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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
May.2011
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津波災害――減災社会を築く 河田惠昭

著者の河田惠昭という人、この震災直後より何度かテレビにてお顔を拝見した。
確か内閣の肝煎りで発足した復興構想会議の一員にもなったのではなかったか。

この本はこの度の震災の直前に刊行されている。
2010年のチリ沖地震津波をきっかけに書かれたものであり、津波被害に対する警笛を鳴らしている。

著者の警笛がもっと浸透していたら今回の津波被害は少なくなったか、というと多少は、とは言えても必ずしもYESと断ずることは難しいだろう。

この本には津波被害についての恐ろしさや津波のメカニズムの解説、津波に対する対処などがふんだんに述べられているのだが、よもや一つの地方そのものがほぼ壊滅状態になり、町や村全体が流されるような事態までは想定していまい。

著者は通常の津波にて、住民の避難率が低いことを問題視しているが、それは今回の震災と津波にも当てはまるだろうか。

この度の震災に関してはいずれ歴史的検証もはじまるだろうが、確かに万を超える多くの方が亡くなってしまったわけだが、行方不明の方の大半は、巨大地震で家が倒壊しその直後の津波にて家ごと流され、その戻り波にて家ごと海へと持って行かれてしまったような、もはやどうしようもない状態の方が大半だったのではないだろうか。

寧ろあれだけの津波が押し寄せたにしては、こと避難という意味ではかなりの人が避難され、避難率は低いどころか、状態から見れば高かったのではないだろうか。

特に小学校などは普段の避難訓練が行き届いていたのか、小学校の校舎はもろ被害に遭いながらも小学生は全員無事だった、という報道を何度も聞いた。

東北地方沿岸部はそれだけ、津波に対する用心を行っておられたが、その用心のレベルをはるかに超える津波が来、しかも大震災で崩壊した家で動けない人はもはや逃げるという選択肢すら持てなかった。
そんな方々が大勢おられたのではないかと推察する。


「東北の万里の長城」と言われる防潮堤を築いた町がある。
岩手県宮古市の田老町。高さ10M、最大幅25M、延長2.4Km。

津波を減殺するはずの無敵の防潮堤ですら、今回の津波にあっては破壊されてしまっている。

筆者は津波は防波堤に激突した段階でそのエネルギーは増加され1.5倍の高さになると述べられておられる。
10Mの津波に対応したはずの防波堤であっても防波堤にぶつかり15Mの津波になってしまうのだ。
この度の津波報道を見ていてもある工場などでは、はるか天井近く高さ16Mの位置まで海水が押し寄せた跡などが映されていた。

筆者が述べるように100%の事前対策などはないのだろう。
減殺ではなく減災。
完全無欠の防潮堤があったとしてもそれに驕らず、逃げるにしかずなのだろう。

かつて、京都の桂イノベーションセンターというところを訪れたことがある。
京都市内の賑やかなところではなく、京都の中でもすこしはずれた場所で近隣には歓楽街どころか飲食店すらほとんどなかったのではなかったか。そんな場所に京都大学の土木工学科の研究施設があった。
そこではビルの中にすっぽりビルを作るという途方もない研究が行われていた。
外ビルがどれだけの強度の地震にあってものそこで揺れを吸収してしまい、まるでぶら下がっているかの如くの内部の建物には一切揺れ感じさせない、そんな研究をしていた。
そこで言う外ビルがまたビルの中にある研究施設なのだからどれだけ巨大な施設か想像がつくだろう。
それを見たのはもうかれこれ10年近く前だったと思うが、その後の耐震ビルと言ってもそんな技術が用いられたなどはトンと聞かない。
巨額な重要施設では案外用いられているのかもしれないが・・。
いずれにしろ、民間使用するにはそんな耐震施設など莫大な費用がかかりすぎて実用化は難しいだろう。
だが、揺れを吸収してしまうというところに津波にも同じようなヒントはないだろうか。
津波に関してもじゃぁ10Mで足らないなら15Mの、20Mの防波堤を作ろうという発想は土台無理がある。
こと相手は自然なのである。
真っ向から向かうのはもう辞めにして、そのエネルギーを緩やかに吸収するような技術、誰か研究を始めないかな。
高く高くするよりも吸収する技術と言うのだろうか。
サッカーでどれだけ強いボールが飛んで来てもすっと足元に落とせるのは瞬時に引いてボールの勢いを吸収してしまうトラップという技術があるからである。
ボクシングにしたって真っ向から顔面ストレートを受けたら途端にダウンだろうが、瞬時に引くことで相手のパンチの勢いを吸収してしまう。
吸収と言ってもサッカーボールやパンチを例に出せば、規模が違いすぎるだろうが!とお叱りを頂戴しそうなので、表現を変えれば、津波を真っ向から防波する堤ではなく、その勢いを逃すような技術とでもいえばいいだろうか。


河田先生の本のことを書くつもりが後半は思いつきのことを書いてしまった。
この本には貴重な記述が多々あるし、教わることも多々ある。
せっかく2010の年末に刊行したばっかりではあるが、1896年の明治三陸地震のことや、1933年の昭和三陸地震のことや、1993年の北海道南西沖地震のことや、2004年のスマトラ島沖地震のことや、2010年のチリ地震のことなど過去の地震津波のことは写真も交えていろいろな計測値で満載なのですが、いろいろな意味で既に我々に伝わり済みのこともありますし、今回の震災を踏まえて新たな減災社会に向けてあらためて加筆、いえ書き直して頂く必要があるのだろう。

とは申せ復興構想会議の委員をなさっておいでなので、その結論が無ければおそらく何も始まらないだろうし、始める気もなさそうな気配濃厚なので、河田先生には本を書き直す暇などありますまい。

一刻も早く復興構想会議からの提言を出して下さいませ。



津波災害――減災社会を築く 河田 惠昭 (著) 岩波新書


30/May.2011
友情 武者小路実篤

恋と友情が絡んで大変なのは、
今も昔も、男も女も同じなのだなぁと思いました。

ざっとあらすじ。
主人公の野島はまだ駆け出しの作家。
彼は友人の妹、杉子に恋をします。
野島にとって杉子は理想の女性。
想いはどんどん深く、妄想はどんどん大きくなっていきます。
野島がそんな恋心を打ち上げられるのは、親友の大宮にだけでした。
大宮も野島と同じく物書きで、作家として成功しつつありました。
互いに刺激しあい、心を許せる親友同士。
大宮は野島の恋を応援し、成就する事を願います。
しかし杉子は大宮を、大宮も杉子を想うようになり、
その事実が野島に知らされたとき、野島は大きく絶望します。

野島の杉子に対する気持ちはとても強いのですが、
杉子を理想化しすぎているのが難点です。
杉子という女性は野島が思うような理想の女性ではなく、かわいらしさもあれば、時にはずる賢さもある普通の女性のように思われます。
そんな杉子が野島に理想化されることを嫌い、大宮に惹かれていくのは仕方のないことだと思ってしまいます。
なんせ大宮という人は、頭がよく器用で、変な癖は無いけど芯のある男性。
女性に対して変にやさしくも無ければ、偉そうでもない自然体の人。
どう考えても野島より魅力的なのです。

しかし物語は野島の強い思いを土台に突き進んでいくので、
野島の恋が成就してくれれば、と願うようになっていきます。
しかし残念ながらそうはいかず、最後にドカンと事実が突きつけられます。

それまで冷静で、杉子に対する愛情を微塵も感じさせなかった大宮からの報告は、かなり衝撃的です。
その事実は彼の口からではなく、大宮と杉子の手紙のやり取りから知る事になります。なんだか知らなくてもいいことまで、二人の恋の盛り上がりを知らされます。
こんな形でなくてもいいのにと思いますが、友人にすべてを隠さずにぶつかって、どのような反応をされようともそれに耐える、というのが大宮が選んだ親友に対する姿勢なのでしょう。
野島は大宮のしたことに対して心から怒り悲しみます。そしてこれから待つ孤独を嘆きます。
その様子は痛々しいですが、同時にすがすがしさを感じます。
それは野島と大宮の間に隠し事は何一つ無く、互いに正直な感情をぶつけ合っているからだと思います。
二人にとって一大事なのだけれど、きっとまた立ち直る日がくるであろうと思えます。

最近は携帯でお手軽につながる友人関係ですが、これだけ本気で向き合う情熱があってこそ、本当の友人、友情と呼べるのかなと思いました。


友情 武者小路実篤著


27/May.2011
盤上のアルファ 塩田武士

冒頭で登場するのは兵庫県の地方新聞の社会部の事件記者で、上からも下からも嫌われている、という理由で文化部へ左遷される男。

新聞記者氏は文化部で新聞社が主催する将棋や囲碁のタイトル戦のお膳立てやら、観戦記を書かねばならないが、彼は将棋も囲碁も全くのシロウト。

もう一人の登場人物はこの新聞記者氏と同年代の男で万年タンクトップ一枚の坊主頭、到底格好良いとは言えないおじさんなのだが、こと将棋に関してはアマ王者になるほどの実力の持ち主。
おじさんと言ってもまだ33歳なのだが、一般の若者たちとあい入れる要素はかけらもない。


この人の生い立ちたるや悲惨で、小学生の頃に母親は男を作って家を飛び出し、父親はバクチ好き、酒好きで、借金まみれの毎日。
借金取りから逃げ回っていたもののある日掴まり、それ以来帰って来ない。

一人ぼっちの家に別の借金取りが上がんだはいいが、金めのものなど一切無い。
フライパンならあるけど・・みたいな。
その借金取りのオジサンが将棋を一曲やろうと言う。
賭け将棋だ。
負けても払うものなど一切持たない彼は「命を掛ける」と言ってしまう。
それ以来、毎日借金取りのオジサンは弁当を持って来ては将棋を教えてくれる。

その後も伯父一家に引き取られたはいいが、捨て猫以下と言ってもいいほどの扱いを受けるという過酷な少年時代を送って来た。
そんな生い立ちの男なのである。


冒頭の新聞記者氏とこの丸坊主男が出会い、なんと同居する・・・という話の運びなのだが、そのあたりを読んでいる雰囲気では、ボケとツッコミのやり取りみたいな軽いタッチの読み物だとばかり思っていたが、そうでは無かった。

この丸坊主氏を巡っての感動の物語が繰り広げれられる。

丸坊主氏はなんとプロ棋士を目指すのだ。

プロ棋士になるには年齢制限があるらしいのだが、年齢制限を超えた人にもほんの針の穴を通すような狭い門だが、プロになる方法があるのだという。

かなり高いハードルなどという言葉では足らないだろう。
未だ一人もそのハードルを越えていないというのだから。


それにしても将棋の世界、いや将棋だけではないのかもしれない。
プロ野球にしたってサッカーにしたって、相撲にしたって似たようなものかもしれない。

一旦勝負師の世界を目指した者は、その勝負師の世界で勝ち残れなかった時、大半が勝ち残れないのだろうが、それがそこそこ年を取ってしまってからでは、他の職業に簡単につけるものではないだろう。

野球やサッカーにはまだ、少年向けのチームのコーチみたいな道がもしかしたらあるかもしれない。

将棋や囲碁ならどうなんだろう。

将棋クラブで雇ってくれたりするものだろうか。
囲碁なら碁会所で先生なりの職業があるのだろうか。

いずれにしても中卒33歳の彼にはプロを目指す道は、後の無い厳しい道なのだ。

それと同時に彼の対戦相手になる若手にしたって、年齢制限の26歳までに三段リーグへ登らなければ、プロへの道は断たれる。
彼も必死なら相手相手も必死なのだ。

この本、神戸から大阪までの阪神沿線の良く知っている地名が多々出て来て親しみが湧いてしまったというのも気に入った点ではあるが、それより何より、序盤の出だしはかなり軽い読み物を思わせるながらも、最終的には勝負に生きる男の生き様を存分に楽しませてくれる一冊である。


盤上のアルファ 塩田 武士著 第5回小説現代長編新人賞受賞作


20/May.2011
愛、ファンタジア アシア・ジェバール

1830年、フランス軍がアルジェリア上陸を始める。
その1830年代があったかと思うと作者の幼年時代に、また再び1800年代に、舞台は小さな章を経る事に年代が変わって行く。
どの時代でも語り部は、北アフリカのイスラムの女。
1830年から20年ほど続いた戦争。
そして第二次大戦後直後より続いた戦争。
1962年に独立するまでの間、1830年からトータルで132年間もの間、アルジェリアの人は、フランスと戦うか従属するかのどちらかをせざるを得なかった。

その戦いはアルジェリア戦争として男たちの戦争として歴史年表に残るのだが、読み書きのすべを知らない女性たちは口伝えにその歴史を語り継いで行った。

1830年の上陸戦の時には、二人の女性の事が語られている。
一人は息絶えながらも、その手にはしっかりとフランス兵からえぐり取った心臓が握られていた。
もう一人は子供を抱えて逃げていたが、銃弾に当たって傷つくと子供を敵の手に渡すまいと、その子の頭を石でたたき割った、とある。

なんという凄まじさなんだろう。

1845年、山間部の洞窟に隠れ住んでいた部族をフランス軍は火責めにする。
60mにも及ぶ炎を18時間もの間燃やし続け、煙攻めにし、燻し続ける。
その後に残ったのは男、女、子供1500人の死体。数百頭の羊と牛の死体。
これは口伝えではなく、従軍していたスペイン人士官が書き残しているものからなので、その数字はおそらく妥当なのだろう。


19世紀と20世紀を行ったり来たりしながら、一体何人の女性から伝え聞いたのだろうか。
ムジャヒディンをかくまったとして、家を焼かれ、逃げ惑う女性。
夫を殺され、兄が殺され、息子が殺され、家が焼かれる女性。
この本一冊の中に何度家が焼かれる話が出て来ることか。


フランスとアルジェリアの関係という意味で日本で一番有名なのはあのワールドカップで活躍したジダンではないだろうか。
なかにはカミュという人も居るかもしれないが・・。
あのワールドカップの試合最中での相手選手への頭突き。あれは当時、「移民の子」とヤユされたのではないか、ともっぱらだった。

フランスの中での移民問題で言えば、現大統領のサルコジ氏はかつて、内相時代に移民たちを「社会のくず」「ごろつき」と広言したことは良く知られている。


著者は1936年生まれのアルジェリア人である。
同世代の女子がブルカというヴェールを被り、家の中に閉じ込められる年頃にフランス語の学校に通い、フランスへ留学する。
その彼女でさえ、この本の中で何度もフランスをして「敵」という表現を用いている。

彼女はフランス語はかつて自分の国の人々を葬る石棺だった、とも書いている。
そう書きながらもその言語を使ってこの本を書いている事への自己への矛盾についても自問する。
この本の背表紙には、20歳で「アルジェリアのサガン」といわれ・・という説明文がある。
そんな彼女だからこそ、「他者の言語」であったとしても、敢えてフランス語で同胞の嘆きを著すことの方が発信力は大きいのだろう。


フランスではつい先日の4月に「ブルカ禁止法」が施行されたという報道があった。

この本の中の1840年代の記述に地方の郷長が娘を花嫁とする婚礼の行軍の際に裏切り者によって殺されるシーンがある。
裏切り者たちは、女性たちに装身具を差し出すように命令する。
花嫁であり郷長の姫である女性はティアラをはずし、ヴェールを取り去るかと思うと全身に纏っていた装身具をはずし、とうとう裸になってしまう。
あたかもヴェールを取ることではもはや裸になったのも同然とでもいうように。


つい先日ビン・ラディン容疑者をアメリカの部隊が急襲、射殺したというニュースが全世界に流れ、米国では拍手喝采の嵐が報道された。

あの9.11の惨劇を思えば、誰しも理解は出来る。民間人を無差別に対象とするテロ行為など許せるものでは無いのは当たり前である。


それでも方や虐げられて来た民族の人たちは、100年以上にわたって無辜の民を殺され、略奪され、焼き討ちされ、ついには蔑まれたのだ。

100年以上にわたってムジャヒディンたちは民族のために戦い続け、女たちは彼らを匿い続け、家を焼かれた。


この日本に住む我々は、震災後のトモダチ作戦を展開してくれたアメリカ軍の人たちにもちろん「ありがとう」の気持ちで一杯だし、原発へ対処への支援の手を差し伸べてくれているフランスの人たちにも「ありがとう」である。


それでも米国大統領は選挙での勝利という目標があるにせよ、リアルタイムで皆で急襲作戦を眺めていた写真を公表したり、皆を歓喜させる演説は米国内のみならず世界に流れているのである。
あれを見たイスラムの人たちの気持ちは複雑だったのではないだろうか。

もはや死刑は執行されたのである。
執行された後の歓喜である。
正義の勝利宣言よりも寧ろ「亡くなった魂よ、安らかなれ」のような声明文を残すぐらいにしておいたら良かったのに、と思うのは私だけだろうか。

イスラムの人たちの気持ちを逆なでするするほどに聖戦士の卵たちは耐えることなく生まれて来るではないのだろうか。

アメリカもフランスもイスラムの人たちの気持ちを逆なでする政策を施行したり、演説をしないでおいて頂ければ宜しいのにと、我々が感謝するアメリカの人やフランスの人のためにも思ってやまない。



愛、ファンタジア アシア・ジェバール著  石川清子訳


14/May.2011
点線のスリル 軒上泊

2歳の時に施設の前に捨てられていた少年。
13年間の自分を振り返って何も見えないと作文に書く。
自分の歩んで来た道は点線なのだと書く。
自分の出生に至るまでを知らなくても、本当の親を知らなくても、それまでの人生は決して点線などではないと思うのだが、ずっと暗闇に生きるような暗い学校生活を耐えて来た彼には点線に思えるのかもしれない。

施設で育ったからってそんな苛めの対象になったりはしないだろうに。
おそらく学校では彼自信が暗い殻の中に閉じこもっていたのだろう。

それにしても彼から見た学校の連中というのはあまりにも醜い。
新聞配達をしてから学校へ登校したからインク臭いっと騒ぐ女子生徒だとか。
まぁ、そういう設定なのだ。
ここで書かれているようなクラスメートなら、彼から見れば確かに記号の群れであり、ヒト科のメスであり・・なのかもしれない。

そんな少年が図書館で出会った年上の女の子に引っ張られる形で、自分の出生を探索する。

この物語にはもう一つの探索がある。

偶然に間違えてチャイムを押してしまった家に住む認知症のお婆さん。
一人暮らしで、元ヤクザだという隣人が面倒をみている。

「あたしには行かなければならないところがあるの」と老婆は言う。

認知症だと聞かされれば、あいずちだけうっておけばいいだろう、と思うのが一般人的な発想かもしれないが、この少年は放っておかない。
元ヤクザの隣人を撒きこんで探索を始める。
その老婆がどこから来たのか。
これまで何をして来たのか。
どこへ行かなければならないのか。

その二つの探索をめぐっての展開はなかなか読ませてくれるのだが、ここらあたりまで来るとちょっと嫌な予感がしてしまうのだ。

そう来るんだろうな。
いや、それだけはやめて欲しい。

二つの探索が接点を持ってしまう?うすうす感づいてしまうが、この二人の出会いからしてそんな偶然があったら「ご都合主義」のそしりを受けてしまうのは必至じゃないか。

ネタバレは書くまい。
だが、途中まで読んだ人は誰しもその方向への予感を感じるだろう。

仮に接点を持とうが、ガッチリ重なってしまおうが構わない。
点線は点線のままでは少年が可哀そうだ。

ちゃんと実線にしてあげなければ、作者も終わるに終われないだろうし。



点線のスリル 軒上泊著


10/May.2011
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