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読み物あれこれではスタッフが各々勝手きままな読書感想文を書いております。暴言・無知・恥知らず・ご意見はいろいろお有りでしょうが、お気に召した方だけお読み下さい。
   
Nov.2009
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猫を抱いて象と泳ぐ 小川洋子

子供なら誰しも背が高くなりたい、もっと大きくなりたいと思うのが普通だろう。
だが、この主人公は大きくなることを恐れる。
大人になることを恐れるのではなくからだが大きくなることを恐れる。

デパートの屋上に連れて来られた小象が大きくなってしまったために、本来なら屋上から去るべき時にエレベーターにも乗れず、階段も通れず、そのまま37年もの生涯をデパートの屋上で鎖に繋がれたまま過ごした。
この主人公が目にするのはインディラという名ののことが書いてある屋上の立て札だけである。
それでも主人公はインディラに話しかけ、インディラのことを思い、自ら大きくなることを恐れ、太った人がそれ以上太ってしまうことを懸念する。

小川洋子という名前に覚えがあって、中身もわからずに手にしたこの本だったが、その覚えは正しかった。果たして「博士の愛した数式」を書いた小川洋子氏だった。

この本、チェス好きならおそらくたまらない一冊だろうな、と読みながら思ったが、チェスを全く知らなくても十二分に楽しめる。

この本には主人公の名前が一度も出て来ない。

それはあってはいけなかったのかもしれない。

この主人公を作り上げたのは作者かもしれないが、主人公と同じように生きたかもしれないはずの人形の中の無名を望んだ天才チェスは確かに存在したのだろう。

リトル・アリョーヒンは実在したのかもしれない。そんなベールを被せておくためにも主人公に名前などはなかった方が良かったのだろう。

かつて実在したアリョーヒンというチェスの世界チャンピオンの残した棋譜はまるで一篇の詩のようであったと記述されている。

リトル・アリョーヒンもまた、美しい棋譜を残すことだけを考えてチェスを指す。
最強の一手は必ずしも最善の一手ではではない、と言ったみずからのチェスの師マスターの残した言葉どおりに。

チェスの指し方でその人がどのような人なのかがわかるのだという。
実際のその人の行動を見ているよりもチェスを指している時のほうが、人間が良くわかるのだと盤下の詩人は言う。

今やコンピューターチェスもコンピューターが人間チャンピオンに勝ってしまうようなところまで来てしまった。

盤下の詩人はコンピューターチェスチャンピオンの棋譜にどんな性格を見るのだろうか。


猫を抱いて象と泳ぐ  小川洋子 著


24/Nov.2009
フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由 横田増生

かつてまだ冷戦時代の全盛期に城山三郎氏がいずれ資本主義国家は社会主義的になり、社会主義国家は資本主義的になるだろう、と談話だったかエッセイだったか、対談だったかで書いていたのを読んだ覚えがある。

まさに実際にそうなっていたのだった。
中国では20代、30代でも人の何十倍、何百倍を稼ぎ出す事業家が現れ、
この本で紹介されるフランスという国、まるで1970年代のソビエト連邦の宣伝文句とそっくりじゃないか。

教育は無料。幼稚園から大学まで無料です。
ソビエト連邦の国民は皆平等なのです。
ユートピアなのです。と。

そんなにフランスはユートピアなのか。

「フランス ジュネスの反乱」という本ではフランスの別の一面が描かれている。

日本もかつては一億総中流などと言われ、もっとも社会主義が成功した稀有な資本主義国家と言われた時代があった。

一億総中流と呼ばれる時代にも格差はあっただろうし、貧しさだってあっただろう。
しかしながらいつしか一億総中流は死語となり、この国は格差社会と呼ばれるようになった。

格差なるものはどんな社会にも生まれるのだろうし、貧乏な人だってどんな社会にでも生まれるのだろう。
貧乏すなわち貧困とは違うだろう。

清貧という言葉がある。
金銭的に貧しくとも心まで貧しくなってしまってはどうしようもない。

金銭的な貧しさよりも満足度が得られない社会、期待の持てない社会、夢の無い社会、そういう社会こそ忌み嫌われる社会なのではないだろうか。
今やまさに期待の持てない社会


この本は2009年1月に出版されている。
まさに現政権の選挙時のマニュフェストを先取りしたような内容の記述が多々ある。

この手の本が現政権のマニュフェストを書かせたのではないだろうか、と思うほどに。

子供手当てがまさにそれである。
専業主婦を害悪的に評し、扶養控除の廃止を訴える。

子供の養育費に一人当たり2千万円が必要だって、そりゃ2千万円かける人も居るってだけだろうに。
塾へ行くのが何故当たり前なのか。私立大学へ行くのが何故当たり前なのか。

富裕層は子供を塾へ通わせ、偏差値の高い学校へ通わせ、一流大学を出てエリートとなり、貧困層はそんなお金が無いから、貧困層の子供はやはり、ニートや非正規雇用になるって、ちょっと短絡的すぎやしないか。

世の中で活躍している人に子供の頃は貧乏でした、って人はいくらでもいるじゃないか。それに塾へ行ったら一流大学か?
なぜそんな短絡的な思考しか出来ないんだ。

子供手当ての支給すなわち少子化社会のストップに本当につながると思っているのか?

先進国(これまでの)では概ね少子化の傾向にある。
そもそも人口が右肩上がりで増え続けて行っていた事そのものが異常だったという論もある。
江戸時代300年間、日本の人口は一定だったのだとか。
これからは人口減少時代へ入って、1億が8千万にそして6千万にそれから人口一定の時代が来るという説を述べる学者も居る。

いや、そういう説があるから少子化を諦めろというわけではない。

少子化の対策はバラマキじゃないだろう。

バラマキをするなら、金よりも渡辺淳一の「欲情の作法」でもばら撒いた方がまだ効果があるんじゃないのか。

それより何より国家ビジョンを打ち出せないところが一番の問題じゃないのか。

夢のない国じゃ、子供も可哀相だ。



23/Nov.2009
聖女の救済 東野圭吾

整形手術をしてまでも逃げおおうせようという人間は確かに存在した。
だが、トリックというものを駆使してまでして人を殺めようなどと思う人間が果たしているのだろうか。
それだけの頭脳と労力を使うぐらいなら、その頭脳は別の道に活かすべきと頭脳そのものが指令を出すのではないか。
などと思ってしまってはなかなかこういうトリックを駆使したミステリーものの読者としては失格なのだろう。
有り得ないだろう、そんなこと、と内心思いつつも、よくぞそこまで練りあげてくれた、と作者の労苦と知恵を賛辞するのが正しい読者なのかもしれない。

この「聖女の救済」という本、テレビでもおなじみになってしまったガリレオ先生の謎解きのシリーズの一刊である。

ガリレオ先生こと湯川先生曰く「この犯罪は虚数解」なのだそうだ。
虚数解、理論的には考えられるが現実的には有り得ない。

「有り得ない」と先に作者から宣言されてしまっているようなものだ。
先に宣言された以上、どれだけ突っ込みどころ満載の最終結末であろうと読者は今更突っ込めない。

うまいなぁ、東野さんは。

ということで、内容をこれ以上触れることはミステリーものには禁物だろう。

内容に触れない感想を今少し。

ガリレオのシリーズと知ってしまった以上、テレビで一度でも見てしまっている者なら、誰しも謎解き先生とどうしても福山雅治が被ってしまうだろう。

作者もかなりそれを意識している様に思える。
風体の描きもそうだろうが、それどころか本の中にまでその名前が出てくるのだ。
しかも二回も。

もちろん、その音楽を聴くというくだりでだけなのだが、日本の小説の中で日本の役者の実名が出て来ることなど稀有なのではないだろうか。

作者なりの演者に対するサービスの気持ちの表れと言ったところなんだろう。

そりゃあんまりだ。そんなやつおらんやろう、と誰しも考えてしまうような決してミステリー作品としても一級とは言えない作品なのだろうが、やはり謎解きのラストまでぐいぐいと読者を引っ張って行く力はこの作者ならでは、なのかもしれない。


16/Nov.2009
絶望ノート 歌野晶午

思ったよりかなり読み応えのある本だったのに驚いた。
冒頭から読み始めた時には、うーん、中学生のいじめに関する日記を延々と読むことになるのだろうか。などと嘆息してしまったのにも関わらず。

本の半分以上は中学生の日記、都度都度でその周辺の人たちが語り部になっている。

その半分に及ぶ中学生(主人公)の日記だけでも充分読み応えがあるのだ。
中学生の日記というにはあまりにも饒舌で表現豊かで、ってそれだけでもぐいぐいと引っ張られる。
ストーリーの合い間に書かれている世の中に対する批判めいた文章もなかなかに切れ味が鋭い。ビールの消費量を東京ドームの何杯と表現するメディアについて何杯分と言われたって実感が無いじゃないかと。それを不思議に思わない連中も無自覚だと。
そりゃそうだ。

ジョン・レノンと誕生日が同じで育った境遇が似ていて、ジョン・レノンをそのままCOPYしたような生き方をしようとする父。
母の名は瑶子。そして息子である主人公の名はなんと照音(ショーン)。
苗字が太刀川なので、あだ名はタチション。

バンドとして成功しなかった父は音楽の才能ばかりか、こつこつと働くという才能も無かった。
だから、仕事を辞めてまたまたジョン・レノンを真似てハウス・ハズバンドとなっている。従って父の収入は0。そこはあくまでもCOPYであってジョン・レノンではないから。
おかげで一家は貧しい。

照音の家にはゲーム機も無ければパソコンも無い。携帯も無い。照音は同級生から執拗ないじめを受ける。
なんかよくありそうな話だ。

方や「夢を持て」と言いつつ、将来なりたいものが小説家なら、もっと現実を見ろ、という教師。何の期待も持てない教師。これもよくありそうな話だ。

そのよくありそうな話がよくありそうでない話にどんどん展開して行く。

照音は、石を拾って来て、自ら作り出したオイネギプトという神が宿っているものとしてひたすら祈る。

その神である石がこの本の表紙に使われている石なのだろう。

絶望ノートとはいじめられている中学生の日記なのだが、ある意味デス・ノートの様な側面を持っているのだ。
それ以上突っ込むとネタバレになってしまう。

教訓その一。
言葉で言い表すよりも文章、しかも隠れて書いている日記という文章には説得力がある。
本当かなぁ。日記ってそんなに信憑性のあるものなのかなぁ、などと思ってはいけない。
いじめをひたすら隠す子の日記には真実があるものなのだ、あるものなのかもしれない。
いけない。いけない。
この本をネタバレ無しで紹介するのは非常に難しい。

教訓その二。
「中学生はこわい」
ぐらいの言葉でしめさせてもらおう。

絶望ノート 歌野 晶午 著


11/Nov.2009
筆に限りなし − 城山三郎伝 加藤仁

この本を見つけた時、もう伝記が出てしまっているのか。
亡くなった報道を聞いたのはほんのつい先日のような気がしていたのだが・・。
と思ったのが実感。

城山三郎さんには、もちろん本を通してであるがずいぶんお世話になった気がする。

『百戦百勝』では山種証券の創業者が描かれ米相場のことや、仕手戦のことなどこれまで知らなかった世界を教えて頂いた。
『雄気堂々』では渋沢栄一の志というものを教えて頂いた。
今や世の中デフレの時代。あちらこちらの業界で価格破壊が起きつつあるが、安売りの先駆であるダイエーの中内社長の行動力を描いた『価格破壊』。
『落日燃ゆ』ではそれまで知りもしなかった広田弘毅という文官では唯一A級戦犯となった人の潔い生き方を教えて頂き、
『風雲に乗る』ではモデルは日本信販の創業者だと思われる人が日本で初めて「月賦販売」という販売方法を行ったチャレンジ精神が描かれ・・・。

などと書いていくと切りがないほどに昭和史、もしくは昭和の経済史を教えて頂いたような気持ちがある。

これは昭和ではないが、圧巻はやはり『鼠』。
米騒動の発端の米の価格暴騰の最大の悪役とされ、焼き討ちにあった「鈴木商店」を大正時代の当時を知る生き残りの証人を見つけだして徹底的に調べ直し、「鈴木商店」の潔白を小説の中で証明してしまう。
これなどは歴史をひっくり返した作品と言っても良いのではないだろうか。

そんな城山三郎さんの生き様を、「城山三郎」と名乗る前の杉浦英一の時代から描いているのがこの「筆に限りなし」である。

城山氏が十代の若かりし頃、軍国少年であった事は折に触れ、本人が発言していた。
そのご自身の体験は『大義の末』を読むことで、戦前・戦後の正反対になってしまう価値観、またそこでうまく世渡りをして行く人間への軽蔑、憤り、というものを描いたことで、一読者としては一段落したものとばかり思っていたが、この伝記を読む限りそうでは無い。
城山氏は生涯を通じて「大義」を信じた時代と、「大義」を信じた自分と格闘していた。

また『輸出』に始まり『神武崩れ』、『生命なき街』、『大義の末』、『総会屋錦城』、『辛酸』、『乗取り』・・・などとそうそうたる作品を仕上げながらも、大学で教鞭をとることとの二束の草鞋を履き続けてまだ作家だけで飯を食うことには不安を持っていたなどと、後年の城山氏の読者にはにわかに信じがたい事が書かれている。

経済小説というものを書く事で文壇からは異端と言われ、足軽作家と言われた城山氏の心情を読者は知らない。

この作者、伝記といいながら城山氏をべた褒めしている訳ではない。
『落日燃ゆ』などは主人公に傾注しすぎであるとか、あの金解禁政策に賭けた名宰相浜口雄幸を描いた『男子の本懐』をして、踏み込みが足りない、執筆の熱気が薄まっている、とかなり手厳しい。

明治以前の日本の歴史は司馬遼太郎を師と思い、大正・昭和の歴史の師を城山三郎と思っている一読者にしてみれば、『男子の本懐』を貶されたのみならず、司馬遼太郎の作品が無自覚で、上から見下ろした俯瞰した視点で書いている、と切られる記述があるのはいささかショックであるが、やはりやむを得ないのではないか、と一読者としては思うのである。

真田幸村を主人公に描く人が徳川家康より真田幸村を魅力的に描くのは当たり前であり、広田弘毅を描く人が吉田茂より広田弘毅を魅力的に描くのは当たり前。

司馬遼太郎作品などは明らかに主人公が魅力的に書かれていることを承知の上で司馬遼太郎を読んでいる。

いずれにしろ、中には手厳しくもあるが、城山氏が如何に勤勉に自分の足を使った人であるか、自らの立脚点であった「大義」との決別を生涯風化させることなく持続させた人であるかを、この作者はあまりにも早い伝記にて教えてくれるのである。

城山三郎伝 筆に限りなし 加藤 仁 著


06/Nov.2009
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