

妹とのじゃれ合いだけでどれだけの時間を割くんだろうか。
他人ごとながら心配してしまいたくなる。

これにしても2010/12には「傾物語」ん?もう出版されているんじゃないか。
2011/3月に「花物語」、2011/6月に「囮物語」、2011/9月に「鬼物語」、2011/12月に「恋物語」ってなんでそんな先の予定までぎちぎちに、決まってるんだ?

案外もう大半は書き上げてしまっているんじゃないのか?
一年であんまり偏らないように複数年に分散して節税対策でもしてるんじゃないのか、などとゲスの勘ぐりを入れたくなってしまう。

まぁ、それは無いか。猫物語(黒)なんぞかなり締め切りに追われて書いたんじゃないのかな。
リミットを決めて雑誌なんかの連載もの作家が良くあるように編集者に締め切りをせっつかれながら、ひぃひぃ言いながら書くというMの世界にでも目覚めたのだろうか。

ストーリーにエンディングなどはない、だって人生はその先も続いて行くんだから、・・・などとこの続編シリーズの言い訳みたいなことを登場人物に言わせておられるが、ずっと続いて行くと言いつつもこの連作ものでは、「化物語」でそれぞれ怪異に出くわしてその虜となった彼ら、羽川、八九寺、千石、忍、戦場ヶ原、神原・・一人一人にそれぞれ大団円の決着をつける物語を描こうとしているのではないのだろうか。

猫物語に関して言うなら、(黒)は仮りにこれ一冊だけ購入していたら全く物足りない感があったように思える。
「化物語」では、至るところにのり突っ込みがありながらもストーリーを進めて行く上でのスピーディさがあったのが、(黒)に関して言えば、のり突っ込みの部分がくどすぎて、なかなかストーリーへと展開していかないもどかしさがある。
(白)は羽川を語り部とすることで、(黒)での欲求不満を見事に払拭している。
羽川翼のツバサキャットはこの一冊で完璧に大団円。
羽川の人生は続くのかもしれないが、ツバサキャット、ツバサタイガーの物語はこれで完結している。

もうこうなったら乗りかかった船じゃないが、最後の完結編まで付き合ってしまおうか。


猫物語(黒)・猫物語(白) 西尾維新 著


04/Jan.2011
鼠 (故城山三郎氏を偲んで) 城山三郎

3月22日、城山三郎氏が亡くなられました。
私にとって戦国時代から幕末、明治までの歴史の師が司馬遼太郎氏なら昭和史の師は城山三郎氏(以下敬称略)に他ならない。
歴史小説の司馬遼太郎と経済小説の城山三郎では畑が違うだろう、と思われる向きかもしれない。
司馬遼太郎が実在の人物をそのままの名前で書いていたのに対し、城山三郎の作品の大半は、実在のモデルはこの人だ、とほぼ誰でも判っていながらも架空の人物・企業として描いている。
書かれる方も同じ昭和のその時代を生きている人で、その企業も現存する以上、それは当然の配慮だろう。
いずれも学校で教えてもらえない日本の歴史、近代史、現代史を懇切丁寧に教えてもらったという意味では両者共自分にとっての師である事に違いは無い。

城山三郎の作品群は正に昭和そのもの、と言っても過言では無いだろう。
昭和の初期では『男子の本懐』で浜口雄幸、井上準之助を描き、戦中・敗戦まででは『大義の末』がある。
『大義の末』では軍神杉本中佐の『大義』「天皇のために身を捧げることが日本人の生き方である」という戦前の軍国少年のマニュアルの様な本に傾倒した学生の敗戦後のわだかまり、こだわりを描く。
著者そのものも『大義』を読んでいた、という事なのでたぶんに自身の思いを重ねていたのかもしれない。
敗戦の尻拭いの様な東京裁判で唯一文官でA級戦犯となった広田弘毅を描く『落日燃ゆ』。
その後の復興時は『価格破壊』が一代にして日本のトップスーパーを興した起業者を描いたかと思うと、これから高度成長へと向かう日本の牽引車となるべく海外の車に負けないものを、と取り組む自動車メーカーと下請け企業の悲哀を『勇者は語らず』で描き、『乗取り』はまさに昨今流行りのM&Aの先駆けの様な乗っ取り屋を描く。
そして時代背景は違うが、平成の今、丁度団塊の世代が定年退職に向かおうとするこの今の時期のためにある様な『毎日が日曜日』。

実在の人物を実名で描いているのは『鼠』、『男子の本懐』、『落日燃ゆ』・・とわずかであるが、これらの登場人物は寡黙を美とするところがあるのか、いずれも本人は本懐かもしれないが、はたから見れば不幸な結末を迎えている。

この追悼文のタイトルに『鼠』を持って来たのは、たまたま私が城山三郎を最初に読んだのが、この本だったから、という事になるだろうか。亡くなった、と聞いて一番先に読みたくなったのもやはりこの『鼠』だった。

『鼠』という作品はジャンルで言えば小説ではない。ドキュメンタリーそのものである。
そして大正時代が舞台である。
『鼠』を読むまで「鈴木商店」という会社の存在など全く知らなかった。
「鈴木商店」なんていう商店街の一店舗の様な名前の会社が一時は三井・三菱も凌ぐ日本のトップ商社だったなどと俄かに言われてもそんな事はなかなか信じがたいものがあるだろう。
「鈴木商店」は単なる一商社だった訳では無く、製鋼、金属精錬、造船、人絹、毛織、油脂工業、倉庫、海運、鉱山、樟脳、ビール、製糖、製粉、ゴム、・・・当時のありとあらゆる日本の主たる製造業を傘下とする大コングロマリットだったなどと言われて、素直に信じられるだろうか。
その時代の主力産業の大半を手掛けていた大企業なのだ。
「鈴木商店」を差配していたのは、金子直吉という大番頭。
質実剛健にして機を見るに敏。
自らの才覚に絶大な自信を持つ負けず嫌いの性格。
そして丁稚上がり故か、日曜日というものが無い。

歴史とはなんと残酷なのか。これほどの大企業でありながら、今、というよりこれが書かれた昭和の時代であっても「鈴木商店」の名は知られる事も無かったし、教科書で教えられる事もない。
歴史に潰された、もしくは埋められた存在と言ってもいいだろう。

大正の米騒動にて米を買い占めていたという理由で焼き討ちに合う。
当時のメディア、即ち大新聞だが、この「鈴木商店」をこれでもか、これでもか、というほどに悪徳商人として叩いている。
それに対して金子直吉は、「悪い事をしていない事はいずれ皆がわかってくれる」と新聞批判などには目もくれない。

当時の事を書いた史書にも尽く「鈴木商店」が買占めをした悪徳商人として書かれていながら、「鈴木商店」を知るわずかな生き残りの人達は「あぁ、なんていい会社だったんだろう」と語る。
そのギャップを疑問に感じた城山三郎の徹底した取材活動が始まる。
その史実の中で証言している人、一人一人に当時の事を取材していく。
証言者の口からは「なんせ、みんなが悪いって言うんだから、悪い事をやっていたんだろ」程度の事で、事実の「鈴木商店」の悪徳、背徳の事実は全く浮かび上がらない。

そしてそれらの偽りの証言を一つ残らず見事に覆し、大新聞の過剰な誤報についても論破し、「鈴木商店」の名誉を挽回させるのである。
「鈴木商店」は米の買占めをするどころか、当時高騰しく米を新聞が煽り立て、皆が買いだめをする最中、朝鮮米、外米を輸入して安い価格の米を流通させようと言う世論とは全く逆の事をしていた。
「鈴木商店」即ち金子直吉には米を買い占めて庶民の暮らしを食い物にしようなどと言う様なしみったれた気持ちはさらさら無く、それよりももっと大きなところへ目を向けて活動していた。
丁度この頃、英米が鉄輸出禁止令を発令。
日本に鉄が入って来ない事は日本にとって死活問題。
大統領へ直訴をしたためるが相手にされず。アメリカ政府代表として来日していたモリス代表に船舶を売りつけ、支払いは鉄にせよ、と交渉する。
まだまだ弱体日本が欧米相手に力を付けるという国家の事しか頭に無かった。
そんな「鈴木商店」をくる日もくる日も某大新聞はやり玉にあげ、悪徳商人呼ばわりをして罵る。
「鈴木商店焼き討ち」は新聞が火をつけた様なものである。あとは群集心理。
皆が「鈴木をつぶせ」とばかりに襲い掛かる。
マスコミ=新聞は当時の寺内内閣を叩くのが目的で「鈴木商店」は言わばおまけの様なものだったのかもしれないが、とんだ煽りである。
戦前日本には言論の自由の無い民主主義としては未開の国だったとのたまう向きもあるが、この一事を見てもわかる通り、言論の自由が無いどころの話では無い。
自由を通り越してすらいる。火の無い所に煙を立てて一企業を悪徳商人扱いにし、民衆を煽って暴徒化させる。そこまでの力を持っていたのである。

「焼き討ち」即倒産では無く、その後も「鈴木商店」は存続するのだが、金子直吉の銀行嫌いも手伝って、最後は解体を余儀なくされる。

「鈴木商店」は跡形も無く消え去った様で、実際には神戸製鋼、石川島播磨重工、サッポロビール、日商岩井、帝人、昭和シェル、豊年製油・・など日本を代表する企業にその血脈は連綿と流れ今も生き続けている。

しかし、この『鼠』というタイトルはどうなんだ。
いかにも米蔵の中で米でも齧っていそうなタイトルではないか。

このタイトル、金子直吉の白鼠という俳号からか。
「初夢や太閤秀吉奈翁(ナポレオン) 白鼠」
この俳句とも言えない様な句は、もちろん焼き討ち前のもの。
「落人の身を窄め行時雨哉」
鈴木商店解体後、住み慣れた家からも追われる時のもの。

『鼠』というタイトルはこの俳号からのものでは無い。
直吉は天下国家を望みながら本質において生涯勤労者だった。
「鼠」の様に走り廻らなければ生きて居れぬ人間だった。

城山三郎は取材に次ぐ取材の結果「鈴木商店」の名誉を挽回させたが、また一方の冷静な観察眼では「鼠」であるが故に金子直吉も「鈴木商店」を倒した一人だった、と捉えているのである。

02/Apr.2007
ねむり 村上春樹

いくら眠ろうとしても眠れない。
眠ろうと意識すればするほど、逆に目が覚めてくる。

そんな経験をしたことのある人は多いはずだ。

この主人公の女性、最初はそうして眠ろうと努力するのだが、途中から眠ろうと努力することをやめてしまう。

図書館へ行って眠りというものについてのある学説に出会ったのだ。


人間は知らず知らずの内に自分の行動パターンを作り上げてしまう。
一度作り上げた傾向はよほどののことがない限り変更出来ない。
眠りこそがその傾向のかたよりを中和する。

普段の傾向って、単なる家事じゃないか。
単なる家事による傾向とその是正、ならばいっそのこと眠りなど要らない。


朝、ご主人と子供を送り出し、買い物をし、午後にはスポーツクラブでたっぷり1時間スィミングをする。
子供と夫が寝てからの時間。
それが彼女の自由な時間。
誰にもじゃまされることのない、彼女だけの時間。

彼女はその時間を使って読書をする。
ブランディーを片手に「アンナ・カレーニナ」を何回も読み、トルストイのみならずドフトエフスキーなどの長い長い物語に浸ることを続ける。

そうして全く眠らない日々を一週間送り、ニ週間送っても、眠気が来たりまどろんだりもせず、衰弱するでもいない。
それどころか、ますます身体にはりがあり、若返っている自分に気がつく。


この本の独特なところは、二〜三ページに一枚ほどの割で登場すつ精密な筆致のイラスト画だろう。決してライトノベルのようなアニメっぽいイラストでなどではない。

この本、そもそも短編として書かれたのは「ノルウェーの森」を書いた直後だった、と村上春樹氏はあとがきにて述べている。

単行本化したのはドイツにおいての彼の出版元であるヂュモン社なのだそうだ。
村上春樹氏ともなると、各国に自分の出版元を持っているのだろうか。
その出版社がもともと美術書を出す会社だったので、このような作りとなったらしい。

日本で出版するにあたって内容もかなり書き変えたのだという。

眠れない方は読んでみて下さい。

ロボットじゃないんだから、やっぱり眠ろうって思いますよ。きっと。

ねむり  村上春樹 著


11/Jun.2011
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