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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
Jul.2017
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ツール・ド・ランス ビル・ストリックランド
追跡!私の「ごみ」捨てられたモノはどこへ行くのか? エリザベス・ロイト
終の筈の住処 三崎亜記
憑神 浅田次郎
月と蟹 道尾 秀介
憑物語 西尾 維新
償いの椅子 沢木冬吾
ツナグ 辻村深月
津波災害――減災社会を築く 河田惠昭
椿山課長の七日間 浅田次郎
冷たいプロポーズ ミランダ・リー
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ツール・ド・ランス ビル・ストリックランド

タイトルは「ツール・ド・フランス」では無く、「ツール・ド・ランス」。
ランス・アームストロングという自転車のプロロードレーサーの果敢な挑戦を密着取材したドキュメンタリーである。

ランス・アームストロングという選手、1999年から7年連続でツール・ド・フランスを制した自転車ロードレーサーのスーパースター中のスーパースター。
2005年の優勝の後、一旦、現役を退いた彼が、約3年のブランクを得て現役復帰をするという。

自らもアマチュアのロードレーサーでロードレーサーの熱烈なファンである筆者は、彼の現役復帰を素直に喜べない。

ランスは勝って当たり前の選手。その勝つ姿以外のランスを見たくない、という気持ちがもう一度ランスの走りを見たいという気持ちより優先してしまうのだ。

ツール・ド・フランスとは自転車のロードレーサー競技の中の最高峰のレースで、3週間、3300kmとフランス・イタリア・スイス・・など国を跨いで行われる。
3300kmという距離、日本列島の北端から沖縄の南端までの距離よりも更にまだ長い。
それも山岳越えを何度も何度もという相当に過酷な競技である。

地元ではW杯サッカー、五輪に次ぐ大イベントなのだそうだ。

日本では自転車のロードレースという競技、あまりメジャーではないが、筆者が言うにはアメリカでも週に2回ほどの頻度で自転車を走らせるアマチュアの自転車人口は800万人も居るのだとか。
大阪もオバちゃんの自転車人口が多いがこれとは意味が違うんだろうなぁ。

自転車のロードレース競技というのは表彰台に上るのはチームではなく、個人なので、一見個人競技のように思えるが実は個人競技では無い。

チームにエースは一人。
他の選手はエースをひたすらアシストする。

一度、引退したエースが復帰する、ということは現在のエースとの確執が生まれるのは必至である。

その所属チームであるアスタナには次のエースであるコンタドールという選手がその位置を占めている。

そんな中へ復帰したランスがツール・ド・フランスに挑む。

このドキュメンタリーでは過去のレースなどの話を交えながら、2009年のツール・ド・フランスの全コースを走り終えるまでを一冊の本にまとめている。

走っているランスの写真が何枚か載っているのだが、実年齢よりも老けて見えてしまう。
そんなランスに自転車のレース界ではおなじみのドーピング疑惑がかかったり、年よりの冷や水的な批難の声が上がったりする。
それに対してランスが「Twitter」を駆使して応戦するあたりは、やっぱり今時なんだよなぁ。

それでもレースも中盤から終盤にさし掛かる頃には、ランスへの視線はどんどん暖かくなって行く。
ギャラリーの声援はもちろんのことだが。それだけではなく、スタッフやコンタドールを除く他の選手たちまでも。


それにしても、一生働かなくてもゆとりのある生活を送れるだけの賞金は稼いだはずのランスが何故また苦しい戦いに復帰する決断をしたのか・・。


レースを終えてしばらくした後のランスと筆者との会話の中にその答えは有った。


ツール・ド・ランス  ビル・ストリックランド 著  安達眞弓 (翻訳)


26/Jan.2011
追跡!私の「ごみ」捨てられたモノはどこへ行くのか? エリザベス・ロイト

まず、ロイト女史の「ごみ」追跡の執念に驚かされる。
日常生活で排出しているごみ。このごみの行方を追いかけることがこんなに大変だったとは。

この一冊にはゴミに関するありとあらゆることが網羅されている。
一冊に収めてしまうのが惜しいほどである。

どこかでリサイクルされているんだろう、と思っていたごみの行方を追いかけて行くと最終的には埋立地に突き当たる。
マンハッタンの高級住宅街が排出するごみは貧しく権利のない界隈へと集まる。
ロイト女史はその事態を「ごみはごみ扱いされている人々の上に捨てられる」という言葉で表現する。

埋立地はガードが固く、話を聞くことも立ち入ることも拒否されてしまう。
かつてジュリアーノ元市長が一掃する前はニューヨークのごみ回収業者はマフィアの手に委ねられていたのだそうだ。
マフィアが一掃された後であっても、新たに参入して来た業者による不正は行われ続けていると言われる。

リサイクルされるごみと言えば紙ごみや金属ごみ。
紙ごみは再生紙として生まれ変わるが、再生紙になる前にその大半はアジアへ輸出されるのだという。
再生紙用の回収率は毎年着実に上がり続けているにも関わらず、バージン紙の使用量は増え続ける。
アメリカで印刷される年間120億冊の雑誌の95%は全く再生紙を含んでいないのだそうだ。
日本でも以前に製紙会社が再生紙利用と銘うちながらも実際には再生紙ではなかった、というニュースがあったっけ。
全米で使用される紙は年間800万トン。再生パルプの入ったものはその三分の一にも満たない。

かく言うロイト女史の出すこの原著についてもロイト女史は再生紙で、と版元に求めたところ、他社よりも50%バージンパルプの含有量を少なくする、という返事だったという。
この原著でさえ、売れれば売れるほどバージンパルプを消費してしまうというなんとも皮肉な話である。
それでも紙ごみはまだまだリサイクルの優等生には違いない。

何故、再生紙に拘るのかは言うまでもないだろう。
バージンパルプを使用する、即ち森林伐採に繋がるからである。
しかも木を伐採して加工した場合、製品になるのはせいぜい43〜47%なのだという。

そしてもう一つのリサイクルの優等生と言えば金属ごみ。
かつて開高健が『日本三文オペラ』で描いた「アパッチ族」のように鉄くずを回収して生計を立てるする人はかつても今も多く居る。
この本では、くず鉄業から大企業に育った企業が登場する。

ロイト女史はそこでもスクラップの80%が輸出されている現状を目の当たりにする。
最大の輸出国は中国。

この本の章立ては「紙ごみのゆくえ」「金属ごみのゆくえ」のあとも「有害廃棄物のゆくえ」「プラスチックのゆくえ・・・」と続き、一人のジャーナリストが良くこれだけ追いかけたものだ、とほとほと感心すると共にそこに描かれる現実は、冒頭に「この本、一冊に収めるにはもったいない」と書いた如く、一つの章立てだけでも充分に一冊分の読み物に匹敵してしまうと思えてしまうからである。

ロイト女史はその中でコンピュータやその周辺機器などの電子ごみがどこへ行くのか、も追いかけている。
電子ごみの80%は中国、インド、パキスタンへ輸出される。

方や、ペットボトルなどの回収プラスチックも大半が中国へ輸出される。

中国にそれだけアメリカのごみを買ってもらい、大量の国債も引き受けてもらっている中国に対して、人種問題や人権問題に真摯の取り組むはずのオバマ氏が中国のチベット問題やつい先日のウィグル問題にコメントすら発っせられないのは、むべなるかなである。
もちろん、それだけの理由ではあるまいが・・。

とはいえ、この世界不況の中でも成長を維持し続ける中国が、いつまでもごみの輸入国に甘んじているわけがない。
いずれ、中国の排出したごみを日本やアメリカが引き受ける時代が来るのかもしれない。
上記数行の記述は本の主旨とは無縁である。

この本、リサイクルという名の美名の元にて行われる様々な不正に目を向けている。
単にリサイクルが素晴らしいと賛美するわけではなく、その本質を見極めようとしているところがいかにもジャーナリストの書き物だけあって好感が持てる。

日本でもごみの分別後、どのように処理されているのが明らかにされていないことに分別そのものに対する疑惑を述べる識者が居られる。
その識者の方々も疑義を述べるに止まらず、ロイト女史のように徹底的に追いかけてみて欲しいものである。

ロイト女史はデポジット制という、一見リサイクル効率を高めるための良い制度に見える制度が生み出す不当利益を得る企業にも目を向ける。

方や一方で、リサイクル出来ない製品を生み出す企業へ質問状を投げたりもする。

凄まじいバイタリティとしか言いようがない。

はたまた、ロイト女史は自らコンポスト(ごみの堆肥化)にもチャレンジする。

良く、日本の江戸時代は最もリサイクル化の進んだ時代だった、という話を聞くが、なんのことはない江戸時代まで遡らなくったって、身近な年寄りに聞いてみればいい。

ほんの40〜50年前だって、一般家庭からはほとんどごみが出なかったというではないか。
そう、まさにコンポストだ。

いわゆる台所から生まれる生ごみは、庭で穴を掘って、小山で穴を掘って、そこへ埋めて土に返す。
それが当たり前だったと。
地方へ行けば行くほどそうだったのだろう。

生ごみが生まれ始めるのはスーパーマーケット、やがてコンビニという便利な存在がパック詰めした食品を売り、土に返らないポリ袋というものに入れてくれ、生活者は庭も近所に小山もない集合住宅に住みだした頃からなのだろう。

とは言うものの、一般家庭から出るごみなどは、ごみ全体でいえばほんの2%に過ぎないのだという。
大半は物を作る製造過程で生まれる産業廃棄物。

はてさて、このごみの問題でも結局、終着点は産業構造の変革化が迫られているということなのだろうか。


追跡!私の「ごみ」―捨てられたモノはどこへ行くのか? エリザベス ロイト (著)  酒井 泰介 (訳)


22/Jul.2009
終の筈の住処 三崎亜記

短編だったけれど、住処とは何だろうと考えさせられた作品。

ざっとあらすじ。
今まで実家暮らしの二人が、結婚していきなり終の住処になるかもしれない我が家を手に入れます。
新しく開発された地区のまっさらなマンションでの生活。
でも何だか変な感じ。
夜にランニングに出かけ、ふとマンションの方を振り返ると、
巨大なマンションに灯る明かりは一つだけ。自分たちの部屋だけなのです。
他の部屋からの物音も無く、何度お隣さんのインターホンを鳴らしても出てきません。

こんな不気味な感じで始まるお話。
マンションと地元の間の確執や、怪しいマンション管理会社も登場します。

どんな結末が待っているのかと思いきや、特にすっきりする結末があるわけではなく、読み終わった後に残るのは消化不良の気持ち悪さ。

なんだろうこの気持ち悪さは。
作者は一体何が言いたかったのか。
若いうちにうっかり大きな買い物しちゃうと失敗しますよ、とか、
住処っていろいろあるから決める前にしっかり調べなきゃだめよ、とかそういうことなのか。
もしくは、意外とよくあるかもしれない世の中事情をミステリーテイストで書いてみたのか。

そんなこんなでちっともすっきりしないので、住処ってそもそもなんだろうと考えてみました。
勝手なイメージですが、「家」という言葉からは「住んでいる箱」をイメージします。
「住処」という言葉からは「根を生やしている場所」をイメージします。

若い二人が成り行きで選んだ住処からは「ただの箱」くらいの重さしか感じられないのに、そこはうっかり「終の住処」になろうとしている。この不釣合いの状況に気持ち悪さを感じたのかもしれません。


おそらく主人公には終の住処と言い切る自信が無いから、題名に「筈」とついているのでしょう。

いつか住むであろう終の住処。
自分の根を生やしたいと思える場所であって欲しいと願ったのでした。



新潮文庫 yomyom  「終の筈の住処」三崎亜記 著


01/Jul.2011
憑神 浅田次郎

思いもかけない貧乏神の姿であるとか、およそ想像しづらい疫病神の姿にオチャメな笑いを持って読む本なのかもしれないが、オチャメな笑いどころか、壬生義士伝に共通するものを感じてしまった。

主人公の別所彦四郎は三河安祥譜代の御徒士(おかち)組の家に生まれ、その祖先は家康の影武者として大阪夏の陣にて、真田幸村に討たれて名誉の戦死をしたのだという。

その功労にて、代々三十領の御影鎧(三十人の影武者の着る鎧)や武具の手入れをし、一日中蔵の中でお勤めをする。

御影鎧は木箱の中へしまう事は許されず、いつ何どき将軍家に一大事があっても直ぐに飛び出せる様に出しておかなければならない。

従って、ちょっと手を怠るとサビが出たり痛んだりしてしまうので、マメな手入れは欠かせない。

時は既に幕末を向かえようとしている。
幕末になるだいぶん以前より、もう鎧武者でもあるまいし、歯朶具足でもあるまいし、それを着ての影武者の時代ではあるまい。

もうだいぶん以前より、いざという時に備えて、では無く民芸博物館的な存在になって来ている。

その仕事に不平の一つもこぼさずに、毎日毎日マメに武具の手入れをするなどというのは並大抵の努力ではないだろう。別所家代々はこの250年間ずっとその仕事を行って来た訳だ。

この本、憑神(つきがみ)と言う名の通り、憑き物として忌み嫌われる神に憑かれてしまうという話。
貧乏神や疫病神まではまだ良いがその次の憑神だけは絶対に人には廻す事は出来ない。

そして徳川の御家人としての武士道を貫こうとする別所彦四郎にとって貫くべき場所がどんどんと失われて行く。

いつの間にやら、大政奉還。
そして鳥羽伏見の戦いにては錦の御旗を持っているのは薩長軍。

御大将である徳川慶喜は、家来を見捨てて大阪城から逃げ延びて来る始末。
その逃げるさなかにて徳川将軍家の徴である「金扇馬標」をも置き忘れて来てしまうほどの慌てようだ。

ところが江戸の御家人はまさか、将軍が逃げ帰るなどとは到底信じられず、一旦中休みをとって、江戸へ帰って陣を立て直して、反撃体制にうつるものをばかり考えていたのに、将軍は自ら謹慎してしまう有り様。

壬生義士伝の吉村貫一郎が、妻や子を貧に貶めてなんの武士道か、自分は妻のため、子のための武士道に生きる、というのに対して、別所彦四郎はどんな武士道を貫こうとしたのか。

新政府への任官も良しとせず、榎本海軍奉行と共に蝦夷へ、という道も選択しなかった。

その選択肢は、武士道、御家人、徳川家への江戸の町民の怨嗟をも晴らし、250年もの間、全く使われる事の無い武具のために尽くして来た祖先をも救い、別所彦四郎自らが最も誇りに思える、最良で画期的な選択肢だった。

そんな画期的な選択肢を選べる男にもはやどんな憑神も関係ない。

形は違えど、一つの武士道を貫いた、という点において吉村貫一郎との共通点を見るのである。

憑神  浅田 次郎 (著)


20/Aug.2007
月と蟹 道尾 秀介

小学校3年生の時に父の会社が倒産し、祖父の住む鎌倉近辺の海辺の町へ転校した小学生。
おまけにその父も他界してしまい、友達が持っているゲームソフトを何一つ持たない主人公の子は友達が出来ない。

唯一の友達は同じ転校生の男の子。

クラスに他に友達はいない。

主人公は東京からの転校生で、もう一人は関西弁バリナリなので関西からの転校生なのだっろう。
この関西弁の子はかなり能動的な子。
この子に友達が出来ないのはちょっと不思議かな。
誰とでもすぐに溶け込んでしまえるような雰囲気を持っていそうにも思える。
だが、ストーリーのは設定上、この子は孤独である必要がある。

その子は家庭ではドメスチックバイオレンスの被害者で、身体にはいくつものあざがあり、絶食させられたのか、あばらが見えるほどに腹がへこんでいる時なども・・・。
家では虐待され、学校では友達が居ない。

彼らは海辺でペットボトルを沈め、ヤドカリや小エビなどを捕まえたりして一緒に遊ぶ。
子供の遊びというものはだんだんとエスカレートして行くものなのだろう。

ヤドカリの殻をライターであぶり、ヤドカリをあぶり出して遊んだり、そのヤドカリ達を飼うための潮だまりを少し登ったところの岩場のくぼみに作ってみたり。
遊びはどんどん発展?して行く。
次にはヤドカリを捕まえて、その殻をライターであぶって出て来たヤドカリを「ヤドカミ様」として願いを叶えてもらうことを考え出す。
二人とも、複雑な思いを持つ少年たちなのだ。

その「ヤドカミ様」への願いが「お金が欲しい」ぐらいならまだ可愛いものなのだが、これもだんだんとエスカレートして行く。

何かしら心の苦しさから逃げ道を探すのは、大人も子供も同じなのだろうが、その方向がなんとも危うい。

この本を読んだ人の評には子供らしいだとか、少年らしい心理だとか、子供の切実な願いだとかそんな言葉が目立ったが、果たしてそうだろうか。

願い事、自分の叶えたい事を願う場で出て来てしまうのが、人の不幸を願う事になってしまった段階で、もはやそんなもには切実でも子供らしくもなんでもない。

それにしても何と言っもその願いを叶えてやろうとする友人の少年にはかなり少し薄気味の悪さを感じずにはいられない。

祖父の語る「月夜の蟹は食べるな」の逸話が表すように、蟹は醜いものの象徴として描かれている。
月夜の蟹は、月の光が上から射して海の底に蟹の形が映り、その自分の影があんまり酷いもんだから・・・・

主人公は自分で自分の気持ち、願いが醜いことにも気がついていて、月夜の蟹の醜さは、主人公の心の醜さの比喩のように使われている。

この「月夜の蟹・・」が本来一番印象に残るべき言葉であるべきなのだろうが、なぜなんだろう。

「カニは食ってもガニ食うな」という祖父の言葉の方が印象に残ってしまった。

月と蟹 著  道尾 秀介 (著) 2011年 第144回直木賞受賞作品


2011年 第144回直木賞受賞作品
25/Feb.2011
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