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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
Oct.2011
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八日目の蝉 角田光代

ざっとあらすじ。
愛人の子供をあきらめたことで子供が作れなくなった希和子は、愛人宅へ忍び込み、発作的に愛人とその妻の子供を誘拐して逃げてしまいます。
警察から身を隠すため怪しい宗教団体に身を潜め、その団体を出てからも見つからないように生活しますが、3年半の後に逮捕されます。
物語は誘拐された子供、恵理菜の物語へと続き、理菜も希和子と同じように妻子ある人の子供を身ごもってしまいます。
そのとき恵理菜は何を思うのか・・・というようなお話。

愛人と愛人の妻への憎しみ、そして子供を持てなくなったことで余計に強くなってしまった母性が爆発して、子供を誘拐してしまった希和子。
トイレで髪を切り、一人の女性として幸せを望んでいた日々にもう戻れないことを感じたのか、愕然とします。
誘拐した子供を「薫」と名づけ、親友や見知らぬ女性の家、宗教集団を転々とします。最初は逃亡する難しさからで薫を置いていくことも頭をよぎりますが、薫と過ごすうちに母親としての愛情が芽生え、薫との日々を守りたい一心で逃亡するようになります。
希和子のしていることは大きな犯罪ですが、希和子のつらさ、そして薫に対する愛情の強さが伝わってきて、読み進むうちに希和子の気持ちに寄り添ってしまうようになりました。
でも誘拐された子供にとっては許せる話ではない。
母親だと思っていた人と突然引き剥がされて、本当の母親という人の元へ連れて行かれ、そこからついに馴染む事が出来なかった子供の気持ちを考えるといたたまれない。

とても心が痛くなる物語なだけに、どこかに救いはないかと探しました。

そして考えたのは「母性」について。

母性の強さが犯してしまった犯罪かもしれないし、母性によって希和子は薫を自分の娘として愛して、母親としての幸せを感じることができた。
愛人の妻に「空っぽのがらんどう」だといわれたことを希和子はずっと許せなかったのですが、逃亡している間、薫の存在によって自分からあふれてくる愛情を実感して、「空っぽのがらんどう」という言葉から解放されていたのかもしれない。

そして薫(恵理菜)も母親になることによって何かを許せるようになるかもしれない。

重く辛いテーマでも、最後に何か明るい光を感じられたのは、「母性」の持つ力に希望を感じられたからかもしれません。




八日目の蝉 角田光代 著


28/Oct.2011
コンニャク屋漂流記 星野博美

このタイトルからして、こんにゃく屋さんが何故か航海に出てはるばるロシアの彼方まで漂流し、そこでこんにゃく入りのおでんなどを作ってたいそう気に入られました。みたいな漂流記を期待してしまうかもしれない。

この本はそういう類の漂流記ではない。

著者彼女の一族の屋号が「コンニャク屋」。
この本は彼女自身の自分史であり、一族の歴史である。

彼女のルーツである「コンニャク屋」の屋号。

そもそも紀州から二人の兄弟がこの浜に来たところから始まるのだという。
そして彼女はとうとう紀州まで行ってそのルーツを探ろうとする。



90歳でも健在な一族の明るい光「かんちゃん」。
祖父の姪にあたるのだっけ。

そのかんちゃん曰く、ドン・ロドリゴが漂着した時なんぞは・・・。
まるで昨日のことのように。

ドン・ロドリゴなるスペインの総督が彼女たちの出自である千葉県の岩和田に漂着したのは、なんと400年も前の話。
その頃の岩和田は貧しく、漁民でありながら魚もまともに食べていない様子が記録として残されているのだという。

人口300人ほどの村落に異人の漂流民が300人以上。
一世帯に平均4〜5名か。一世帯人口が7〜8人なら同じく7〜8人の異人さんをホームスティさせたのだろう。
海で遭難した人は人肌で温めるのが一番、と貧しい中でも身体を張っての救助活動を行う。

世はまさに家康が天下を取らんとする時代である。
それが、つい先日のことのように語られるのだから、戦前戦後などはほとんど昨日だろう。
時代というものの感覚がおかしくなってくる。

彼女の文章の中にたまに登場する彼女の祖父が残した手記。
お祖父さんもなかなかに筆達者だったことがわかる。


自身のルーツ探しもさることながら、何故にその時代に大量に紀州から房総半島に漁民が流れて来たのか、その推理もまた楽しい。



星野博美 『コンニャク屋漂流記』 文藝春秋


19/Oct.2011
贖罪 湊かなえ

新聞の広告には「本屋大賞受賞作」とあったと思ったのだが、ネットで「贖罪」を検索してみたら酒井法子の同名の本が並んでいた。

本屋大賞受賞作と言っても知名度低かったのか?などと思いつつも、湊かなえで再検索して注文。
本屋大賞受賞作というのは本屋大賞受賞後第一作の見間違いだったようだ。

それはさておき内容。

何にもない田舎町。
何が取り柄って、それは「空気がきれいなところ」。
何故「空気がきれいなところ」と言われるか、と言うと空気がきれいなところにしか工場を作らない精密機器メーカーが工場を移転進出して来たから。

その精密機器メーカーの移転進出によって、田舎町に東京のお嬢様、お坊ちゃま、田舎では考えられなかった上品な奥様方が同じ地域に住むこととなる。

その平穏な田舎町で、悲惨な事件が起きてしまう。
小学生の女の子五人(内四人は元からの地元の子で一人は東京から来たお嬢様)が夏休みに学校へ入り込み、バレーボールをして遊んでいたところにプールの点検に来たという男が現れ、一人手伝ってくれないか、という。

地元の子四人はそれぞれに自分がやる、と手を挙げるが男が指名したのはエミリという名前のお嬢様の方だった。

その後、四人はバレーボールを続けるが、エミリの帰りがあまりにも遅いので、プールへ行ってみると、既に男の姿は無く、横たわったエミリの姿を発見する。

田舎町で少女殺人事件が起きてしまった。
そこからこの物語は始まる。

「PTA臨時総会」
「くまの兄妹」
「とつきとおか」
とサブタイトルがあるが「フランス人形」はその残された四人の女の子の一人、紗英がとある女性に宛てた手紙で構成されている。

この「フランス人形」を読んだ時に「なんだこれは短編だったのか、十分に物語として完結してしまっているじゃないか」と思ってしまったが、そうではなかった。

「PTA臨時総会」、「くまの兄妹」、「とつきとおか」とそれぞれ生き残った女の子のその事件当時のことから以後時効間際の15年間を描いていた。

中でも圧巻は二番目の「PTA臨時総会」だろう。
四人の中の元々はリーダー的な存在だった真紀という女の子は成長して小学校教師になっていた。
そのプールの授業中にサバイバルナイフを持った男が生徒の前に現れ、「この国は間もなく滅びる」だの「潔く死を選べ」だのと叫びながら生徒に向かって突進して来た。
真紀は男に立ち向かい、足をすくってプールへ投げ込み、その際に男は自分で自分の太ももを刺してしまうが、尚且つも這い上がって来ようとするところを真紀が顔面を蹴り上げて這い上がらせなかった。

自らの身を投げ打って命がけで生徒の命を救った勇敢な行動だろう。

ところがこころない人々が、その間に助けに行かなかった、いや行けなかった男子教師の臆病さをネットで笑い物にし、そればかりか自らの危険を顧みずに生徒を救った真紀までも這い上がろうとした犯人を蹴り上げたことで犯人が死んでしまったことで過剰防衛だ!殺人だ!と騒ぎたてられる。

そこで事の顛末を父兄に聞かせるためのPTA臨時総会なのだが、この章は最初から最後まで真紀の演説のみである。

そこで彼女は小学時代からの話を言って聞かせる、ある一人の人のために。

彼女たち残された四人の子は事件から三年後、エミリの父母が東京へ戻るという前日にエミリの母から呼び出される。
そこで、はっきりと言われるのだ。

「私はあなたがたを決して許さない」
「時効までに犯人を見つけなさい」
「それができないのなら、わたしが納得できるような償いをしなさい」
と。
この「償い」の一言に、四人の子達がどれほど縛られたことか。

真紀先生の言葉は一方ではこの母親に。
一方では「人殺しの教師などくびにしろ。みんなの前で土下座をして謝罪をさせろ、責任を取れ」と言っていた父兄たちに向かって手厳しく言い放つ。

『告白』の一場面を想起してしまった。


湊かなえという人、教職員の経験をしていて、そこでかなりの憤りを感じることを自ら体験して来た人ではないのか。
でなければ、なかなかこれだけの強い言葉が発せられないのではないだろうか。

もし、そうでなくてこれだけインパクトのある言葉で父兄に堂々たる意見を繰り広げられるとしたらそのエネルギーの源泉はどこにあるのだろうか。


自校での事件についての申し開きで、それとは関係のない彼女の生い立ちなどの話などををこんなにえんえんとさせてくれる状況と言うのはなかなか考えづらい。
そういう意味では他の場面もリアリティに欠ける場面が多々出て来る。
だが、そんな細かなリアリティよりも例えばこの場面では若い女教師の発する強いメッセージの方に価値がある。


そのあとの二編で残りの二人の15年が描かれる。

さて既に「償い」という言葉が登場したわけだが、果たしてこの「償い」は誰が誰に対して行うべきものだったのか。

タイトルの「贖罪」とはそもそも誰が犯した罪をどのように贖うことなのか・・・。

まぁ、最後まで読んでみて下さい。


贖罪 湊かなえ著 本屋大賞受賞後第一作


12/Oct.2011
忘れられない脳 ジル プライス

サブタイトルは「記憶の檻に閉じ込められた私」
著者の欄に「バート デービス」という名前もあるので共著なのだろうか。

子供の頃からの記憶がほぼ完ぺきに残っているというのはどんな状態なんだろう。
この本の自伝を書いたジルという女性は2〜3才の時の記憶も有り、本格的に記憶が残り始めたのは8才から。
14才以降になってからというものほぼ100%の記憶が頭に残っている。
頭の中には30年以上のDVDが録画をし続けながら、再生をし続けている状態か。

いや「記憶がある」とうだけなら時に困らないだろうが、常に子どもの時からの記憶がアトランダムにつなぎ合わされて頭の中を駆け巡っている状態というのは、どう考えてもまともな暮らしが営めるとは思えない。

筆者のジルという女性の頭の中には全てのシチュエーションが頭の中に残っている。

かつて映画「レインマン」でダスティン・ホフマンが、一度読んだもの、一度見たものを丸暗記してしまうサヴァン症候群の自閉症の男を演じていたが、そういう丸暗記とはまた違うのだ。
彼女は九九さえまともに暗記出来なかったと書いている。

自分で見た、自分で感じたものをその感じたままに記憶している。
子供の頃、恐いと感じたものはそのまま恐いと感じたままに記憶が再生される。

何か子供の頃にショッキングな出来事があるとそれがトラウマになるとか、よく言われるが、彼女の場合は全ての出来事がトラウマ?
精神的な外傷ではないが、記憶への残り方はトラウマみたいなものとといってもいいのかもしれない。

楽しい記憶だけが残っているならいいが、ちょっとした不注意な発言で人を傷つけたり、傷つけられたり、辛いこと、悲しいこと、いやなこと、怖い経験、全てが頭に残ってしまっては溜まらないだろう。

ちょっとした嫌な出来事を一日、二日で忘れられるというのは人間の生きて行く上での自衛本能ではないだろうか。

少し前の事だが、長年会っていなかった高校時代のサッカー部の同期の連中と同期会で集まる機会があった。
話題の中心はやはり高校時代のサッカーの試合の話。

その時に人の記憶というものがいかにあやふやなものであるか、ということを痛感した。
高校の最後の公式戦でPK負けを喫してしまい、その試合を最後に引退となったわけだが、最後のPKのシーンは蹴った本人はまさか忘れていないだろうと思っていたら、あろうことか、はずした二人だけ、まさに二人共、全くその試合そのものを記憶していなかった。

あの南アのワールドカップだって本田の活躍より駒野のPKの方が頭に残ってしまっているというのに。

逆に全員が覚えていると言い張ったのが、自分自身が決めた高校時代の初のゴールシーン。
これは先ほどと逆で、本人だけしか憶えていない。

みんなちゃんと自分のいいシーンだけはキッチリと憶えていて、嫌なシーンは頭から消し去ってしまっている。
良く言えば前向き思考の連中ばかりなのかもしれない。

全員が記憶のパズルの断片を持っていて、皆の断片をつなぎ合わせてみるとパズルが仕上がっていくみたいな楽しい時間だった。

人は案外頭のどこかには全てを記憶をしているのかもしれない。
単に繋がらないから出て来ないだけで。
何かきっかけさえあれば、そんなこともあったっけ、と脳の中で切り離されたものが引き出される。
もしくは閉じ込めておいた封印が解かれるのかもしれない。


それにしても彼女はこの膨大な記憶と結構うまく付き合って来ているのではないだろうか。
確かに情緒不安低な時期もうつになりかけた時もあっただろうが、周囲の人の心がけもあってか、健全に40代を迎えているように思える。

大抵の人間なら情緒不安低どころか、気が狂ってしまうのではないだろうか。
彼女が意を決して出会うことにした脳科学者は世界でも初めての症例だと言うが、実際には世界中で一人だけだったのだろうか。
脳科学者の前に存在しなかったのは、そんな症例の人が他に居たとしても、とうの昔に頭がおかしくなってしまうか、自分の嫌な記憶に苛まれて自殺してしまっていたからかもしれない。

ともあれ、世界にはそんな超記憶症候群の人が存在する。

こちらは昔の記憶どころか、昨日の記憶でさえ、いや数時間前の記憶だってあやふやなことしばしばなのに。

それを人は健忘症と言うのかもしれないが、自分では寧ろ頭がそっちを向いていなかっただけ、頭に入れることすらしなかった事柄だと思うことにしている。
もしくは上の空状態か。

「いやぁやはりそれは健忘症でしょう」

そっ、そうなのか?自分では自分の得意技だと思っているのだが・・・。


忘れられない脳  記憶の檻に閉じ込められた私 ジル・プライス(著) バート・デービス(著) 橋本碩也 (訳)


08/Oct.2011
大盛りワックス虫ボトル 魚住直子

同じ小学校に、しかもたったの3クラスしかない同じ小学校に6年間も通っていたというのに、中学へ入るやいなや、「えぇ!同じ小学校だったっけ」と言われる少年。
どれだけ存在感無いんだ。
名前を忘れられることなら、まだまだ普通だが、もはや存在そのものが記憶から消されてしまっている。

小さな頃からそうだった。
かくれんぼをしていたら、かくれているうちに存在を忘れられてみんなが家に帰ってしまっていたり、小学校の催し物を行った時も一人だけ遅れて参加出来なかったのに、参加していないことにも誰からも気が付かれなかった。

「透明人間」を取り上げた本や映画というのは昔からいくつもある。
その中では透明人間って不便だったり、透明だからこそなのか、返って目立ってしまっていたりする。

真の透明人間というのはこの主人公:虫ボトル君のことではないのか。
見えていてもその存在そのものがあまりにも希薄すぎて、結局居ることに誰も気が付かない。
昔の日本の忍者にはそういう技術があったという。

存在感を消すという技術は、透明人間を作りあげるような科学技術は不要だが、効果としてははるかに有用なものなのだろう。

しかし、それはあくまでも存在を消したい人にとってであって、自分はここに居るんだ!と存在を認めてもらいたい少年にはたまらないことだろう。

自宅に戻った彼はペットボトルに向かって秋葉原連続殺傷事件じゃあるまいに「こうなったら手あたり次第に1000人ぶっ殺ししてやる!」と叫ぶところからこの話が始まる。

その1000という数字がこういう具合に返って来るとは。
ペットボトルの底に現れた、糸くずみたいな手足の虫が彼に命令する。
次の誕生日までに人を1000回笑わせろと。
なんともたわいのない話ではあるのだが、とにかくそういう設定なのだ。

相棒を探して文化祭でコントをやってみよう・・と決心をしてからは彼の中で何かがはじけたのではないだろうか。


以外にもお笑い芸人には昔ネクラだったとか、静かで目立たない人だった、みたいな人が多いと聞いたこともある。

案外、こういう人が将来芸人になってしまっているのかもしれない。


いや、芸人になるかどうかはどうでも良くて、彼ともう二人の相棒の彼らが味わった達成感はそれから先の彼らにとって大きな財産となって行くのだろう。




大盛りワックス虫ボトル 魚住直子著 YA!ENTERTAINMENT


04/Oct.2011
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