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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
Apr.2012
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カッシアの物語 アリー・コンディ

近未来小説。
人類が目指すべきユートピアを描いた作品はいくつもある。
そのほとんどが、実はユートピアとは、管理された監視社会であった、という類のもの。大半の人々はそのユートピアを信じ、これぞ正しい生き方とその与えられたものに満足し、感謝さえしたりする。
ところが、その社会の有りかたに疑問を持つものが表れるや否や、ユートピアはその牙を剥くのである。

何故にそのような監視社会ばかりを描くのだろう。
いったいいつになれば、ジョージ・オーエルの「1984年」の延長でしか勝負しないのだろう。ジョージ・オーエルが皮肉った相手のソビエト連邦はとうの昔に消えて無くなったというのに・・。

とはいえ、それぞれの近未来作者はしのぎを削り、それぞれの新しい世界をみせてくれていることもまた事実。

この物語の世界、人はCREATEする、という行為が出来なくなってしまっている。
文字は読めても文字が書けない。
どうやら、文字を書くことはどうやら禁止されているらしい。
音楽に興味を持つ者も居ない。

生涯の中で二大イベントの一つが17歳で体験する「マッチ・バンケット」と呼ばれる儀式で、生涯連れ合うのに最も相応しい、見ず知らずの結婚相手をその場で決められる。もちろん、たまたま知っている相手と当たる場合もある。
仕事に関してもその人の能力に見合った仕事が割り振られる。
31歳をすぎて子供を持つことは禁じられている。
自分の家の中ですら正直な会話が出来ない。
資料館などで、特定のキーワードで検索をかけると、誰がどんな検索をかけた、とあらぬ嫌疑をかけられかねない。

そして、癌になることもなく健康体のまま生きて、二大イベントのもう一つである「ファイナル・バンケット」と呼ばれるイベントを迎える。
「ファイナル・バンケット」とは80歳の誕生日にめでたく健康体のまま、死を向かえるイベントなのだ。
人間、歳をとって自分が必要とされていない、と思う状況ほど辛いものはない。
この世界で科学的に計算された健康で理想の寿命、それが80歳なのだった。
これがこの物語でいう「ソサエティ」という世界。
「ソサエティ」では何事につけ、公平なのだ。

そして、生まれてから死ぬまで、ずっと管理されているわけだ。


そこまでしてルールに縛られ、管理、監視され、彼らは何を得るのだろうか。
安寧な生活か?健康な肉体か?貧困ではない生活か?

逆にそのルールを破ったら何がもたらされるのだろうか?


優秀な人間は仕分けと呼ばれる仕事を行う。
コンピュータででも行っていそうなそんな仕事を役人となった人間が行う。

仕分けとは特定の仕事に向いている人間、向いていない人間を選り分けて行く仕事。
結婚相手を見つけ出すのも一つの仕分けなのだろう。
その上級職がまた仕分けする人間を仕分ける。

では逆に掟破りをして異端となった果てには何があるのか。
ちょっとした異端は「逸脱者(アベレイション)」と呼ばれ、もっとはずれた者は「異常者(アノーマリー)」と呼ばれる。

異端の身分になると、少なくとも長生きだけは出来そうに無さそうだ。

この物語、ソサエティというこの管理されながらも安全な社会で平凡に生活を送っていた少女、カッシアが、「マッチ・バンケット」で定められた相手以外の異端から来た男の子を好きになってしまう。

そして、文字を書くことを覚え、ソサエティのルールを侵すことを覚え、ソサエティからのはみ出し者になることも厭わなくなって行く。
この一冊でストーリーとして充分に完結していそうにも思えるのだが、続編がまだ出るらしい。

異端の世界へ行ったその後、ということだろうか。
そこがどんな世界かはわからないが、どこだろうが常人ならこんな監視社会よりはマシと思うかもしれない。
でも、生まれてこの方ずっと管理・監視されることに慣れ、平和な世界に慣れたカッシアが如何に耐えて行くのか、乞うご期待、といったところか。

『カッシアの物語』アリー・コンディ著、高橋啓訳 プレジデント社


26/Apr.2012
草原の風 宮城谷昌光

宮城谷氏の三国志が後漢の終わりからがスタートなら、この本は後漢の誕生を描いたもの。

宮城谷さん、三国志を書いている最中にかたわらでこの草原の風を書いていたんだろうな。

三国志に比べると宮城谷さんの筆がなめらかなように思えてならない。
孟嘗君、重耳、呂不韋、晏子・・・など、個人にスポットを当てたを描いている読み物は、長編とは思えないほどにすらすらと読めてしまう。
宮城谷さんのいかにも自分好みの人物にスポットを当てた時、その人物のいい所を存分に引き出している時が、一番ご自身でも書き易いのだろう。
まさに軽快なタッチの読み物。

三国志が決して不出来なわけではもちろんないが、やはりあれだけ多くの人が書いているものを別の観点から描きだすには、そんなにすっきりと割り切って書けるものでもないだろう。
私は宮城谷三国志を文庫から手を出してしまったので、そのまま文庫で通そうと思っているのだが、文庫の出版は未だ第七巻まで。
第八卷の出版待ちなのだ。
それだけこちらは年月がかかっている。
書く方も読む方も。

この草原の風は前漢が王莽の手によって終わり、王莽による新朝という新たな時代に入っているところから始まる。

王莽そのものは儒教家なのだという。

後漢の終焉近くになって現れる、とんでもない悪政を行う閻顕(えんけん)、梁冀(りょうき)、董卓(とうたく)・・・そのはざ間はざ間では、宦官によるこれまた私利私欲の政治。
そんなひどい悪党のような連中が国のトップになったとしても、まだなんだかんだと後漢は続くのである。
それに比べて、王莽の作った新朝の15年という短さはどうだろう。
確かにひどい施策を行っている。
田畑への作物へ増税を行うまでは、仕方ないだろうが、過去何年にも遡って、その増税分を納付しろ、などと言って回れば、どれだけ備蓄豊かな豪農だって逃げ出さざるを得なくなる。

漢時代の呼称、官職名や地名を尽く変えようとしたことも人々に混乱を招く。

自らの後継ぎを誅してしまうことも短期王朝へ拍車をかけたかもしれない。

それにしてもだ。
それにしても反乱軍が興ってから崩壊までが早すぎる。

後漢の終焉前に黄巾の乱やら、散々反乱が起きても延々と後漢が続いたのと比べるとあまりにも早い。

この本には天子という言葉が良く出てくる。

主人公の劉秀も周囲は早く皇帝の地位につくべきだ、と言われつつも永い間逡巡するのは自らが天子たる資格があるかどうか、の見極めがなかなかつかないからである。

後漢が事実上、そのていを為さなくなっても延々続いて行くのは、天子という権威に叛いて自らが賊になりたくないからでもあり、高祖劉邦から続いた劉王朝を廃するということによほどの大義名分がなければなかなか民意を得られない、ということもあったのかもしれない。

それに比べれば、王莽の朝廷は倒す方にこそ大義名分がある。
だから、一旦反乱が起きれば、倒壊するのが早い。

宮城谷氏は主人公の劉秀という人物を思いっきりお気に召したようだ。

この人物には徳がある。

それだけでも充分だと思うのだが、戦もうまい、勇気もある。

青年になるまではひたすら農業をして来た人なのだ。
田畑を生き返らせることの達人でもあった。

その頃から人に対する思いやりにあふれ、自分のしたことを誇らず、他人の成果にしてしまう。

伯父から官吏になれ、と言われて長安へ留学する。

その人が兄から推されるように反乱軍を率いる道に入って行く。

それまで、農業と学問しかしたことのない人がいきなり、反乱軍を率いての戦術などたてられるものだろうか。

土方歳三みたいに若い頃から、喧嘩ばっかりやって来た人なら、人と戦うということが如何なることかを知っているかもしれないが、草木を慈しみ、学業をし、せいぜい他にやった事と言えば運送業の手伝いぐらい。

そんな人があろうことが少人数を率いて百万の大軍を破ったりまでもしてしまうのだ。


「後漢書」を著した范曄(はんよう)という人は、劉秀(光武帝)より二百年の後の人だという。
二百年も経過すれば、英雄伝は誇張されたり、作られたりもするだろう。

歴史書の中にあっても、疑義と思えるところにはちゃんと疑義を述べるのが宮城谷氏なのだが、好きな人物にはついつい、筆が甘くなってしまうのかもしれない。

それでも「あとがき」の中で、劉秀をして平凡な人が王になり皇帝になっていくさまを驚いた、と書いているので、筆が甘くなったよりも本当に驚きの心だけでこの本を著したのかもしれない。

草原の風、(上)(中)(下)と結構なボリュームの本ではあるが、全く退屈を感じずに一気に読めてしまう本である。



草原の風(上)(中)(下) 宮城谷昌光(著)


20/Apr.2012
奪還 麻生幾

麻生幾がかつて2001年に書いた「宣戦布告」。
たった11名の北朝鮮の武装集団がやって来ただけで、右往左往してしまうこの国の有り様を描いていた。
飢えてガリガリになった北の兵士の画像が放映されてみたり、はたまた今回のミサイル打ち上げ失敗と言い、北の武装集団というものへの不気味な怖さは10年前よりも減っているかもしれない。

それでも日本の自衛隊は、組織は立派でも法律でがんじがらめにされてしまって身動きが出来ないのは、今も昔もさほど変わりはない。

小泉内閣の時だったか有事関連法案が可決されたのは、上の麻生氏の本が出版されたことがトリガーではなかったか、などと思ったものだ。

それにしてもウィンカーを付けなければならない戦車だとか、他の国では考えられないようなしばりがこの国を守る軍にはありすぎる中、それでも命をはっておられる人達には、本当に頭が下がる。

この「奪還」の中に、かつて奄美沖に出現した工作船を海上保安庁が撃破し、それから工作船はしばらく日本に近づかなかった、という記述がある。
「九州南西海域工作船事件」と一般に呼ばれている事件のことだろうか。たぶん真実なのだろう。
その正反対のことが、例の仙石・管の尖閣対応後に発生している。
断固たる意思をみせることが、国防にとってどれほど大事か、ということなのだろう。

この本に登場する海軍の特殊部隊、そんな工作船が来て海上保安庁の保安官に工作船に乗り込みそのまま拉致された時などに出番が訪れる。
自らの命を賭してでも、自国民を奪回する。
如何なる犠牲を払ってでも自国民を守る。
その為に必要なありとあらゆる訓練を積んで来たプロ中のプロ。

ところが、そのプロを運用する側にその意識が無ければ、宝の持ち腐れもいいところだ。
この本の中では実際に工作船に乗り込んで、敵と撃ち合い、保安官三名を奪還するが、部下の二名を殉職させてしまう。
そしてなんと敵は全滅。

帰還した彼らに待っていたのは、正当防衛だったかどうか、などという虚しい机上の空論。
結局、日本最強の部隊は解散させられてしまい、部隊長は辞職し、海外へ移住する。

この物語はそこから始まる。
その部隊長はフィリピンのミンダナオで海中での格闘訓練の特訓を続ける。

いつか日本が再度自分を本当に必要とする時のために。

命を賭した自分と自分の部下を見捨てた国のためにさらなる訓練などと、そこまで思える人がいるものなのだろうか。

そんな訓練のさなかに飛び込んで来た依頼が、NPOの国境なき医師団で働くの日本人女医が行方不明になったので探して救出して来て欲しい、という依頼。

ここからは、もうアクション映画さながら。
この男、身も心もどれだけ強いんだ!という感嘆符がつくほどの展開になる。

フィリピンの巨大マフィア組織を相手にたった一人で奪還作戦を進めて行く。

どこかの国の特殊部隊にでも所属した人からでも取材しなければ書けないようなプロの技。戦術。
プロが相手を見てプロと見抜くのはどんなところなのか、そんなプロの視点の記述が満載。

この本、「宣戦布告」が与えたインパクト。
「ZERO」が公安という組織について綿密に調べたような類の本とも違う。
それにあの東日本大震災直後の自衛隊を描いたノンフィクションの「前へ!」とももちろん違う。

それらに比べると、少々アクションものっぽい感もあるが、それでも麻生氏の思いには「身命を賭して」いる人達への敬意があるのだと思う。

奪還 麻生幾 著


17/Apr.2012
町長選挙 奥田英朗

今となっては、ちょっと話題としては古くなってしまった感があるが、数年前のことなどすぐに忘れてしまう我々には今頃読むのが丁度いいのかもしれない。

各々別の物語ではあるが、全て一人の医者との関わりを持つ「オーナー」「アンポンマン」「カリスマ稼業」「町長選挙」という短編が四篇。
というより一人の医者を主人公とした世相ものの読み切りが四篇という表現の方が的確か。

医者と言ってもまともじゃない。
日本医師会の理事のどら息子といった感じの神経科の医者で、タメ口はきくは、ろくすっぽ診察もせず、いきなり注射を打とうとするわ、とはちゃめちゃ。
ところが、そのはちゃめちゃぶりにも関わらず、なんだかんだと診察に訪れた人に本当の自分を気づかせたり、最終的には治してしまったり、と不思議な存在なのだ。
日本医師会で気が付くのだが、この本では実在する団体名、政党名などが平気でそのまま出て来るものと、架空の名前で登場するものがあって、その使い分けの基準はなんなんだろう、と少々気になった。

おそらくこういうことなのだろう。
実在する団体名を使ったところは、この本で書かれた事とはまったく事実には関与しない団体で、東京グレートパワーズだの大日本新聞だのナベマンだのライブファストだのと言った架空の名前でありながら、読者にはそれぞれ読売ジャイアンツ、読売新聞、ナベツネ、ライブドアのことだろう、とわかってしまうような存在こそが、今回モチーフとしていじりたおしてますよ、ということを強調するサインになっている。

「オーナー」の主役はあの読売巨人軍の元オーナーにして読売新聞社会長のナベツネ氏。プロ野球をセ・パ両リーグから1リーグ制へ移行しようと画策するが、反発した古田選手のことを「たかが選手が」と言ってしまったがために、マスコミから袋叩きに会う。
暗闇が怖い、閉所が怖い・・・だが、弱いところは人には見せられない、絶対的な地位に居る人の孤独が感じられるが、この先生にかかるとそもそもその絶対的な地位であることを忘れさせられたりする。

「アンポンマン」の主役も一時の時の人であったホリエモン。
パソコンを使いすぎて、漢字は読めても書くことが苦手になる人は多いが、ここに登場するホリエモンならぬアンポンマンは、ひらがなを忘れてしまう。
田原総一郎と思われる人とのやり取りは、いかにも現実にあったようなやり取りが再現されていておもしろい。

「カリスマ稼業」歌劇団出身で40代とは思えない若々しさと美しさでブレイクしている女優が主役。
摂取カロリーを絞りに絞って体形を維持し、お肌もすべすべ、化粧ののりもいい。
それでもそれが努力の結果だと見せたくないのが、女優という職業らしい。
世の中、アンチエイジングの花盛り。
「そんな歳には見えない」と言われることを喜びにし、日々苦悩するわけだが、圧倒的な若さを前にしてしまえば、そんな作り物の若さなど到底太刀打ちできるものではないのだった。


そして表題の「町長選挙」。
東京都でありながら、東京よりはるか彼方の離島で繰り広げられる選挙戦。
まったく島を二分する選挙で、公務員が公務時間中だろうがなんだろうが、仕事そっちのけで選挙運動に邁進する。
昨年の大阪市長選挙での大阪市職員を思い浮かべてしまった。
負けた陣営は四年間、砂を噛む生活を強いられる。
中間層を取り込むためなら、接待づくしはするは、金は飛び交うは、と無茶苦茶な選挙運動だ。
それもこれも元凶は地方交付税。
たった人口2500人の過疎の島ながらインフラは大都市顔負け。
図書館もスポーツ施設も箱モノはどれも豪華で立派なものばかり。
勝った陣営はそんな使いたい放題の予算を握ることになるわけだ。

これもどこかで聞いたような話ではある。
この話と瓜二つの選挙合戦が島を二分して繰り広げられるのだ。
東京都ではないが、鹿児島の南の徳之○とかいう島だったかな。

地方交付税もここ数年で減って来てはいるはずではあるが、この地方交付税の廃止こそが、国と地方の役割分担を明確にするんだ、と訴えているのが今の時代の人、橋本徹大阪市長だ。

この本が書かれた頃の時代の人がホリエモンなら、今の時代の人はやはり橋本市長だろう。
この人の手にかかれば橋本氏はどんな病気にされてしまうのだろうか。

町長選挙  奥田英朗 著


14/Apr.2012
姫椿 浅田次郎

浅田次郎という作家の持つ引き出しは際限がない。
幕末の新撰組を誰とも違う切り口で切ったみたり、日本がポツダム宣言受諾後に千島列島に攻め入るソ連軍相手にその最先端の占守島(シュムシュ島)というところで最後の戦をする日本兵を描いてみたり、リストラされるサラリーマンを描くかと思えば、死後の世界へ旅立ってしまったサラリーマンを描いてみたり・・・。

そのどれもが最終的には人の涙腺を思いっきり刺激してくれるのだ。

本書、ほんの短い小編が八作収められているが、これがなんとも味わい深い。

「シエ」
9年間、同居人する家族として愛していた猫に死なれてしまう女性。
悲しみに明けくれてしまう中、出会ったのがペットショップのおじさんが手渡してくれた「シエ」(けものへんに解 と書いて シエと読ませている)と呼ばれる動物。
大きさこそ仔犬ほどの大きさだなのだが、顔が麒麟(首の長いキリンじゃない)というだけでも充分に気味がわるいだろうに、額に鹿の角、足には牛の蹄、尻尾は虎の尾・身体は鱗に覆われている、とまで書くのはよほど、「奇妙な」「得体のしれない」ということを強調したいのだろう。

その「シエ」と同居するわけだが、何故かどんなペットプードも一口も口をつけない。
いったい何を栄養源にしている動物なのか・・・。

シエが彼女に心の中で叫ぶ「不幸の分だけちゃんと幸せになれるよ。ほんとだよ」という言葉が無性に心に沁みる。


「姫椿」
銀行からの借入の返済に苦しむ経営者。
唯一残された手段が自らに保険金をかけて自殺をし、借金取りの魔の手が家族に及ばないようにすること。
自殺するならシティホテルでの首つりが一番だろう、と向かおうとする途中で昔行きつけた銭湯を見つけてしまう。
まだ貧しかった頃に通っていた頃のままで、三助が背中を流してくれるようなところ。
そういう世界を浅田氏に書かせると天下一品だ。
湯屋のオヤジは若い頃のその彼とその奥さんを覚えていて、奥さんの当時の呼び名(フーちゃん)まで覚えている。
「こんどフーちゃんも連れといで」
の一言は、初心に立ち戻るには充分すぎただろう。


「再開」
大学を出て三十年ぶりで再開した友人。
その友人から聞かされた話とは・・・。
そのあたりは中略。

東京にはこれだけどこにでも人がいるというのに、国立競技場満杯で10万人。そのたった百倍の人口しかいないことの不自然さに主人公は気が付く。

この視点はおもしろい。
近郊から通勤してくる人が多いので、日中人口はその何倍もある、という反論はあるかもしれないが、国立競技場の100や200に押し詰めれば、東京中から人がゼロになるほど東京の人って少なかったっけ。

この物語、パラレルワールドのようなものを描こうとしている。
あの時の判断で右へ行った自分と左へ行った自分、右へ行った友人と左へ行った友人、正反対の生き方をして三十年も経てば本人が本人に出会ったってわからないぐらいに変わっているだろう。
そんな人生の帰路を変える瞬間など山ほどあっただろう。
そんなそれぞれの判断をした、しないで道を変えて行った無数の同一人物が実は東京ではすれ違っているのではないか、というまさに「世にも奇妙な物語」なのだ。


「マダムの咽仏」
完璧な女として生きたはずのおかまのママの生き様とは・・。

他に
「トラブル・メーカー」
唯一笑える・・・かな?

「オリンポスの聖女」
「零下の災厄」

そして最後に
「永遠の緑」
妻を病気で亡くした大学の博士。
彼の唯一の趣味は競馬。
ギャンプル好きの浅田氏の本領が十二分に発揮されている。

もっと書いてよ、と言いたくなってしまうほどに、それぞれは、あっけなく終わる。
短編もというのは皆まで書かないだけに後は勝手に読者が想像するしかないのだ。

浅田氏の長編が素晴らしいのは言うまでもないが、短編もまたそれぞれに余韻が残るものばかりである。

姫椿  浅田次郎 著


11/Apr.2012
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